c o m p l i c i t y   


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 指の間を滑る、冷たさと暖かさの混じり合う、土の感触。
 わがままな手の中で、押しひろげられ形作られる濡れた土の、あどけない従順と硬質の意志。
 失われた本来の姿を思い出すように、混沌の中から生まれ出る器の形を見つめる、その恍惚。
 まるで、肌を触れ合わせることなく行なわれる、セックスのような。

「憧れを捨てた人間は、醜いと思う?」
「満流(みちる)さんは、醜くなんかないから、憧れを捨ててないんだよ」
「そんなこと、訊いてないわ」
 雅人は、まばたきもせずに、目を凝らして見つめている。
 窓の外から、暗闇の室内に、月光は細く低く射し込んでいる。
 端正なその横顔が、光に淡く縁取られ、美しかった。満流は、その若い男の輪郭を、卑怯に感じた。
 暗がりに身を潜めていた満流は、男に銃を突きつけるように、右手をすっと伸ばした。腕の軌跡は、闇に白く弧を描いた。
 男の頬に手が触れた途端、手首を強くつかまれた満流は、月光のステージに引き摺り出された。
 バランスを欠いた身体が、たなびく。
 雅人は、彼女を荒々しく抱き竦めた。
 肩越しには、窓の外の竹林が、密談を繰り返しているのが写っている。満流は、映画でも見ているように、その様子をぼんやりと見つめた。密談は、風に途切れる。風は、黒く重く、死に搾取されるように、止まる。
「離してよ」
「嫌だ」
 渇ききった喉を必死に潤すように、唇を飲み干す。
 激しく絡めた舌は、熱すぎて、辟易する。
「私は、初めから憧れなんて持ってないの」
 満流は、身体を引き離しながら、言った。
「アーティストのプライドなんて、欠片もないしね」
 雅人は、黙りこくる。満流は、浴びせかけるように続ける。
「あなたみたいな夢見る坊やは幸せだわ。あとで幻滅されて、惨めになるのは私の方」

 土にまみれて汚れた手を洗うと、いつでも、爪のあいだに洗い残しがあった。どんなに留意して洗っても。満流はいつも、それに苛立った。
 殺人犯も、血にまみれた手を、こんな気持ちで洗うのかしら?
 何度拭っても、赤黒くこびりついた血は、取れないだろう。
 洗面台を流れた赤い水も、跡が残って、消えることがないだろう。

 にわか雨に湿った空気が、肌の上でもたつく。
 内包されたかすかな臭気が、シャボンの様にはじけては、消えていく。
 沈黙が、流れた。
 視線は、凸レンズのように熱を凝縮し、満流は、目許に火傷をしたかのように感じた。
「幻滅なんて、しないよ」
 雅人は、満流の両手首を重ねて、高く持ち上げ、壁に押しあてた。
 上腕の内側の、白い肌があらわになった。
「あなたは、自分を卑下しすぎているよ」
「偉そうに。何がわかるのよ」
「わかるよ」
「少しもわかってなんかないわよ」
 雅人は、握った手に力を込めて、肘から胸にかけて降りる曲線を見つめた。
 壁に強く押しつけられている背中が少し痛み、満流は、わずかにしかめた顔を、逃れるように激しく横へ向けた。
 細い首に浮き立った筋が、震えていた。
 雅人は、そこへ、ゆっくりとくちづけるように視線を留めた。
「わかってなくても、いいよ」
「そう」
「あなたのしたいように、僕はするから」
 横切った雲が、月明かりを切り取る。
 ふたりの間を、闇が流れている。
「何をしてるのよ。早く抱きなさいよ」

 肘から下へと両手を滑らせながら、雅人は、満流の額に自分の額を押しあてる。息が混じり合って、対流を生む。
 雅人の目尻が、わずかに光っているような気がした。
 月光に透けた髪の毛に、指を絡ませ、満流はそれを突然に激しく引っ張る。額が離れる。
 雅人は、痛みを角砂糖のように、味わう。
 満流の絹のシャツが、皮をむくように剥ぎとられる。その残骸が彼女の手首に絡まって、ぶら下がっている。
 満流が雅人の首筋に手をまわすと、絹の滑らかな冷ややかさがそれに続いて、肌をくすぐった。日に焼けてはいないのに、男の肌は浅黒かった。
 彼は、絹の感触に、おずおずと自分を売り渡していく。
 満流は、死んだように動かない。
 少しだけ開いた唇から、心持ち斜めに生えている前歯の一本が、覗いている。そこへ注がれる雅人の不安を、彼女は無言のまま、飲み込んでやる。長い長いくちづけに、彼女の唇は、痺れて感覚を失った。
 満流は、投げやりな無関心さのまま、彼を受け人れた。
 海は荒れ始めて、漂流に無頓着な彼女も、事態に気が付く。それでも彼女は、自分から動くことがない。
 甲板に穴が開いて、水がなだれ込む。彼女はようやく叫んだ。
 船は波にのまれる。天地が逆転する。
 彼女は身を委ねる。
 砂浜に打ち上げられるとき、彼女はいつも、独りきりであることを確認した。冷たい砂が、肌の上でざらざらと泣き、とても気持ち良かった。

          Ψ

 個展の準備が終わり、満流は、展示された自分の分身たちを、俯瞰するように大きく眺めた。
 危なっかしく、倒れそうに、せつなそうに並んでいる、彼ら。
「何か、あなたの作品には、不思議な緊張感がありますね」
「そうですか?」
「暖か味のある土の色に、とてもシンプルな形なのに、なぜか危険な、不安定な感じがするような」
「それは、やきものとしては、大きな欠点ですね」
「いえ、そういう意味じゃないんですよ。すごく独特で、存在感があるんです」
 満流は、本当に照れくさくなったかのような苦笑を演じた。
「そんなに大それた主張なんて、込めていませんよ。私なんかがいい加減な気持ちでやって、個展まで開かせていただいて、真剣に長い間取り組んでいらっしゃる方から見たら、腹立たしく思えるでしょうね」
「そんなことはありませんよ。一番作品の価値がわかるのは彼らですからね。雅人くんなんか、すっかりあなたの作品のファンですよ。彼をご存じでしょう?」
「ええ」
「彼はいい青年ですよ。彼の個展も、早くここで開いてやりたいですね」
「そうですね」
「それじゃ、私はこれで。お父様によろしくお伝えください」

 会場の明かりが消され、満流は、分身たちと永遠の別れをしたような気がした。この手を離れたものは、もう、自分のものではなかった。
 共有したのは、感覚だけ。不確かで、よりどころのない、刹那の高揚。すべてが掻き消されたあとの静けさは、うまれたての海のよう。
 外へ出ると、夜の冷気が肩に降りて、虚しさを胸に閉じ込める。
 物語の主人公を気取ったように、壁に寄りかかり俯いていた男は、静かに歩み寄ると、満流の肩を抱いた。
「寒いだろ?」
「平気よ」
 満流は、雅人の手を払いのけて、歩き出した。
「ここのオーナーが、あなたのことを話してたわよ」
「なんて?」
「いい青年だから、個展を開かせてやりたいって」
「ほんとに?」
雅人は、無邪気に眼を輝かせている。
「ばかじゃない。単純な男」
「どうせ俺は、夢見る坊やだからね」
 雅人は、助手席のドアを開ける。満流を振り返って見つめる。
「どうぞ。お姫様」
 満流は、当然のように乗り込んで、運転席に座った男の顔を、哀
れむような眼をして見ている。
「お姫様には、白馬の王子様が現れるものよ」

          Ψ

 へッドライトが、九十九折の道を、追いかけるように照らしていく。強く不自然な光の中に生じた幻を、次々と跳ね飛ばしていくように。記億の糸を辿って、どこか別世界への扉を探すように。
 アスファルトに跳ね返る光は、次々に四散して、騒がしい。
「満流さんは、昔と少し変わったみたいだね」
「昔って、まだ子供の頃のことでしょう」
「そう。すごくおとなしくてね」
「今は騒々しいですか」
「ほら、そういうところがね」
 岬の笑顔は、人に反感を覚えさせるほど、自信に満ちて見えた。
 満流は、まっすぐに前を向き、フロントガラスに写り込む、淡い光跡を見ている。
「生意気な女になったってことね」
「そうそう。よくわかってらっしゃる」
 岬は、満流の反応を確かめるように、すばやく一瞥を与えた。
 満流は、無表情のまま、車の計器類に目を落とす。その針が動いて、少しスピードが上がった。
「ずいぶん、安全運転ね」
「恐い?」
「別に」
 満流を試すように、岬はアクセルを緩めない。
「このまま事故ったら、どう思われるだろうね」
「どうって?」
「心中でもしたと思われるかな」
「まさか」
「世間体が気になります?」
「誰に何を言われたって、私は平気よ」
「じゃあ、ためしてみようか」
「ふざけるのもいい加減にして」
「冗談だよ。今、少し本気だったでしょ」
 岬の、1ミリも動かない表情に、満流は憤慨を露にして、まっすぐ横顔を射るようにして見続けた。
 対向車のライトが、時折、その横顔を掠めていく。そのたび、表情のない顔は、より一段と色を失っていくように思えた。
 空白が、新しい大陸を生む瞬間に、世界は、こんな顔をしているだろう。

「岬さんは、私と少し似てるわね」
「どうして?」
「どうしてかしらね」
 暗黒の底に達した闇が、とぐろを巻くように蠢いている。
 その空気の中に滑り込むスピードは、ある一点を越えると、異なる次元に突入する力さえ、持つように思われた。
 満流は、心の中で、アクセルを全開にした。
 スピードメーターの針は、それと裏腹に、危険域から遠ざかった。
 岬は、薄い笑みを唇に浮かべているようだ。満流は、心の中を見透かされているようで、ぞくりとした。
「僕達が似ているとしたら、どんなところだろうね」
「どこかしらね」
「現実的なところかな」
「私は、現実的に見えるのかしら」
「少なくとも、夢見る少女には見えないね」
 満流は、自分が雅人に投げた言葉を、思い出す。そして、そこから何も感じない自分を、彼女はただ、味わった。
「岬さんも、自分の野心のためなら、平気で恋人も売り渡すような人に、見えるわね」
 岬は、声を立てて笑った。
「きついこと言うね。でも当たってるかも」
「当たってちゃ、困るわよ」
「満流さんが、困ることはないだろう」
「困るわよ」
「やさしいんだね。意外と」

 星の降る夜。
 数え切れない星たちの、すべての光がここへ届いたら、この天球は光で埋め尽くされてしまうのだろうか。
 真っ白な夜は、何もかもを暴き出す、残虐な空間。
 悪夢を見るための、隠れた闇さえ、そこには生息できない。
「やさしいとかやさしくないの問題じゃなくて」
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題?」
 満流は、まじまじと岬を見る。神経質そうな鼻筋。薄い唇。
「岬さん」
「なに?」
「泉水のこと、どう思ってるの」
 切り出しにくかった名前をロにして、満流はほんの少し安堵する。
「その質問の、意図は何?」
「泉水を岬さんに任せるのは、心配になってきたの」
「満流さんが心配することはないよ」
「どうしてよ」
「僕は、彼女の前では、こんなに意地悪じゃないから」
「それならそれで、心配じゃない」
「そう?」
 岬は、他人の噂話でもしているように返答する。
「本性を出さずに、どこまで行くつもりよ」
「何が本性だか、自分でも分からないからね、僕は。満流さんこそ、本性を出したら」
 繰り返したシミュレーションは、いとも簡単に裏切られ、役に立たなかった。満流は、空回りして走り出す感情を持て余して、唇を噛んだ。
「あなたは、私と同じくらい、悪い人間だと思うわ」
「だから、少し似ているって言ったのか?」
「そうかもね。だから、わかるのよ」
「何が?」
「泉水が、苦しむことになりそうなのが」
「もうやめない?本当は、そんなことを話したいんじゃないでしょ」
 車は、止まった。
「さあ、着きましたよ。お宅に」
 星に押しつぶされそうな空間に降り立って、少し胸苦しい。
「ついでとはいえ、送っていただいてありがとう。泉水は帰ってる
かしらね」
 心の中に、鍵をかけてしまいこんだ古いおもちゃが、箱の中でかたかたと音を鳴らして、満流を責めた。
 疼く痛みは、いつも、生々しかった。

          Ψ

 露出過剰の写真のように、部屋は、真っ白な光に煙っていた。
 障子を通して差し込む光は、まろやかに酔いどれ、擦れるような音を立てて、壊れつづける。
 よく晴れた日曜日だった。
 泉水の手首の、ブレスレットのような飾り時計が光って、金色の輪が宙を舞った。
 笑うとこぼれる白い歯は、贋物かと思えるほど、非現実的に整って並んでいる。厚みのある唇は、ねっとりとした珊瑚色のグロスで、艶めいている。
 泉水は、化粧の仕方で、とても大人びて見えたり、幼く見えたりした。そしてそのことを、自分でよく知っていた。
 満流は、自分と少しも似ていないと思われるその顔を、盗み見るように覗いては、目を逸らした。
 泉水は、どこから見ても、完壁に思われた。その完壁を、阻害するものは、何もない。完壁とは、それ以外のものを、すべて飲み込んでしまう力だ。
 パンドラの匣は、開かれようとしている。
 論理的な支配の、完全な忘却。
 手綱を握るのは、いつでも、強いものだった。

 その和室には、泉水の生けた花が、飾られていた。
 安定した黄金のバランスに、秩序は、奏でられている。岬がそれを褒めると、泉水は、嬉しそうに笑った。
 満流だったら、大袈裟に美しさを誇る一輪の花を、目一杯不安定に、剣山に突き刺しただろう。
 その美しさを、覆すように。冒涜するように。
 そして、自らの指を勢い余って突き刺して、その飛び散った赤い血で、花の降伏を彩っただろう。

 視線は交錯し、赤外線のように、見えない糸を張り巡らす。
 緊張のなかに、沈黙がロを滑らすと、すべてが焼け焦げてしまいそうに思えた。
 泉水は、空洞のようにも見える黒目がちの目を、岬に向けている。岬は、目配せのような意味ありげな表情を、瞳の中にちらつかせながら、満流を見ていた。満流の、行き場をなくした視線の先で、泉水の唇が、わずかに微笑んだ。
 結末のない物語は、永遠に勝負のつかない、電脳と電脳のチェスのよう。
「個展の準備は、終わったんでしょ」
「うん」
「言えば何か手伝ったのに、お姉ちゃん、何も教えてくれないんだもん」
「泉水が来たって邪魔になるだけよ」
「ひどい言い方ね。ねえ、岬さん」
 高くて、よく通る声だった。典型としての、甘えた女の声に近い。
「言ってくれれば、僕も邪魔しに行きたかったな」
 岬は、満流を見ていなかった。満流も、岬を見ていなかった。
「いいのよ。父がいろいろ手配してくれちゃったから、私も大したことしてないの」
「でもほんとに、お姉ちゃんはいつも、大事なことを何にも言わずに決めちゃうんだから。昔からそうだったけどね」
「そうかな」
「そうだよ。いつも、何考えてるかわかんないの」
「よく言われるわね。そういうふうに」
「いいんじゃないの?ミステリアスな女っていうのも」
「岬さんふざけないで。ほんとにお姉ちゃんはひどいんだから。こっちが心配になるくらい」
「別にあんたに心配してもらわなくても大丈夫よ」
「だって」
「まったく姉思いのいい妹だわ。私は幸せだわね、岬さん?」
「そうだね」

 一日は、塵よりも軽く、吐息に吹き飛ばされるように終わっていく。その軽さも、スケジュールの一部だ。
 自室のドアを閉めると、満流は、大きく息をついた。零れたため息は、篭もった部屋に充満する。
 導火線に火のついてしまった、ダイナマイトのような心。ドアに背中を預け、俯くと、理由もわからず涙が溢れた。
 ジャケットを脱ぎ捨てて、べッドに身を投げ出すと、満流は、声を潜めて泣いた。
 自分の肩を抱くと、冷えきった指が哀しかった。
 指を温めるように、肌の上に滑らせる。
 壊れたオルゴールが、鳴り響く。意識が遠のいた。
 満流は、自分が何を望んでいるのか、解からなかった。

 赤い蠍がやってきて、囁いた。
 甘い闇に蕩け出すその気配は、戦慄さえ、奪い取る。
 爪先から這い上がると、蠍は、白い肌に跡を残すように、ゆっくりと歩いた。
 足を動かす度に、微かな機械音のような、無機質な音がした。
 赤と黒が絡み合う、その卑猥な雑音は、ボリュームを上げる。
 汗ばんだ内腿を伝うその姿に、目を凝らす。
 妖艶な殺気が、ぬめぬめと、蜂蜜のように流れる。
 蠍は、臍の窪みを丁寧になぞって、歩きつづける。
 唇が蒼ざめて、震える。
 胸の中心を越えて、満流の目の前に、蠍はやってきた。
 ぴたりと動きを止めた蠍は、じっと、時を待った。何かを問いかけるような、空白。
 満流は、強く目を閉ざした。
 私のかわいい蠍。私の分身。

 鏡を見つめると、そのなかの自分が、歪んで見えた。満流は、急激な頭痛を覚えた。
 流したままの蛇ロから、温水がこぼれ続けて、湯気が鏡を曇らせている。
 今までとは違う人間が、そこに写っていたらいいのに。
 指で湯気を拭きとると、そこに姿を現した輪郭は、あいかわらず何も語らなかった。両目の下の薄い皮膚が、紫色の影を滲ませる。
 病人のような肌の色は、蛍光灯のせいだけではないと、彼女は思う。
 淡々と、流れ続ける水の音以外には、何も聞こえない。
 立ち退くことを宣告された魂が、瞳の中で光を点滅している。切れかかった蛍光灯のように、みすぼらしく。
 満流は、自らを愛することを、望まなかった。
 だから、いつも、自らを慰めた。

 電話の向こうの掠れた声に、雅人は驚いていた。
 震えて、擦り取られたような声だった。こんなに弱々しい彼女の声を、聞いたことがないと、彼は思った。
 甘えることを知らない女性だと、思っていた。
「嘘をついてね、お願いだから」
「何のこと?どうかしたの?」
「本当のことは、言わないで」
「何言ってるのか、わからないよ」
 雅人は、動揺とともに、走り出す期待も隠さなければならなかった。ロ元が綻んでくるような気がして、意識して、顔をこわばらせる。
「何にも訊かないで」
「それじゃわからないってば、満流さん」
「私はいやな女よね」
「どうして?」
「いやな女なの」
「僕はそう思わないよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「嘘をついてって言ったでしょ」
「何をふざけてるんだよ。酔ってるの?」
「酔ってなんかいないわよ」
「でも、普通じゃないよ」
「そうだね。私、狂ってるから」
 雅人は、手に負えない状況を、楽しみ始めている。ものまねをするカナリアが量産するような、その独占欲。彼は、自分をおぞましく感じた。
 手のなかの小鳥は、どうにかして籠に人れて、安心しなければならない。
「泉水はね、結婚するのよ」
「妹さんが?それはおめでとう」
「私は、あの娘みたいになりたかったの」
「え?」
「小さいときから、ずっと、私は泉水になりたかったの」

 割れたガラスの破片を集めるように、時は過ぎた。
 注意して、目を凝らして、透明な破片を集めて、それでもガラスは元に戻らない。そして油断したとき、拾い損ねた破片で、ひどく足を傷つけるのだ。
 破壊と、その修復への永遠に閉ざされた願望。
 生きるということは、ただそれだけのことなのかもしれなかった。
「満流さん、聞いてる?」
「私は、最低だよ」
「そんなことないよ」
「たすけて」
「え?」
「雅人。たすけてよ」
「・・・肋けるよ、僕が」
「本当?」
「本当だよ」
 雅人は、訳の解からぬままに、同意を繰り返す。籠のなかに入れば、小鳥は落ち着くはずだ。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ。嘘がつけなくて悪いけどね」
「もう嫌なの」
「え?」
「もう何もかも嫌なの」
「いいよ。全部放り出しちゃいなよ」
「今すぐ来て」
「今すぐ?しょうがないなあ。わかったよ。待ってて」

          Ψ

 夜の竹林は、果てしない夢のなかに、身を委ねていた。
 夜露に湿った空気が、気配を察知して、武装する。
 闇は、黒い鳥の群れとなり、一斉に、空へと飛び立った。
 茂り過ぎた葉が揺れて、月の雫が垂れる。
 生暖かい息が、腐敗する。

 満流の長い髪が、青い艶をたたえて靡いた。
 振り向いた涼しい顔に、涙の跡はなかった。
 息を切らせて、雅人は立ち止まった。
 呼吸の音だけが、やけに大きく響いている。

 白いスカートに泥が眺ねて、不規則な模様が、計算されたように描かれていた。その模様は、二本の脚にも、続いている。
 満流は、竹にもたれかかって、重なり合う葉の向こうの、墨色の空を見上げていた。顎の輪郭が、炙り出したように、白く浮き出ている。
 流れる雲のあいだに、銀色の細い月が姿を見せては、世界と戯れているかのように、また姿を消した。
 心臓は、まだ、激しく脈打っている。
 溢れて流れ出した水のように、満流の魂は、滲んで風景に同化した。
 無心になることを意図して、窓を開け放つことは、満流の習慣になかった。だから、いつでも、いつのまにかこぼして無くしたものには、気がつかなかった。
 足元を見ない満流の無関心を償うように、雅人は、彼女の足元に跪いた。
 泥の散った白い脚は、動かなかった。
 樹脂の煙るような匂いが、微かに流れていた。

 小鳥は、飛ぶための本能を失い、あずき色の空から落ちた。
 尖塔に突き刺さった翼は、動かせない。糸を引くような、粘質の痛みがつづく。
 そこでそのまま腐っていくのを待つか、風見鶏に生まれ変わる道を開拓するかは、彼女の選択に任されている。
「哀れまれているのは、私なの、あんたなの?」
「当たり前だろ、僕のほうだよ」
「誰も私のことなんて、哀れんでもくれないわね」
「哀れんで欲しいの?」
「欲しいと言ったら、どうするのよ」
「どうにもできないな。ただ、僕にはあなたが必要なだけだ」
 満流は、ひきつった小さな笑いを漏らす。
 雅人は、黙って満流を見ている。鋭い眼差しが、彼女の胸に突き刺さる。満流は、笑いつづける。
 雅人は、自分が笑われているとは考えない。満流は、何が可笑しいのか、自分でもわからない。
 沈黙のあと、満流はゆっくりと膝を折り曲げ、雅人の前に屈むと、光のない瞳で、空を見つめるように、言った。
「私は、自分が何を必要としてるか、わかったためしがないわ」
 幼い子供がままごとでもしているように、ふたりはうずくまったまま、膝を突き合わせていた。
 長い間、それぞれ、自らの爪先を見つめながら。

 思い出そうとすると、漠然とした感覚だけを残して姿を消してしまう、夢のなかの物語。
 捉えようと手を伸ばすと、たゆたう光の輪は、幻となった。心のなかに、しこりを残したままで。
 満流は、できることなら、このまま森のなかの一本の木になって生きたかった。運命に不満を持たず、何も作りかえる必要もなく。
 すべてを受け入れて、大きく枝を伸ぱして。
 深い色が織りなす、斑な影が刻まれた腕は、植物のイオンを呼吸する。
 ざわめきに同化するために、満流の血は、ゆっくりと流れた。

 雅人は、一瞬の空白を永遠に感じ、闇の出入りする心は、扉を閉じたくてうずうずしていた。
 明確な答えが与えられない限り、彼は苦しんだ。自分を駆り立てるものに、憎悪にも近い愛情を抱いて。
 満流の膝に触れると、泥は身体の熱で乾いていて、ぽろぽろと剥がれて落ちた。
「満流さん。僕はあなたがよくわからない」
 満流は、黙って聴いている。
「どうしたら、心を開いてくれるのか、わからない」
 初めて聴く外国語の響きを味わうように、満流は、その声を味わった。
「何とか言ってくれよ」
 満流は、人形のような顔を向けた。

          Ψ

 訪ねてきた岬は、サングラスのレンズ越しに淡い灰色の影の落ちた眼差しを、満流に注いで離さなかった。
「何しに来たの」
「僕は客だよ。ひどい作家さんだなあ」
「まるで、嫌がらせに来たやくざみたいよ」
「そう?それは褒められてるのかな」
 窓の外では、タ暮れの余韻が、雲間に煙っている。
 人気のなくなった空間に、ふたつの足音が、こだましている。
 電磁波が充満しているようなその空間で、密になった空気がひび割れる。
「君は、創る人じゃないね。壊す人だね」
 満流は、背中を向けたままだ。
「何もかも打ち壊してやりたいっていう衝動だけがあるみたいだ。こいつら全部、設定された時刻に自動的に砕け散りそうな感じ」
 並べられた器たちは、それでも、息を潜めて佇むだけだった。
「自爆装置は、ここにあるだけよ」
 満流は、自分の胸を指さして、言った。そして、その直後に、その言葉を後侮した。
「どうせなら、自分じゃなくて、他人を破壊すればいいのに」
「そこまで、恨みに思う人間なんて、残念ながらいないわね」
「僕は?」
 岬は、いつものように嫌みな笑みを浮かべているだろうと、満流は思った。しかし、その予想は、外れていた。
「どうして、私が岬さんを恨まなきゃいけないの」
「いや、別に」
 満流の心にも、空気のひび割れは伝染したようだった。その裂け目から、涙のように流れたものが、曇った鏡をきれいに洗った。
「そんなに、僻まなくてもいいわよ」
「鋭いね。割と本質、見抜かれちゃってんのかな」
 完全防備の隙間に、ほんの少し、光の射した笑顔が見て取れた。
 兆しは、それを待たないときに、突然訪れる。
 鏡に写った素顔は、意外なほど、無垢な表情をしていた。

 いつか見た夢のように、その道は、どこまでも長く伸びていた。
 平均台のように細い道を、高速で走り抜ける。
 彼方に光が見えても、満流は、すぐに道をそれて大破してしまった事故車のような自分しか、想定したことがなかった。
 思いのままに走る自由は、常に、惨めな結末と抱き合わされていた。
 満流の祈りは、機能しない。
 時計の針を早く回しても、時の流れが追いついてくることはない。

 岬は、サングラスを外した。
 野生の猫のような瞳は、あいかわらず、そこにあった。
 満流は、強い放射熱に灼かれた魂を、放り出したかった。
 砂漠の真中で、すべてを無くして。
 それでも、何も信じていないはずの彼女の心は、すべてを捨ててはいなかった。
 これから焼却されるもののリストを作るために、満流は、岬を強く見つめた。
「どうしたの。そんな眼をして睨まないでよ」
「だから、訊いたでしょ。何しに来たのよ」
「君に会いに来たんだと思うけど」
 満流は、器のひとつを手に取り、ほんの僅かに向きを変えて、置き直す。
「どうして私に?」
「どうしてだろうね。何となく」
 岬は、外したサングラスを手の中に持て余していたが、思い出したようにポケットに差し込んだ。
「私に会いに来る暇があったら、泉水のところに行ってあげなさいよ」
「それもそうだね」
 両手が空いたら空いたでやり場がないので、岬は腕を組む。
「いつも仕事が忙しくて大変だと、あの娘は思ってるわよ」
「全然忙しくなんかないけどね。どうせ親父が仕切ってるし」
「御子息は、いい御身分ね」
「それは、君も似たようなもんだろ」
「退屈だわね」
「そうだね。何でも思うままになるのは、退屈だね」
 岬は、満流の眼のなかに揺れた影を、見逃さなかった。
 青白い炎の温度は、とても、高い。
 不純物は焼き尽くされて、そこに残った核は、必要不可欠な情報だけを、呈示している。
 織り合わされた螺旋の形を見つめる眼は、熱して弾けた。

「泉水はどうして、岬さんを選んだのかしらね」
 満流は、思わせぶりに訊くことを、失敗している。
「さあ。財産目当てでないことは、確かだけどね」
「岬さんは、どうして泉水を選んだの?」
「あんまり物事に理由をくっつけたがらない人間なんだよ、僕は」
 岬は、苦笑する。
「泉水は、その理由を欲しがることはないの?」
「今のところはね」
「っていうことは、これからはあり得る?」
「先のことは、考えない主義なんだ」
「無責任」
「そうだよ」
 満流の瞳は、泳ぐ。
「たぶん泉水は、何も答えなんか欲しがらないわよ」
「そうかな」
「ただ、その前にあなたを捨てるかもね」
「そう?どうして?」
「何でも思うままになるのは、退屈でしょ」
「僕達は、結構退屈が好きなのかもね」
 僕達という括り方に疎外された、満流の心は塞がれた。せき止められ、渦巻いた潮の流れが、激しくなった。
「私は、退屈なんか大嫌いよ」
「そう」
「ただ恐いだけでしょう、何事もない平穏を失うのが」
「そうかもね」
「そうよ、それだけよ」
「リスクを冒してまで、欲しいものなんかなかったからね」
「私には、あるわ」
 満流は、当てもなく流される自分を抑える術を、持たない。彼女は、今を生きていない。
 できることといえぱ、目前にあるその眼差しを見つめるだけ。
 高ぶる心に任せて分泌させた涙が、零れて頬を伝った。
 演じている女と、演じさせている女は、長い間同居したおかげで、似通った容姿をしていた。
 それを見ている女は既に、何の判別もつけられなくなっていた。
 批評など書きようもなく、ただ逃げ出すしかなかった。
 敗北の苦い味は、塩辛さと混じり合って、舌を突き刺した。
 あわてて背を向けて涙を拭いながら、満流は、背中で岬の気配を探した。視線を感じる首筋が、焼けたようにちくちく痛んだ。

岬は、腕を組んだまま、満流の背中を眺め続けている。
 空気のわずかな振動さえ感知して、満流はひび割れてしまいそうに見えた。
「君の涙を見た奴は、そう多くはいないだろうな」
 ベルベットのようなその声のトーンは、彼女が初めて聞くものだった。やや滲んだ低音が、その輪郭を丸くしている。
 満流の意識のなかで、さまざまな過去の記憶が、秩序なく、でたらめに浮かんでは消えた。私は、死んでしまうのかしら、満流はそう考えた。人は、死を前にして、いくつかの原色のシーンを振り返るという。なんて、ありふれた話だろう。だが、これが単なる目眩でなかったらいいのに。

 幼い日の、満流と泉水がいる。
 芝生の上で、水を掛け合って戯れている情景だ。
 泉水の濡れた髪を拭いている、淡い桃色のタオルと、母の手の白さ。満流は、残されていた紺色のタオルを頭にかぶり、じっとそれを見つめた。無理矢理桃色のタオルを奪い取ると、泉水は、空を引き裂くような甲高い声で、泣いた。
 タオルは奪えても、母の手は奪えないことを、満流は知っていた。
 満流のお母さんは、お星様になったのよ。泉水の母は、満流にそう言って聞かせた。
 それは、真実でないことを、彼女は知っていた。
 賢い子供であったために、血のつながらない母は、満流に手を焼いた。すべてのごまかしや、辻棲合わせは、ことごとく見抜かれた。
 満流は、次第に、世界を諦めで充たすことを覚えた。
 私は、いつ、お星様になれるの? 母を困らせるために、満流はよくそう尋ねた。

 岬の手が、満流の肩に置かれた。身体が岩になってしまったように硬直するのを、彼女は感じる。
「なんだか、何もかも、ばかばかしいことばっかり」
 振り返っても、岬の目を見られないことが、わかっていた。
「私は、こんなモノを作るために、生きてるわけじゃないのに」
「じゃ、何のために生きてる?」
 その言葉を待っていたように、岬は、即座に尋ねた。
「そんなこと、答えられるの?」
「考えないほうがいいよ。そんなことは」
「あなたが、訊いたんじゃない」
 平静を取り繕うことに長けた満流の手は、躊躇して、無駄な動きが多くなる。
「考えるなよ、そんなこと」
「考えてないわ、最初から」
「暇潰しにしてること、それでいいじゃない」
 満流は、勢いよく、振り返った。岬は続ける。
「誰だって、そうやって過ごしてるんじゃないの」
「私はやっぱり、あなたが大嫌いだわ」
「ほらね。やっぱり、嫌われてるだろ」
 岬の瞳は、優しい光をたたえていた。
 満流はそれに気づかずに、手指の爪をじっと見ていた。

          Ψ

そうだよ、何もかも壊しちまえよ。
 心のなかで、蠍が囁いていた。電流の刺激のような毒が、身体のなかを流れ回る。
 その声は、徐々に、気配もなく、大きくなっていく。
 繰り返される祝祭のビートに、我を忘れるように、やがて意識は、チルアウトする。何かが眠りにつき、何かが覚醒する。
 白い光が一筋落ちて、満流の心の水面で、屈折する。その角度が、すべての捻れを、象徴している。

 泉水は、チョコレート色の革が張られたソファーに身を沈め、何かを夢中で読んでいる。
 厚手の絨毯が足音を吸収し、泉水は気づかない。満流が背後に立つと、泉水は驚いて振り返った。
「うわ、びっくりした。何よ、驚かさないでよ」
 覗き込むと、ウェディングドレスの写真が並ぶカタログを、手にしている。
「ちゃんと、教会とかで式を挙げるつもりなの?」
 満流は、ありふれた言葉を探す努力を、惜しまない。
「そうだよ。当たり前じゃない」
「そういうのが、夢だった?」
「まあ、人並みにね」
 泉水は、自分の笑顔を鏡に写して見ているように、微笑む。
 化粧を落とした泉水は、案外に子供っぽい顔をしている。しかし、その微笑みの陰には、世事に長けた表情が、見え隠れする。
 満流は、それを見ると、自分自身の頑なな甘えを、いつも再発見させられた。
「お姉ちゃんも見てよ。どういうのがいいかなあ、ドレス」
「ひとになんか訊かないで、自分で決めればいいでしょ」
「でも、好きなのと似合うのは違うって、よく言うし」
「似合うって言われれば、嫌いなのでもいいの?」
「うーん。でも、みんながいいって言うなら考えるかな」
「私だったら、自分が良けりゃいいと思っちゃうけどな」
「お姉ちゃんらしいね」
 習慣化された、波を立てない努力が、冷えた空間を彩る。
「なんか可笑しいな。あんたと岬さんが、神父さんの前で、誓います、とかってやるの?」
 岬が殊勝な顔をして立っているのを想像すると、満流は本当に可笑しくなって、笑いころげた。
「何がそんなに可笑しいのよ?」
「岬さんが、自分の結婚式でどんな顔するのかと思うと。どう考えても笑えるわね、あの人」
 泉水は、不意に表情を無くす。姉をまじまじと見る。
「ごめん。未来の旦那さまを笑ったりして」
「なんでお姉ちゃんはそんなに岬さんのことよく知ってるのよ?」
「なんでって。別によくなんか知らないけど」
「そんなに親しげなロをきいてるじゃない」
「そんなこと、ないわよ」
 満流の心は、冷たく、凪いでいた。

 泉水は、納得しなかった。
 満流は、間接照明が天井にバウンスして、拡散されるその軌跡をじっと見ていた。
「お姉ちゃん、知ってる?」
 深刻な顔をした泉水は、母親によく似ている。満流は、そう思う。つくりのはっきりとした、整った顔立ちに、根拠のない放心がたなびく。それが、最も密度の高い、感情の噴出の形だ。
「お姉ちゃんのお母さんは、お姉ちゃんを産んですぐ死んじゃったけど、パパは、ずっと忘れられなかったんだよ」
「どうしてそんな話するの」
「ママは、ずっと苦しんでた」
 泉水は、自慢をするようなロ振りで、言う。
「そんなこと言うもんじゃないわよ」
「だって、本当だもん」
「あの人たちは、いい夫婦だったわよ。どこから見ても」
 満流の声は、濁る。
「周りには、そう見えたでしょう。でも、ママは自分がずっと誰かの身代わりなんだと思ってた」
「そう言ったの?」
「はっきり言うわけないけど、そのくらいのこと分かるよ」
 平行線をたどる視線は、すれ違い、重なり合うことがない。
 満流は、眼を伏せた。
「なんでそんなことをいまさら言うの?私のせいなの?」
「別にそんなこと言ってないじゃない」
 満流には、母の苦しみも、理解はできた。
 亡霊におびえる女にとって、その亡霊に生き写しの娘を愛することがどれほど難しいか、想像するのは容易かった。
「お姉ちゃんは、いいね。美人だし、頭がいいし」
「なに言ってんのよ」
「お姉ちゃんが羨ましい」
「馬鹿なこと言ってないで・・・」
「お姉ちゃんなら、何をやっても独りで生きてけるね」
 畳み掛ける泉水は、挑むような眼をしていた。満流は、少したじろいだ。妹のなかの、迷いなく発露された激しさを、これまで正面から見据えたことがない。互いに、それを避け続けてきたはずだった。
「誰だって、独りで生きてるんじゃないの?」
「でも、お姉ちゃんは、独りが好きなんでしょ」
「そうかもね」
「そうよ。だから、羨ましいの。独りでも寂しくなったりしないなんてね」

「岬さんも、独りが好きみたいよ」
「そう」
「自分の世界があって、そこには立ち入っちゃいけないみたいな感じ」
「そうなの」
「お姉ちゃんなら、そういう気持ちが分かるんじゃないの?」
「わかんないわ」
「どうして、私も立ち入っちゃいけない部分をあんなに抱えてるのかな」
「わかんないわよ。あんたが勝手にそう思ってるんじゃないの」
「結婚しても、ずっと同じなのかな」
「わかんないってば。本人に訊きなさいよ」
「そんなこと、どうやって訊くのよ」
「卒直に訊けば、もしかしたら、その自分の世界っていうのに入れてくれるかもしれないでしょ」
「そんなの、恐いな」
「どうして?」
「私も、誰かの身代わりだったらどうしよう」
 泉水は、組んだ指の上に顎を乗せて、虚ろな瞳を泳がせた。
 しかし、どんな弾丸も彼女のことを避けて通るだろうと、満流は思った。
 悲しみが訪れる、その足音も聞こえないうちから、泉水は、もう其処を後にすることだろう。そのエラスティックな才能は、決して、満流の裡には属さないものだった。
 茫然として、ただやってきて去るものを見続けるだけの、満流の怠惰とはまるで違う種類の才能。満流は、泉水を羨ましく思う。
「泉水だって、誰かの代わりに、岬さんを選んだのかもしれないわよ」
 泉水は、目を見張って、姉を見つめた。満流は、続ける。
「いくら愛を誓ったって、それが代用品かどうか、自分だって分からない。気がつかない。そうでしょ?」
「そんなことないわよ」
「そりゃ初めは、代用品だなんて思う人はいないわ。でも、ずっとそうとは限らない」
 泉水は、少し大袈裟に、哀れむような表情を浮かべた。
「どうしてお姉ちゃんは、そんな虚しい考え方しかできないの?」
 満流は、黙っていた。自分の言葉をもう一度、自分に向かって発していた。
 今、激しく求める感情の嵐も、明日になれぱ、跡形もなく消えてしまうかもしれないものなのだろう。そんなものに、身を委ねるなんて、なんて愚かなことだろう。
「ほんとに、ばからしいわ」
 満流は、低く呟いた。

 香り立つ花弁が咲き誇り、空へと蔓を伸ばしている。夢のなかのそのイメージは、ぼんやりとしていた。
 滲んだ水彩絵具のように、色彩の混じり合う花弁は、その美しさで辺りの空気まで浄化しているように思えた。密度の違う質感のなかに、息づいていた。
 果てしない高みの空を突き抜くように伸びている蔓には、無数の花がついていて、見上げると、空の眩しさのなかに溶け込んでしまう。どこまでが花の色で、どこまでが空の色か、満流には判別がつかない。
 なぜだか、それがとても気にかかり、彼女は、ずっと目を細めて空を見上げている。眩しい光に視力は弱まって、何もかもが、滲んだ色彩だけに集約された。
 それでも、満流は懸命になって、境界線を探していた。
 光を失っても描き続けた、画家のように。答えを求め続けて。

          Ψ

 雅人の手は、まだ土の匂いがしていた。洗ったばかりの手は、潤って、小爪のまわりの甘皮が白くめくれていた。
 六月の、甘すぎる雨の匂いが、漂う。
 童顔の彼に、従順な眼差しが加わると、罪なくらいに幼く見えた。
「助けてあげると約束したんだから、僕は、あなたに責任があるんだよ」
 責任という言葉の重さに、満流は、生理的な拒否反応を起こした。雅人は、満流に歩み寄ろうとする。満流は、さりげなく距離を保つ。
「もう、会いに来ることはないわよ。これで最後」
 存在の確かな手応えを絶望的に求めながらも、満流は、重さを軽蔑している。すぐにすべてを消去できる状態に待機させておかなければ、気が済まなかった。
「満流さんは、恐いんだろ」
「何が?」
「誰かの存在がなくてはならないものになったときに、それを失うのが」
「そんな話ばっかりしてると、女の子に嫌われるわよ」
 空が一段と暗くなり、雨足が強まっていた。満流の視界をふたつに分かつように、窓ガラスの水滴が、流れて落ちた。
「陶芸も、もうやめるから」
「どうしてだよ?」
「どうせ暇潰しだったからね。あんまり何もしたがらない私をまわりが心配して、何かさせようと一生懸命だったから、それに乗っかってあげただけ」
「いいものが作れるのに、もったいないよ」
「引き留めようとしても、無駄です」
「個展まで開いたのに」
 満流は、論すような目で、じっと彼を見る。
 雅人は、しばらく、ロを噤んだ。
「全部、父の財産の力よ。私の実力じゃないことは、よく分かってる」
「そんなことないよ」
 彼女がそんな言葉を求めていないことを知りながら、雅人にはほかの言葉が思いつかない。
 雨音が、規則正しく、刻まれている。心が枯渇していく音を聴くように、耳を澄ます。
「はじめから言ってたでしょう。深入りするほうが馬鹿なのよ」
「何もかも遊びだった?」
「そうよ」
 雅人は、無造作に差してあった山野草を手に取り、弄ぶ。花びらが細かく散った。
「満流さんは、本当はそんな人じゃないのに」
「あんたに、何がわかるの」
「これから、どうするつもりなんだ?」
「別に、なんにも。そのうち結婚でもして、子供でも産むんじゃない?」
「そうか」
「うん」
「それで、満足できるの?」
 雅人は、とうとう草をむしって、指を緑色に染めている。
「どっちにしろ、満足なんて期待してないから」
「僕に嘘をつけって言ったけど、嘘つきはそっちじゃないかよ」
「なら、みんなできれいな嘘をつきましょうよ」
「ごまかすなよ」

 岸辺に佇み、満流は、目前の流れを見つめた。
 誰にも変えることのできない、絶対的な流れの彼岸に、この男はいる。戸惑っている。飛び込むこともできないで。
 満流の祈りは、また、機能しない。
 この男を、救ってやることもできないでいる。そこを離れることが正しい道なのだと、叫んでみても、対岸には届かない。
 悪戯に焦らそうとしているようにしか写らない、自分の影を、水面に見て取る。
 罪というものは、案外透き通った色をしているらしいと、彼女は思った。
 この人は、気づくことはないだろう。切実なこの祈りにも、既に向かうところのなくなった荒廃にも。
 現実を写す鏡は、水底の小石たち。コンクリートのしみのように、惨めな色をして見えた。その色は、赤裸々な醜さと、それを覆い隠さないまっすぐな強さ、図太さを、内包している。
 強烈な美は、必ず、強烈な醜さを伴った。ふたつは、同じものなのかもしれない。
 確かな美も、必ず、確かな醜さを伴う。魂と、肉体が、同居するように。
 満流は、現実を憎んでいた。それだけが、彼女にとって、確かなことだった。

 雅人の手は、確かな形をしていた。脈打つ手首から指の先まで、真赤な濃い血液で、満ちているように思えた。
 満流の手は、光に翳すと、溶けてしまいそうに思えた。水のように薄い血は、流れたままどこかへ吸い込まれ、帰ってこないようだった。
 自分の手を見つめ、満流はぼんやりと、考える。こんな確かな手に握られていたら、私の手も、形を取り戻すのだろうか?
 でも、満流は、それを望んではいなかった。
 暖かい手が、冷たい手を包んでいる。その仕種は、男と女のそれでなく、儀式としてのニュアンスを多く含んだ。
 目的は、すれ違っている。
 雅人は、両手のなかの海を、必要とした。不可解と神秘に形作られた、その白い手の触感を。
 満流は、空白を必要とした。真空状態の中では、時もゆるやかに流れる。そこへ身を委ねて、ゆっくりと微睡みたかった。
 その空白の在処を見つけてしまったときから、彼女のなかで激しく揺れる命は、大きな裂け目を生んだ。

「僕は信じてるよ。君はまた、ここへやってくるって」
「無駄なことは、しないほうがいいわよ」
「僕の勝手だろ?」
 満流は、泣きたくなったのをこらえたために、表情を歪めていた。
「傷つけたいわけじゃないのよ、誰のことも」
「もう手遅れだね、だとしたら」
「恨みたければ、恨めば」
「だから俺の勝手だろ!」
 雅人は、語気を強めた自分を諌めるように、前髪をかき上げた。
 再び額に落ちかかるさらりとした髪が、視線を斜めに切り取った。
「じゃあ、私を殺せば?」
 蒼白い頬は、いっそう色を失った。
「もう嫌なの。私を殺してよ。あんたにできるの?」
「死ぬだの殺すだの、そんなこと安易に言うなよ」
「いい人ぶるの、やめなさいよ」
「何がそんなに嫌なんだよ」
「何もかも」
「はっきり言えよ」
「だから・・・もう嫌なの!」
 もどかしさを飲み込んで、満流は少し声を荒げた。
「このあいだ言ってたね。妹さんのようになりたかったって」
 満流は、闇に視線を逃がした。
「あれは、どういう意味だったの?」
「忘れて」
「え?」
「忘れてよ。あんたに関係ない」
「関係あるじゃないか。そのせいであなたはここにもう来ないと言ってる」
「そのせいなんかじゃないわよ」
「だったら、何のせいだよ」
「あんたが私を殺してくれないせい」
「ふざけるのもいい加減にしろよ」

 錆びた鉄が軋むような音。空気は、ゼリーのように隙間なく肌に張り付いて、満流の手足を奪った。
 そのなかを掻き分けて進むエネルギーが、もうなかった。血豆がいくつも破れ、黒ずんだ血が流れ尽くしたような気がした。
 私は奇形の生き物であり、やがて内臓を裂かれ、標本にされる。
 それをただじっと待っている間に、狂ったような笑い声だけが重なり合って響いている。彼女が見た世界は、そんなふうだった。
 あずき色の空は、彼女を押しつぶす。
 体内の時計も、運命の磁石も、強い妨害電波に狂わされる。
 すべてを諦めても、それに慣れることができない。
 アスファルトには、溶かされた魂の痕跡が、いくつもいくつもプリントされている。折り重なって印刷された遺体の描く模様のその上を、私たちは歩いている。
 そして、何も、感じなくなる。
 満流の神経は、無感覚であることに気づく度に、全身に訴えた。
 そして無理矢理に、覚醒させられるのだった。
 麻酔の効かない体質。それは、彼女ひとりの持つ欠陥だと、満流は信じて疑わなかった。あるいは、彼女に与えられた罰であるのかもしれなかった。
「雅人」
「何だよ」
「私は、あんたのことが好きよ」
「嘘つけ」
「まっすぐに前だけ向いて、生きてけばいいのよ、このまま」
「馬鹿にしてるのか」
 雅人は、自分の小舟が嵐に揉まれて揺れるのを、じっと見ているようだった。彼は、不安に苛まれながらも、小舟は決して転覆しない運命であることを知っているかのようだ。
「あんたはまだ若いし、これから何が起きるか分からないわ」
「何が言いたいんだよ」
「自分の港を、探しなさい」
「やめてくれよ。年寄りの説教みたいなこと」
「私は、あんたのことが好きよ。そのままでいて欲しいのよ」

 雅人が見ている心のなかの影は、やがて形を変えることを、満流は確信していた。
 追いかけると、幻は、生々しい色彩で私たちを騙し、誘惑する。たまたま彼は、私の姿を投影してしまっただけなのだ。
 それに気づくのは、心のなかの背景が変わったとき。
 驚くほど突然に、それはやってくる。
 満流の哀しげな表情は、輪郭だけを残して消え、そこにちがう女の顔が浮かび上がるだろう。そして、対象を変えて、愚直な追跡は続くかもしれない。
 満流は、彼を、愛おしく思った。子犬を抱きしめるように、彼を抱きしめてあげたいと思った。
 そして、満流は、自らを哀れに思った。自己憐憫に浸る、滑稽な女の素顔。
 やりきれない気持ちが、皮膚の下を流れている。葉脈のように走る、緑色の血管の中を、無器用に転がっていく音がする。
 受けとめられず、打ち棄てられたやさしさの死体は、今、花のように芳しい。






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