c o m p l i c i t y   


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 太く大地に突き刺さった剣のような竹の根元に、満流は、自らの分身を強く叩きつけた。
 高く澄んだ音を立てて、割れた陶器の破片は、宙を舞った。
 無数に聳え立つ竹たちの内部で、その音は高い振動を保ったまま、響き続ける。あたかも、祈りのために捧げられた聖歌のよう。
 満流は、両耳を覆った。
 岬は、身じろぎひとつせず、満流を見つめている。
 夜空に拡散する、命の終わりの余韻を最後まで聞き届けようと、耳を澄ます。
「こんなふうに、命は、ごく当たり前に失われていくのね」
 やがて何事もなかったように静まり返った空気のなかには、生まれたばかりの緑の吐き出す微粒子が舞っている。
 一斉に搾り出された樹液も、競うように香り出す。
 鼻腔を通じて、それが脳の中まで達するのを感じると、意識の一部は、ゆるやかに微睡み始めた。
「君が込めた命を、君の手で取り戻したんだろ」
「いいえ。今、死んだの。私も一緒に」
 満流は、破片をひとつ拾いあげると、岬にそれを渡した。
「これあげるわ。私の作品の中で、一番良かったもののかけら」
 岬は、手のひらのかけらを、そっと眺めた。
 満流は、もうひとつ、かけらを拾うと、無造作にそれを握り締めた。
 指の間から、血が滲むのが見えた。
 岬は、あわててそれを止めようとしたが、それが無意味なことをすぐに悟った。
 満流が手を開くと、端を赤く染められた破片が、枯れた花のように音もなく落ちた。
 満流は、岬を見ていた。その瞳には、何も意図しない光だけがあった。眼差しとしての眼差しだけが、あった。
 永遠に凍りつくかのような沈黙が、ふたりの間を流れた。
 新月の夜だった。
 夜空はこれ以上ないほど暗く、遠くの車道からの灯が、たくさんの竹の碧い影を交錯させながら、ようやくふたりに届いている。
 岬の痩せた頬に、影が落ちる。片目は影に隠され、もう片方の目だけが、きらりと光った。
 岬は、吸い寄せられるように、満流に歩み寄る。
 岬はもう一度、満流の目を確かめるように覗き込むと、手のひらの上に、破片の鋭利な面を擦りつけるように動かした。
 細く赤い線が、左手の手相に新たに加わった。
「この線に、なんて名前をつけようかな」
 岬は少し俯いて、やわらかい表情を、満流の視線から逃がした。
 満流の瞳のなかに、驚きと確信が、同時に生まれた。
 岬は、満流の傷ついた手を取ると、傷ロを重ね合わせるように、手のひらを重ねて握った。
 滲んだ血液は、ふたつの手のなかで混じり合った。
 ふたりは黙って、じっとそれを感じていた。

 風向きが変わって、肌寒さが剥き出しの腕を撫でていった。
 満流は、岬の肩に額を預けて、目を閉じていた。
 長い長い時間が、過ぎたような気がしていた。
「この線、名前つけてやろうよ。考えてよ」
 満流は、その言葉に揺り起こされたように、顔を上げた。
 恐れの消えたふたつの表情は、互いを認識する前に、すでに深い安堵感に包まれている。
 満流は、岬の左手の、塞がりかけた浅い傷ロの描く赤い線を、指でゆっくりとなぞった。
「この線?」
「運命線とか、感情線とかさ」
「名前なんてつけて、どうするの?」
「どうしもしないけどさ」
「この赤い線?」
「そう」
 岬も、満流の手を広げて見ている。
「あんでるせん」
「え?アンデルセン?」
 岬は、いつもの皮肉っぼい微笑みを取り戻している。
 満流は、少女の自分を追いかけるように、笑う。
「今、おもいっきり馬鹿にしたでしょ」
「してないよ」
「した」
「してないって」
 黒い濃淡で描かれたふたつの顔を、見合わせる。
 無防備で、野蛮な遊戯が、境界線を壊していく。
「なんで、アンデルセンなの?」
「お伽噺だから」
「かわいいね」
「かわいいでしょ」
「目蒲線とか言われたら、どうしようかと思ったよ」
 満流は吹き出した。涙が出るほど、笑った。
 突発的な身体の反応だけに、すべてを委ねていたかった。
「こんなに笑ったの、生まれてはじめてみたいな気がする」

 闇のなかに眠る、凶暴な静寂は、ふたりを浸食しない。
 満流は、丘の上を指さした。
「あそこが、私の家でしょ。私の部屋からここがよく見えるの」
 ぼんやりと滲んだ明るさが、付近の空の色を変えている。混じり物の多い、イミテーションの黒。
 風が吹いて、竹林は、低いうねりの音を抱きしめる。
「窓からよく外を見てたの。家の中より、そこから見える林のほうがずっと、私を優しく包んでくれてる気がしてた」
 生温かい空気の中で、ふたりの指先は絡んだまま凍えていた。
 今、風のうねりはようやく、ふたりの耳のなかで渦巻く。ミクロコスモスへの扉を、くすぐるように。
「だから、淋しくなると、よくここへ独りで来たの」
「ここが、隠れ処だったんだ」
「そうかもね」
 岬は、空を見上げた。
 星たちの弱々しく瞬く光も、月のない今夜は、いじらしくも必死に地上に届こうとしているようだった。
 北の空に北斗七星を見つけると、その形から真北の方向を探す。
 いつまでも変動することのない、北極星の投げかける光は、道に迷った人間を癒すため、犠牲を払い続けているかのようだ。
「あの光は、確か八百年前の光なんだよね」
「どの光?」
「あの、北極星」
 ふたつの視線が、八百光年の彼方の一点で、重なる。
「八百年前に、僕たちは、どこで何をしてたのかな。あの光があの星を出発した頃」
「あなたは、変なこと考えるのね」
「変なことかな?」
「うん」
 岬は、無表情のままだ。
「でも、そう考えると、何だかばかばかしくなるだろ。自分のまわりのこと、みんなちっぽけなことに見えて」
「そうね」
 満流は、時の流れを絡め取るような、岬の低く小さな声のトーンを味わう。
「本当に、些細なことばかりに思えるわね」
「僕は、北の空が好きなんだ。南よりも」
「どうして?」
「なんでだろうね」
「南十字星とか、見たことある?」
「あるよ。でも嫌いだ」
「なぜかしらね」
「南は、哀しすぎるからかな」
「哀しすぎる?」
「北の果てよりも南の果てのほうが、すごく残酷な気がしないか? 南に対する身勝手な幻想を、打ち砕かれるからね」
 岬は、真剣な眼をしていた。
「甘っちょろい悲しみや絶望なんか、吹き飛んでしまうくらい、徹底的に残酷なんだ」

 満流の意固地なほどまっすぐな髪が、柔らかな空気の波動を孕んだ。彼女は、首を僅かに傾け、俯いていた。
 虐げられた曲線は、雑然と点在する豊かさを、あまりにも的確に描き出そうとしている。
 彼女の存在が生み出すその曲線に、残酷なオーラがたなびくのを、岬は見守っている。
 鋭いエッジを持つ凶器は、心にしまい込む場所がない。
 欠乏することへの、直線的な熱情。懐古趣味の狂気。
 水源は、奥深く、汚染を許さない。
 開けたことのない水門を開けると、駆け昇る衝動のように、抑え切れずに始動する何かが、存在する。
 岬は、それを知っていた。
 そして、恐れていた。
「もう、手遅れなの?」
 満流は、途切れ途切れの声で、繰り返す。
「私は、手遅れなの?私たちは」
「まだ、何も終わってはいないよ」
「あなたは、本当は、南の果てが好きなのよ」
「そうかもしれない」
「まだ、何も始まっていないの?」
「わからない。始まってしまったのかもしれない」
 ふたりは、重ねた手を離し、むう一度重ね合わせた。

          Ψ

 泉水は、べッドの上で、スリップの肩紐を弄んでいる。
 ランプの黄色味を帯びた光が、その肌を染めている。白く捏ねられた石膏の生地のような、まるで呼吸をしていないような、確かすぎる皮膚。それでいて、生々しく、濡れたような艶をたたえている。
 岬は、立ちすくんだまま、脳のなかを舞いつづける耳障りな羽音を振り払うように、頭を左右に振った。
「もう私を追い帰すつもり?」
 岬は、振り返る。
 ロ元の歪んだ笑みが、あまりに人工的に見えないかと、彼は意識した。
「岬さん」
 泉水の表情は、逆光のなかで、暗かった。
「岬さんってば」
 もう一度、媚態を無意識に作り出す泉水とすれ違うように、岬は腕時計を弄びながら、その針に目を落とした。
 忘我のあとの、砂を噛むような、言いようのない苦さに、彼はいつまでも慣れることがなかった。
 煤に煙った囚われが、また埋もれていく。放心は、形を変えて浸食していく。
 満遍なく降り注がれる正午の光が、彼の内部に生息する昆虫の標本を照らしたとしても、彼はいつもすぐにそれを閉じてしまった。
「ねえ、無視しないでよ」
 拗ねた泉水は、べッドの上に正座して、膝に手を置いている。
 意識と切り離された物体を、自ら使用するように、彼女は行動する。内体を使用する。
「何?」
 岬は、声にけだるさを隠し切れていない。
「岬さんは、時々びっくりするくらい冷たい」
「そうかな?悪いね」
「そっけない返事。信じられない」
「喧嘩でもはじめる気?時間の無駄だよ」
 自動巻の腕時計の刻む音を、岬は、耳元で数える。
「私たち、喧嘩もしたことないね」
「したことないと、いけないか?」
「普通は、喧嘩くらいするでしょ」
「さあ。そういうもんかな」
 暗がりのなかから、きつい視線が注がれた。
 岬は、一種の礼儀から、言葉を間違えたことを後侮した。
「悪かったよ。言いたいことがあるなら、聞くよ」

 ギアを入れ間違った車のように、神経が誤ったところへ情報を伝達しているみたいだと、岬は惚けたように考えていた。
 エンジンの回転を高めても、駆動系に伝わらない。焦げつくオイルの匂いが、漂ってくる気さえした。
「まるで他人事みたいじゃない。私たちのこと話してるのに」
 泉水の波打つ栗色の髪が、肩の上で踊っていた。光に透かしてみると、余計に明るい色に見えるその髪が、光に背を向けた彼女の抱く闇を、縁取っている。
 彼女は、美しい女だと、岬は思った。
 泉水は、発作的に見えるほど突然にベッドから飛び降り、岬の首に両腕をまわした。
 何のためらいもなく押しあてられた泉水の唇を、はねつける意志も、味わう余裕も、今の岬にはなかった。
「いつもだったら、岬さんのほうから、こうやって言葉を封じちゃうくせに」
 泉水は、左脚を高く上げて、男の腰にそれを巻き付けようとする。神経を痺れさせる匂いが、湧き上がる。
 岬は、闇に視線を遊ばせて、大きく息をつく。
「そうだね。いつもの僕らしくないかな」
 泉水の身体を丁寧に引き離しながら、岬は呟いた。
 彼は、自分の足元の脆さに気づいている。形勢は逆転していた。
 プライドを傷つけられた泉水は、憤りを必死に隠すように、慌ただしく服を着込んだ。
 細いヒールの靴がことさらに甲高い音を立てて遠ざかるのを、岬は聞くともなしに聞いていた。

 岬は、ひとり取り残された暗い部屋の中で、脱力したまま動かない。ようやく、煙草に火を付ける。指先のオレンジ色の光を、じっと見ている。
 得体の知れない不確かさが、計算の裏をかいて、蠢き出していた。コントロールのきかない感情は、いつでも彼を苛む。たとえそれがこの上ない悦びであったとしても。
 彼女の、現在形の謀略のような美しさ。それは大きな魅カであることに変わりはなかった。
 とりとめのない自問を続ける中で、彼は、結論に気づいている自分に、気づいていた。だからこそ、結論から目を背けていることができた。
 現実から目を背けるのは、簡単だ。だが、真実から目を背けるのは、至難の業だ。その上、それを成し得たあとで、得るものは何もない。
 岬がそんなことをぼんやりと考えているうち、煙草は赤く焼けて灰になり、脆く折れて闇に融けた。

 女のふたつの顔の間にあるわずかな隙間は、禁断の領域であり、その闇に沈む自分を彼は楽しもうとした。
 ふたつの顔は、どちらも仮面であり、仮面でない。
 戦いを好まず、馴れ合いになったまま共存を続けている。
 ふたつの仮面は、せめぎ合うことがなかった。
 それが、彼の誤算であったと言えなくはない。彼の隠れる場所は、そこにはなかった。
 彼は、いつのまにか、不自然なほど近くに思い描いていた。余計なものを何も含有しない、あの、眼差しとしての眼差しを。
 それは、常に過去を向いているようで、未来だけを見ているようでもあった。時は直線のようなものでなく、はるか彼方で円になり結ばれている、そのなかを巡り続けるものであるように思えた。
 満流の瞳の中に、彼はその片鱗を見たのだろうか?
 彼は、逃げ道を探しながら、同時にその道を塞ごうとしている自分に、嘲笑を捧げた。

          Ψ

 それは驚くには足らないことだったかもしれない。
 はやく、はやく、やってきて。満流の叫びは、満流のなかでだけ、激しくこだましていた。
 長い長い時を経て、ようやく祈りの彼方に届く。
 雨雲が沸き立ち、巨人の翻した大きなマントのように、天空を覆い尽くす。
 渇ききった砂に撒かれた、突然のスコール。
 仕掛けられたメタファーの謎が、解けるように。青い果実に食い込む、白い歯のように。飛び散るその飛沫を、淀んだ空気も、飢えた喉も、渇いた肌も、遠い耳鳴りさえもが求めていた。
 神の子宮で、静かに脈打つ命。
 人魚の鱗を握りしめた手で、自らの胸を叩く。手のひらの傷ロには、鱗が突き刺さったままだ。

 満流は、殺風景な自分の部屋で、肩を抱いて眠った。
 装飾を拒否した空間が、イマジネーションの色に染まる。
 変幻自在の、玉虫色の瞳をした少女が、そこにいる。殉教者のような強さをもって、絵筆をふるう。
 ただの予感ではあったけれど、満流は、幸福感の朧げな存在を大切に味わった。
 雲がよぎる前に、この月を心に焼きつけなければならない。

 目を閉じると、瞼の裏に、判読不可能な小さい文字が浮かび上がる。遥か古代の、呪文のようなその文字が、やがて金色に輝き出すと、満流は不思議な懐かしさを覚えた。
 どこかで聞いたことのある名前が、呼ばれた。
 半覚醒状態の彼女の意識は、活発に無意識との交信をはじめる。
 とても懐かしい名前が、また呼ばれている。
 しかし、遠くてよく聞き取ることができない。耳慣れない異国の言葉のようでもある。
 満流は、夢の狭間に吸い込まれるように落ちていった。
 廃虚の薄汚れた空気の中に、満流はいた。埃を吸って、激しく咽せる。胸が、締めつけられるように苦しい。
 サーチライトが、壁面を這うように動いていく。満流は、身を屈め、小さくなってそれをやり過ごした。
 あの光に照らされると、全身に毒がまわって死んでしまうのだと、彼女はそう聞かされていた。
 必死に逃げる彼女の足元は暗く、幾度となく、何かにつまづく。闇のなかに白く見える無数の物体は、生き物の骨のようで、脚に絡まっては空っぽな音を立てた。
 彼女は、声にならない声で、何かを叫んでいる。緊張と恐怖とで、喉は軋んで役に立たない。
 壁に忘れ去られたままの、古い鳩時計が、突然動き出す。満流を嘲笑するように、ばかに陽気な鳩が、鳴きながら踊りつづける。
 何回か鐘が鳴り終わると、また、サーチライトが彼女の頭上を行き交った。
 彼女は、手探りで階段を昇る。妖しい冷たさの石の壁は、鍾乳洞のように、白く濁った液体で被われていた。彼女の背筋は凍る。
 明らかに、光源は、彼女に近づいてくる。
 じりじりとした熱が、次第に増してくる。傍若無人なその熱さが、彼女を灼いている。
 彼女は、怯えきった声を嗄らして、名前を呼んでいる。
 先程聞いた懐かしい名前は、彼女自身が叫んでいるものだった。
 助けて・・・助けて!
 光源の発する熱は、また温度を上げた。
 崩れ落ちそうな窓枠の向こうで、黒ずんだ炎が燃え盛っていた。
 殺伐さの吐息が充満し、世界はすでに、飽和していた。
 足の裏に、ぬめぬめとした粘性の液体が張りつく。腐った動物の血のような匂いがし、蕩け出した橙色が彼女を浸食する。
 満流は、すべて諦めて、投げ出したくなった。そのほうがどれだけ楽だろうと思った。
 満流は、その場にへたりこんだ。
 私の呼ぶ声は、彼に届かなかったのだろうか?それとも、聞こえていたのに、助けに来てはくれなかったのだろうか?彼女は、そのことだけはどうしても知りたかった。
 強すぎる光源が、火の玉のように彷徨いながら階段を昇ってくるのが、心に写し出された。機関銃のように間断なく、光線が発せられている。
 そして、とうとうそれはやってきた。満流は、すべてが終わることを悟った。彼女は、目を閉じた。
 その瞬間、彼女は光の代わりに、闇に包まれた。
 身を挺して、彼女をかばったその男の顔は、強い光を背後に背負っていたために、まったく判別ができなかった。
 そこで、夢は途切れた。

 けたたましく、電話の着信音が鳴った。
 身体が縮み上がるような、冷徹な機械音がつづく。
 強制的な覚醒に、刺々しい苛立ちを感じながらも、満流は、発作的に受話器をとっていた。
「もしもし」
 乱れた髪を無意識にかきあげながら、色を失った唇を開く。
「満流さん?」
 嫌味なほど現実味にあふれた声が、浮遊をつづける満流の心を地面に引き摺り下ろした。
「なによ。こんな時間に誰かと思えば」
「どうしても訊きたいことがあって」
 感情を抑え気味の雅人の声は、合成された音声のように、寸分の揺らぎもないように思えた。
「なに?」
「満流さんが一番気に入ってたっていう作品が見当たらないんだけど、どうしたの?」
 わずかな沈黙の間に、満流は唇を噛んだ。
「そんなこと訊いてどうするの」
「あれを僕にくれよ。買い取ってもいいよ」
「・・・ごめんね。だめよ」
「どうして?」
「もう、割れちゃった」
「え?」
「割れちゃったの」
「割れたって?嘘つけよ。そんなに粗末にするわけないだろ」
「それが、粗末にしちゃったんだ」
 今度は雅人が、空白の数瞬を礫のように投げつけた。
「悪いわね。他のならどれでも、好きなのをあげる」
「ちょっと待てよ。割れたってどういうことだよ。まさか、わざと割ったんじゃないだろうな」
「・・・だったら、何?」
「どうして、そんなことをするんだよ!」
「どうしてかな。ただなんとなく。嫌になって」
「どうして君は、自分を貶めるようなことばっかりする?」
「別にそんな、深い意味なんてないわよ」
「ひとつ、訊いてもいいか?」
「何よ、あらたまって」
「すべての行動に意味を持たせないでいられる人間なんて、いるのか?」
「またそんな、かたいことばっかり」
 満流は、笑い出す。
「笑い事じゃないよ。僕はそんなことが可能だとは思わない。君が器を割ったのも、僕が避けられているのにも、それなりの理由があるはずだろ」
 雅人は、満流の笑い声に次第に箍が外れていく自分を、どうにもできないし、どうにかしたくもなかった。
「ちゃんと訳をおしえてくれ。でないと納得できない。気持ちの整理もつけられない」
「単に、飽きたからよ。壊したくなったからよ」
「飽きたからって、大切な器を割るのか?」
「そうね。私、変わってるね」
「そんなの嘘だって言ってるだろ」
「じゃあ、あんたはどうなの」
「どうって?」
「どうしてそんなに私を構って追いかけてくるの?私のことを好きだから?そんなの嘘よ。それでおしまい。同じことでしょ。理由なんて、言葉で説明できないわ。説明できないなら、ないのと同じよ」
 私は、かつて、純朴さの陽だまりのような男の存在に、安らぎを求めていたのだろう。満流は、そう考える。
 しかし、土臭さに毒々しい香水を振りかけていたのも、彼女自身だった。
「私は、壊すのが好きなのよ。何でもめちゃくちゃにするのが」
「そう。何のために?」
「ほら、また始まった」
 激しくうち震える心臓は、潰れたいちじくの果実のよう。握り潰す彼女の手は、小さな紅葉のよう。
「とにかく、他のやつならどれでもあげるから」
 凍てついた甘さのその声に、雅人はいつも巻き込まれていく。いつもと同じ混乱が、斑な模様を生んでいく。
「嫌だ。僕が欲しいのはひとつだけだ」
「だから、それはもう不可能なの」
「僕が欲しいのは、ひとつだけだ」
「もう眠いの。切るわよ」
 満流は、受話器を放りだすように、乱暴に置いた。
 堂々巡りだ。同じようなやりとりをどこまで繰り返せば良いのだろう。一度根づいた野草は、踏みつけられても花を咲かせる。その生命力に甘え、寄生して生きているのが私。
 べッドに身を投げ出して、両手を広げて天井を眺める。
 そこには、一匹の蠍がそろそろと歩いている。満流を見下ろすと、蠍は、にやりと笑ったような気がした。
 おまえの果実を搾り出せ。そして口移しにその毒を飲ませてやれ。悪い種もすべて食わせてやれ。蠍の囁きは、にじり寄ってくる。
 満流は、容量を超えた記憶を消去するように枕元に置いた。もう何も、考えたくない。

          Ψ

 雅人は、唇を血で染めようかというほど、きつく噛んだ。
 彼には、満流を必ず救い出すという、愚かしいほどの確信があった。
 まるごと汚染された空気の中で、ため息さえ素直につけない彼女を、救い出すということ。穢れた服を剥ぎとり、裸の彼女をきれいに洗い清めるということ。
 使命感は、空白を補うための方便なのかもしれなかった。しかし、それでも構わないと思った。
 携帯電話を助手席に放り投げ、アクセルを踏み込む。
 規則正しく並んだ街灯の光が、彼の視界を儚く流れていく。
 強引な車線変更を繰り返す彼には、センターラインの白が歪んで見えた。高速になればなるほど、視界は狭まる。なのに、スピードを上げていくこと以外に、彼は方法を知らない。

 あの丘の上に、あの人はいる。
 車を降りると、乾きかけた土が足元で、こそこそと話しかけた。緑に茂る葉のなかに埋もれて、乳白色をした八重咲のくちなしが、夜露に香っている。
 あの時彼女は、白い服を着て、この花によく似ていた。どんな色を混ぜようと、決して白は創れない。孤独な色だ。
 雅人は、そんなことを考える。彼の足は、導かれているように確実な歩みを止めない。
 がさがさと、踏まれた草の擦れる音が立つ。危険を知らせる合図をしているみたいだ。あるいは、欲深さの罪を弾劾しようとしているのだろうか?
 やがて彼は、竹林に踏み人った。この場所に来れば、彼女の存在を近くに感じられる気がした。何かしらの答えを与えてくれるという、予感だけがあった。
 彼女を救うことで、自分も救われるということを、彼は信じて疑わない。
 この月は、昇っては沈み、また繰り返される。気づかぬうちに年輪は重なり、花は散ってまた開く。この大きな円のなかにすべてがあるのだと、夜の天球はやさしく語りかける。
 何千年でも、待っていられるような気がした。
 雅人は、満流の言葉を信じてはいなかった。自らの創り上げた作品を、軽々しく割ったりなどできるはずがない。軽々しくない決意があったとしても、できることではないと彼は考えた。
 満流の生んだ陶器のなかで、あれだけは異彩を放っていたように、雅人には思えて仕方なかった。
 バランスを欠いた存在感が支配する作品群のなかで、ひとつだけ、違う空気を抱いていた。個展の期日間際に、最後に創ったものであり、彼女自身が一番気に入っていると打ち明けた。
 雅人ならば、自分の作品に優劣などつけられない。
 彼女の気持ちを擬似体験しようと、彼は想像を巡らす。しかし、糸口さえも見つけられない。
 混沌をそのまま抱きしめて、瞑想するかのような、極限の穏やかさ。すべての苦悩を飲み込んだ彼岸に開けた、静寂の花園。そういったイメージを、あの作品は喚起させた。
 それは、まだ見たことのない、満流の横顔だった。雅人は困惑し、同時に激しく魅了された。

 星たちが傾き、暁が始動する気配がする。空は、やや瑠璃色を帯びて、透き通る。
 もう、こんな時間になってしまった。雅人は、滑らかな竹の素肌に手のひらを添わせた。儚いぬくもりの、素脚の感触を思い出しながら。
 呟く独り言は、ロ腔に籠もって、変質した。苦しむことは、何もないということよりも、ずっとましだ。
 刻々と明るさを思い出す空のもとで、日々の奇跡は敢行される。深海に沈んだ魚たちに光が届けられるように、夜に沈んだ地球に朝が訪れるという、奇跡。
 しかし、それは魚たちにとって、いつでも幸せなことなのだろうか? 思いやりは、時に、残酷に陵辱する。永遠に眠っていたい魚にも、光は平等に注がれる。
 夏至が近づく初夏の夜は、気ぜわしく飛び立つ鳥のように、後を濁さない。白く煙った空気のなかに生まれ変わったように出現した朝の竹林は、夜のそれとはまるで趣を変えている。
 神秘を司る天使たちは、興醒めして、どこかでふて寝を決め込んだらしい。
 満たされない思いを抱えたまま、ふと魔法がとけたように我に返る雅人を、無意味な疲労感が襲った。

 光が暴いた現実は、足元に転がっていた。
 来た道を戻る途中、竹の根元に陶器の破片が散乱しているのを見つけて、歩み寄る。
 間違いなく、それは出会うべくして出会った偶然だと、雅人は信じた。その瞬間、彼は神の啓示を得て、世界中が大挙して彼に押し寄せてくるかのような感覚を抱いた。
 運命的な愛を彩る小道具は、完璧に誂えられている。目前に、蜘蛛の糸は下りてきている。
 雅人は、誰も見ているはずもないのに、無闇に辺りを見回してから、大きな破片を慌てて集めた。
 手を傷つけないように、細心の注意を払って。

          Ψ

 酔って帰ってきた泉水が、玄関先で騒いでいる声が聞こえた。
 甲高く良く通る声が、笑っている。巻き込まれて一緒に付いてきたらしい、何人かの男の声もした。
 満流は、ガウンを羽織って長い廊下を歩く。
 階段の手摺から身を乗り出すと、座り込んで立ち上がれない泉水を、一人の男が抱きかかえているのが見えた。なれなれしく、男の肩に手をまわしている、泉水。
 満流はそこで足を止め、まっすぐな眼で様子を見ていた。
「ちょっと待ってよお。もう帰っちゃうの?つまんないよ!もっと飲んでこうよ!」
 泉水は、男に抱きついたまま、必要もない大声で叫んでいる。
 一人の男を残して、何人かは玄関を出ていくようだ。にやにやと、
意味ありげな目配せを残して。
「待ってってば!」
 泉水は、泣きべそをかいたような声になる。満流でさえも、それが演技なのかどうか見破ることが難しい。
 満流は、頃合を見計らって、階段を下りていった。
「泉水?どこ行ってたの?」
 泉水は満流を見上げると、すぐに視線を逸らす。
「何時だと思ってるの?お父さんももう帰ってるわよ」
 それは見え透いた嘘だったが、男は急に、体裁が悪そうに慌て始めた。泉水は、満流を睨みつける代わりに、おどおどしている男を睨みつけた。

 泉水は、グラスの水を呷るように飲み干した。
「誰なの?あの男たち」
満流は、さりげなさを装って、尋ねる。
「知らない」
「そう」
「嘘つき。パパが帰ってるわけないじゃない。昨日フランクフルトから電話があったばかりよ」
「そうね」
「なんで嘘ついたのよ」
「知りもしない男たちを、家に上げるわけにはいかないわよ」
 泉水の酔いは、醒める様子がない。
「私の勝手でしょう!」
「外でどうしようと勝手だけどね、ここはあんたひとりの家じゃないのよ」
「お姉ちゃんひとりの家でもないよ」
 泉水は、空のグラスをテーブルに叩き付けるように置いた。凝縮されたその音は、鋭く耳を射抜いた。
「どういう意味よ」
「お姉ちゃんさえいなかったら、うちは幸せだったのに!」
 泉水は、すでに何かを決意している。満流は、それに呼応するように、揺り起こされる。
「ママも、こんなに若くして死ななくて済んだかもしれないし、パパだって、こんな仕事中毒にならなかったわよ。私だって」
「あんたも私のせいで不幸になったの?」
「そうだよ」
「いつどういうふうに、私があんたを不幸にしたの?」
「存在してるだけでね」
 満流は、気がつくと、泉水の頬を平手で打っていた。意志と関わりなく、外部の力に操作されたような気がした。
 怒りを忘れて久しい魂に、風が吹いて、静かにたなびき始める。
「あんたは、得たいものはみんな手にしてる。これ以上まだ何かを望むの?」
 満流の声は、一段トーンを低くしていた。
「望むわよ。もうお姉ちゃんの顔なんか見たくない。この家から早く出ていってよ!」
 譲ることなく、強靭な熱が瞳から注がれる。
 滑りだしたまま止まらない自分を、他人のように見ている満流がいた。
「あんたが出ていけばいいでしょう」
「私は欲しいものは手に人れるし、望みも全部叶えるわよ。私にはその価値があるんだから。私は幸せでいなくちゃいけないの!」
「かわいそうに。あんたの幸せなんてその程度のことなの」
 些細な喧嘩すらもしたことのない姉妹は、長い間隠し続けてきた、冷えきった切り札をようやく出し合った。
 満流は、許せなかった。高ぶったエネルギーが、背後から取り憑いているような気がした。そのエネルギーに、初めて信頼できる人間に出会った子供のように、彼女は盲目に縋りつく。
 その力が、すベてを焼き尽くしてくれることを願った。

「その程度なんて、なんであんたに言われなきゃいけないの。私は最高に幸せだよ。岬さんが私を選んだんだから。私は選ばれたんだから」
「思い込んでなさいよ、勝手に」
「どういう意味よ」
「あんたは愛されてなんかいないわよ」
「何言ってんの?」
「あのひとは誰のことも愛してなんかいない」
「なんでそんなことあんたに言えるのよ!」
「馬鹿ね。あんたにはそんなことも分からないのね」
「なによ偉そうに。自分は田舎くさい野暮ったい男とつきあってるくせに」
「すれっからしで死んだような眼をしてる男よりずっとましよ。まるで泉水みたいな男よりね」
「でもどうせセックスは下手くそなんでしょ。だからこんなに欲求不満になっちゃって、かわいそうにね!」
 満流は、間髪入れず、反対の頬を殴った。
「何するのよ!」
 泉水はグラスを手に取ると、満流に向かって力一杯投げつけた。グラスは満流をそれ、壁面に当たって粉々に散った。
 満流は、力強い足取りで泉水に近づくと、もう一度平手打ちを与えた。
「こんなくだらない女を、あのひとが本気で愛してるとでも思ってんの?思い上がるのもいい加減にしな」
 満流は泉水の手首を掴み、先に動きを封じた。泉水は激しくその手を振りほどく。
「分かったわよ。あんたの魂胆は」
 泉水は、赤く焼け焦げた笑みをこぼす。こんな表情を、彼女は誰にも見せたことなどないだろう。満流の一部分が、可笑しな程冷静に考えている。
「私たちの仲を引き裂く気なんだ。岬さんを奪おうとしてるんだ」
 満流は、能面のような顔をしている。
「岬さんを奪う気なんだ。この薄汚い女は!」
 泉水は満流の胸元を掴んで、思い切り突き飛ばした。満流は、腕を固い壁に叩き付けられ、顔をしかめた。
「そうはさせないから!絶対にさせないから!」

 満流は、壁際に座り込んだまま、長いこと放心していた。
 なにもない空間を、二匹の蝶が舞い踊っている。楽しげに八の字を描いて、満流の目眩を誘う。
 目を強く閉じ、また開くと、彼らは消えていた。
 散乱したままのグラスの破片の表面で、光と闇が、ミクロの戦いを繰り広げる。その模様は、拡大鏡なしでも、妖しい色の輝きとして認知される。あたかも、グラスに閉じ込められていた微小生物たちの、復活の祭りのよう。
 満流はやがて立ち上がると、破片を掻き集め、掃き清めた。
 満流は、竹の根元に置き去りにした破片を、それに重ねて見ずにはいられない。彼女は、無性に淋しくなる。そして、その感情を自分に許さないために、また彼女の一部が悲鳴をあげながら崩れ落ちていくのだった。
 砂の城は、必ずいつかは消え去るものだ。彼女は、自分に言い聞かせる。
 満流は、ひとり、笑いだした。混乱した脳細胞が、誤った脳内物質を無闇に分泌しているようだと、彼女は思う。
 ミイラ取りがミイラになるっていうのを、私は地でいってるわ。
 自分で蒔いた種は、手に負えないほど大きく育ってしまった。はびこり過ぎた根は絡まり、互いを縛り合う。
 岬は、今、どうしているだろう。満流はいつのまにか、そう考えている。それ以外に、考えることはなくなる。

 泉水は、写真のなかの自分を見ていた。
 隣には、まだ若い母がいる。幼い泉水の両肩を包み込むように置かれている、その細すぎる手を、彼女はよく覚えていた。
 陽に焼けて黄ばんだ古い写真は、それと不釣合いに、よく磨かれた銀の写真立てに収まっている。
 泉水の部屋には、物が多かった。壁にも、チェストの上にも、大漁を祝う漁船のように、装飾物があふれている。しかしそれは、計算された上での雑然だ。
 チューリップの形をしたランプシェードに光が滲んでいる。父の土産のアンティークだ。その隣に、銀の写真立てを置くと、カタリと冷たい音がした。
 目を閉じると、瞼の裏にも、チューリップの形がぼんやり滲む。
 泉水は、苛立った。
「最低な夜!」
 吐き出した言葉は、やがて自分の上に降ってくる。それを振り払うように、泉水は、激しく頭を左右に振った。
 酔いは急速に醒めたが、籠もった熱が身体の芯を灼いている。その熱は、徐々に拡散して、肌から放出される。湧き出ては発散されていく強い毒が肌の表面に描く構図は、刻々と姿を変える。
 泉水の内部と外部を、薄すぎる皮膚一枚が隔てている。
 何もかもを通過させてしまう、その寛大すぎる皮膚。どんなものが行き来しようと、乱れることも傷つくこともなく、そこに生息している。泉水は、その皮膚組織そのものだった。
 鏡の前に立つと、彼女は、自分のために最高の笑顔を作る。
「私は、ママのようにはならないから」
 鏡のなかの泉水は、蕩けてしまいそうに、甘い。彼女は、自分の微笑むロ元を、長いことじっと見ている。
 彼女が自分自身をたっぷりと味わった頃、憤りは、最後の一滴まで、彼女を通過して去った。消化は完了した。デザート付きのディナーの味も、忘れ去られる。

 満流は、母が入院していた病院に、見舞いにも行かなかった。
 苦い追憶は今や、陽炎のなかを舞う桜のようだった。
 贋物の甘い生活に我を忘れられると信じていた頃、夜通し遊び歩いて帰った夜更けに、母の死を聞かされた。
 憎まれていたわけではなかった。存在を無視されていたわけでもなかった。罪は生まれついたものではなかったはずだった。
 しかし、満流自身が丁寧に上塗りを重ねたため、本来の色彩は失われた。彼女を流刑に処したのは彼女自身であることに、満流は気づいてはいた。
 記憶は、時の狭間にこぼれながら、埋もれていく。常に、紡いだ物語としてしか保存されない。曖昧さは、曖昧さ自身に依存しなければ生きられない。
 そして彼女は、運命を創造する。罪を創造する。そのなかで、自分に与えた配役を演じる。
 満流という役を演じる満流に、父は、忘れ難い面影を投影して見たのだろうか。父の視線のなかで、彼女はさらに、何か別の光を反射しなければいけない義務感を覚えた。
 満流は、父を哀れに感じていたのだった。父に罪はなかったから。しかし、満流の跳ね返した光に満たされた父の心が向かう先は、いつでも、そこを通りかかる泉水だった。
 その構図は、いつまでも変わることがなかった。
 原罪という名の幻想にきつく縛られたまま、満流は身体を投げ出していた。水面に浮かぶ蓮の花のように、激しい静けさで。

 支柱の一本が倒れただけで、すべてが崩れ去ることがある。
 彼女が何かを求めたとき、忘れかけていた自由が、彼女のなかで走り始めた。自由は責任を伴う、重たい義務でしかなかったのに。
 その新しい波に飲み込まれる前に、彼女は走りだす。ただ脇目も振らずに走り続けること、それしか策はないのだろう。

          Ψ

 話し中の受話器を戻す。震える左手を、右手で押さえつける。
 何やってんのかな。私は恐がってなんかいないのに。満流は、心のなかで呟く。
 もう一度受話器を取ろうと意を決した瞬間、不意に心が空白になる。すると突然、着信音が鳴りだした。心臓に血が逆流したような気がした。満流は、胸元に手をやった。
「もしもし?」
 何年ぶりかにその声を聞いたような気がする。
「はい」
 少し上擦った満流の声は、消え入るように飲み込まれる。
「何すっとんきょうな声出してんの?」
 岬の陽気な笑い声が、響く。
「びっくりしたの」
「なんで?」
「今、私も電話をかけようとしてて」
「ほんとに?」
「うん」
「シンクロニシティ、だね」
「共時性?そんなのほんとにあるの?」
「どうだろうね。もう一度こういうことがあれば本当かもね」
「もう一度なんて、ないよ」
「賭けてみる?」
「やだ」
「どうして」
「ふたりとも、ありに賭けちゃうでしょ」
「そんなのないって言ったくせに」
「負けるほうに賭けるのが、癖なのよ」
 自分とは別の存在が話しているように思えた。あまりに自然に言葉がこぼれるので、満流はそれが不自然だと感じる。
 あの夜から、一度もふたりは言葉を交わしていなかった。その間に私たちの時間は違う速度で流れたかもしれない、その思いが満流を怯えさせていた。
 満流は、壁に背中を預けてしゃがみ込む。冷たい膝を抱きかかえる。
「今、何してたの」
 岬が、尋ねる。
「今?電話をかけようとしてた」
「そっか」
 岬は少し笑った。満流は沈黙する。
「じゃあ、その前は何してた?」
「迷ってた」
「何を?」
「電話しようか、どうしようかって」
「どうしてそんなに迷ったの?」
「わかんない。たぶん恐かったから」
「君はもう、何も恐くなくなったのかと思ってたよ」
「でも恐いの」
「そう?」
「恐いことがなくなったのが、恐いの」

 満流の声は、霧雨を受けた若葉のようだと、岬は思った。
 彼は、失った時代のやるせない味を、舌の上に思い出す。懐かしい、胡椒にも似たくやしさの味。苦く酸っぱい、涙の味。
 神の庭に茂る、尖った葉の先で、両膝を傷つけた。その痛みこそが、生きているという感覚の、生々しさのすべてだった。
 露をたたえた萌え立つ縁の葉は、鞭のようにしなって、力強い。
「僕は、恐いものなんかなかったのに、急にいろいろなものが恐くなってきたよ」
「やっぱり恐いわ。私は、あなたが言った通りに、いろいろなものを壊してしまった」
「それがどうしたって言うの」
「壊してきたの。ひとの心も。たくさん」
「壊されて、捨てられたものは、幸せかもしれないよ」
「どうして?」
「世界中で一番ロマンチックな場所は、ごみ捨て場のごみの山だから」
 その言葉に、満流は目頭が熱くなるのを感じる。
 しかし、電話の向こうから届く声など、いたずらな幻想の産物に思えた。何もかもが不確かで、霧が晴れれば消え去ってしまうのだと思えた。
 満流は、空の拳を握りしめた。
 爪がてのひらに食い込む感覚さえ、信じられなくなってしまいそうだ。耳に聞こえるものも、目に写るものも、私が知覚しているものはすべて、私の造った妄想かもしれない。
 彼女は、そう感じている。
 実際に、私たちは、今現在という瞬間を知覚することはできないじゃないの。今という瞬間が生まれるのを、まばたきをしていて見過ごしてしまうのだから。見ているものは、すべて、一瞬前の過去に造られたものなのだ。
 押さえつけられた叫びが、身体のなかで汚れた血を流している。血管の内壁にこびり付いたまま、また吸収されていく。その劣悪な循環が、遠く重なり合う。
 満流は、ただ、何かに蝕れたかった。確かな手応えのある何かに。
 肌の熱と、その息づかいに触れるだけで、どれほどの渇きは癒されることだろう。
 礎の揺らぐ魂が、求める。それは、欲望には程遠い、研ぎ澄まされた願いだった。ただ近くにいて、気配を感じたい。

「僕も、ごみのような男だよね」
「ロマンチックなの?」
「ある意味では、そうかもね」
「私も、竹の林をごみ捨て場にしちゃったわね」
「君は、正真正銘のロマンチストでしょ」
「私が?」
「笑っちゃうくらいね」
「馬鹿みたい」
「そう。見せ物にして金が取れるよ」
「ひどいな」
「だから、ごみのような男なんだよ」
 電話の声が遠くなったのか、それとも彼女の意識がわずかに遠のいたのか、満流には分からない。
 スイッチを切れば消えてしまう、ディスプレイのなかの存在のように在ること。それが、ずっと彼女の望んできた在り方のはずだった。しかし、彼女は、自分自身に嘆願していた。お願いだから、スイッチを切らないで。

 岬は、いびつで無骨な形をした躊躇いが、喉に話まっているのを感じている。
 彼の世界は、世界中のどこへ行こうと変わることがなかった。魂は、瞳の内側から、窓を通して世界を眺める。彼の身体がどこへ赴こうと、窓の外の景色が変わるだけのことだと、魂は知っていた。
 彼は、瞳の奥深くに閉じ込めてきた光源を、ゆるやかに取り出した。ふたつの眼球を取り出して、手のなかに転がすように。
 あまりに久しぶりに見るもので、それは、とてもグロテスクに感じられた。
 窓の外の些細な変化にばかり気を取られていると、自らの存在の気味悪さまで忘れてしまうんだな。岬は、可笑しかった。
 こんなに寒々しいものは、自分のなかにこそ在ったんだ。腐りかけた、ごみの山にではなく。
 酔いしれるように、ふたつの眼球は寄り添い、絡み合っている。
 硫黄のような、鈍く毛羽立った刺激臭がしている。

 ふたりは、言葉を失ったまま、息を呑む。
 翻訳の不可能な感情が、長い回廊の途中で佇んでいる。
 満流は、搾り出すような言葉をようやく吐き出す。
「私は、私を拾ててくれるひとを、探していたのかもしれない」
「ごみの山に?」
「そう」
「そんな場所は、どこにあるんだろう」
「わかんない」
「どこにもないし、どこにでもあるんだろう」
「どこにでも?」
「そうだよ」
 捻れた位置にある、吐息の形。やりとりされる言葉は、諸層に分かれたまま、混じり合うことなく跳ね返されてしまうのだろうか。
 満流は、唇を噛みしめた。
 足りないピースを探して、パズルにはめ込もうと努めるが、そもそもすべてのピースが手のなかに揃っていることなど、減多にない。
「君は、もう、自分で自分を拾て去ったじゃないか」
「そうなのかしら」
「ちがうのか?」
「わからない。私は初めから考えて行動したわけじゃない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
 満流の声は、微細な電子の隙間を縫って、震えて伝わる。生々しい生命を持ったその声は、全身で助けてほしいと叫んでいた。
 しかし、それを声高に要求する義理じゃないというわけか。岬は、心のなかで独りごちた。
 彼女はまるで、良心を悪魔に托し、疑心で神に祈っているみたいだ。
「私が企んだのは、こんなことじゃなかった」
「企んだ?」
「こんなことじゃなかったのよ」
「何を企んだって構わないよ。自分を責めてるのは君自身だ」
「責めてなんかいない。ただ、」
「ただ?」
「憎しみを開放できないことが、憎たらしい」

 彼は、蔦の絡まるその窓を、久しぶりに開けてみた。すると、窓の外と内の世界が逆転していることに気づいた。
 眼という窓から眺めた外の景色に現を抜かしているうちに、内側の空洞が、外界をコピーする。
 誰かに共鳴している自分は、同時に、誰かのうちに捕われた自分になりうることを、彼は知った。
 彼は、もう何もコピーしないことを自分に誓った。
 それなのに、常に空にしておいたはずの扉のなかで、何かが腐って、疼き始めていた。
 それを初めに見つけたのは。彼ではなく、満流だった。満流は、それを無理矢理掴み出し、容赦なく目前に突き付ける。
 彼女の細い指が、汚物に塗れている。
 彼は、その指を洗い清められるのは自分しかいないことを、知っている。問題は、自分がそれを望んでいるかどうかだ。
「君は前に、恨みに思う人間なんかいないから、自分を壊すと言ったよ」
「恨んだところでどうにもならないでしょう」
「正反対のことを、言ってるよ」
「頭ではわかってる。でもわからないの」
「はっきり言ったらどう?僕に。彼女を裏切れと」
 満流は、次の言葉を飲み込んだ。冷たい汗が、心臓の裏側を流れているようだ。
「君の望みは、それだけなんだろ」
 満流は、黙ったままだ。
「彼女を裏切るのなんて、何でもないことだよ。だけど、それで彼女を傷つけることになるのかは疑問だな」
「泉水は、傷つかないっていうこと?」
「かもね」
「それでもいい。それだったら一番いい」
 満流は、ようやく聞き取れるような細い声で、言う。
 岬の声も、静けさに削り取られたように、丸みを帯びる。
「そうだね。一番いいね」
 満流の表情が、和らいだ。
「岬さんは、みんなわかっていたのね」
「大きな誤算だった?」
「そうかもね」
「でも、こんなことは裏切りでもなんでもないだろう。僕がどうしようと僕の自由だ。君が罪の意識を持ち過ぎてるだけだ」
「すべて私の一人芝居ってことね。わかってるわ」
「僕は、契約をする気はないからね」
「契約なんて、嫌な言い方」
「約束だろうと契約だろうと、同じことだ。裏切るため、裏切られるためにするものだよ」
「わかってる」
「僕の選択に君の関与する余地はない。自惚れるなよ」
「わかってる」
 満流は、涙を飲み込もうとする。胸が滲みて、きりりと痛む。






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