無 彩 色 の 寓 話    


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 世界中から、ほかの色がすべて消えてしまったとしても、青は、青い色をしているにちがいない。
 運河に囲まれたその街のたたずまいは、どこを絞っても、青く透き通った水滴が、したたり落ちてきそうだった。踏みしめた石畳からも、私の古ぼけて艶を無くしたブーツへと、きよめられた聖水が、しみ渡ってくる。蜘蛛の巣のように張り巡らされた、行き場のない水脈も、めぐる運命のなかで、青く濁っていく。
 それほどに、この色に、何の意味があるというのだろう。
 色の霊魂だけが写る、白黒の写真のなかでさえもこの色は、かつて青かった色として、誇らしげに存在を主張しているように思える。あの、空と、海と、つながりを持つその色。
 
 魂が遊離して、自らの姿を外側から眺めることができたなら、きっと、肌も髪も瞳も、爪の先までも、私のすべては青く染まっていただろう。
 私は、その誇らしげで押しつけがましい色を、拒絶する理由も、つっぱねる強さも、持ちあわせてはいなかった。
 
 夕暮れ時、嵐が止んで、遠い耳鳴りのように微かに響いてくる波音がふっと消える頃、心は、闇に消えるための序曲を奏でた。それは、今日一日を葬るための、儀式。
 
 人々の叶えられなかった夢という夢の砕け散った欠片を、私は、磁石のように吸い付け、それを纏っていたように思えた。欠片は、じわりと肌に食い込み、血が滲んだかもしれない。その色は、やはり、青かっただろうか。
 痛みは、感じなかった。むしろそれは、ほかのあらゆる感覚を麻痺させる、モルヒネの一針。
 私の五感は、能力を失っていた。ただ、残された本能と、人間としての習慣のわずかな余韻が、右足を左足の前に、送り届けているだけだった。
 
 
 
 朽ちていくものは、必ず、美しいものなのだろう。あるいは、かつて、美しかったことがあったものなのだろう。
 けれども、美しいものがすべて朽ちていくとは、限らない。
 人間の美は、たいてい腐ってしまうからだ。
 腐り行くものに、美しさの面影を投影するのは、難しいように思える。
 美しいのは、人の持っていた、夢の欠片だけなのだろうか。だから、私は、それを纏いたかっただけなのだろうか。
 朽ちていった過去の亡霊は、深い海の底に沈んだかのようなこの街を、さまざまなネオンの光とともに、輝かせている。淡い光を受けて、欠片が舞い続けるさまは、終焉を迎えたもの全てが共有する独特の華を、呈示している。
 
 場末の酒場で、たむろする魚たちの目は、焦点を失って淀む。不自由のない甘い生活の果ての、免れようのない渋さを、それぞれの手の中に転がすように、見つめている。
 手入れの行き届かない、ただ古いだけのテーブルは、酔った男達の吐潟物だけを、飲み込んできたかのよう。
 行き場を失った黄色いくすんだ光が、戯れる気力も無しに、円を描いて足下に消える。
 その中に埋没しようと、私はつまらなそうな表情を固めて、時折投げかけられる男たちの嘗め回すような視線に、耐えた。
 私は、自分を、場違いに感じている。
 なぜ、こんなところにいるのだろう。
 月日が経てば、私は、この場所に馴染むのだろうか。
 ここが駄目なら、いったいどこに行けば、場違いな存在でなくなることができるのかな。
 世界中探しても、そんなところは見つけられっこないのかしら。今まで、そうだったように。
 充満した煙草の煙で、ぼんやりとした意識は、何も語らない。
 
 それは、ひとつの、忘れえぬ情景だ。
 明滅するライトの下に、その瞳があった。
 まつげが落とす陰の下のその光は、何を捉えていたのか、私には、わからない。
 蒼ざめて、痩せたその男の頬に、闇が隠れては現れる。
 決定的な欠如と、完全な豊穣との間を彷徨うような、その色彩。
 私は、それを、どこかで知っているような気がする。しかし、どこで知ったのかは思い出せない。
 よりどころの無さと、奇妙な安らぎとが、当然のように同居している。それは、永遠の彼方に、裸にされて放り投げられたかのような感覚。私は、それを、決して忘れることがないだろう。
 極度の不安と、瞑想の果てにある安逸と。
 ただ、その瞳はあった。そこにいた。すべてを吸い込むように、光を呼吸して。
 心は、一瞬のうちに、長い旅をした。
 すると、突然、現実に引きずり戻すように、誰かが私の爪先を踏みつけて、通り抜けていく。
 痛みは、皮膚に、遮断された。細胞たちのつどう集合体は、その時、指揮官をなくした。
 
 
 ただよう小舟に、行き先を訪ねるのは、意味のないことなのに。壊れた舵を取っていながら、自分の意志で船を動かしている気になっている人たちが多いのね。
 舵が壊れているのは、君の船だけ。それも、君自身が壊したんだよ。
 なぜ、私のことがわかるの。
 僕の船も、壊れているから。
 深く、落ち着いた声質でありながら、どこか儚げな喋りかたが、足をとられる流砂の上を歩くような感覚を、人に与える。
 彼自身、砂に飲み込まれてもがいていて、それを見ているほうも、なぜか、そうなることがわかっていながら引き込まれてしまうような、感覚。
 なんだか、あなたは、不幸になりたがっているみたいね。
 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 幸せも、不幸も、僕には同じようなものに見えるから。
 
 そこに、時は、止まっていた。
 過去も、未来も、彼にはない。
 すべての原理を無視するように、ただ、存在として、存在している。
 それは、彼女の、幻を見たがる心が作り出した、虚像かもしれない。そう気づいてはいたけれど、不思議なほど、迷いはない。
 心は、凪の海のような静謐さに、満たされる。
 郷愁と予感との隙間の、空白に遊んでいたい。そのささやかな欲望が、芽吹いたまま時を止めるのだ。
 現実と、幻のあいだの、どこに線が引けるのだろう。こんなに、色褪せてしまった、世界のなかでは。
 曖昧さが、念入りに磨きあげた鏡は、信じた幻でさえ現実として、写しはしないのだろうか?
 
 自分の心ひとつよ。幸せだと思えば幸せだし、不幸と思う人は不幸なのよ。きっと。
 せめて、どっちかになりたかったんだ。
 え?
 幸せでも、不幸でもないのは、嫌だと思ったから、舵を失ったんだ。君も、そうじゃないの?
 彼女は、そうだと答える。
 瞳の奥が、灼けるように熱く、感じた。
 
 時間も、空間も、その時激しく裂けた。
 ほとばしる真紅の血が、立ちすくむ彼女を、ずぶ濡れにしたようだ。
 彼は、微笑んだ。世界中の、どんな無垢な子供よりも無邪気な表情で、下手くそに、笑った。そのまま、ばらばらと音を立てて崩れてしまいそうに、笑った。
 彼女は、ただ、すべてを抱きとめて、彼が崩れてしまうのを止めたい、守りたいと、強く願っている。そのために、頬にこぼれた涙に気づくのに、遅れた。
 
 
 
 青く切り取られたひとつの点描画のなかの、ひとつの点でしかなかった、そんな彼女の存在に、深い奥行きが生まれたよう。
 研ぎ澄まされた視線は、レーザーのように平面を削り取り、そこに、くっきりとふちどられた影が生まれる。
 てのひらを、暗いライトの光に、翳してみる。指の間からは、諸刃の剣のように、鋭く、脆いまなざしが、見える。
 そのまつげは、影に引き伸ばされて、頬に細かな線を描く。まなざしを横切るように、不精に伸ばされたままの前髪が、かき上げられる。そしてまた落ちかかっては、引き継がれたように同じ位置に、影を落としている。
 彼女は、考える。
 同じように、今、私の瞳にも、影が落ちているのだろう。私の頬にも、足下にも、まったく従順な、私だけに支配されることを至福とする影が。
 そんな当たり前のことが、今初めて発見された新しい真実のように、心に響いた。
 私にも、影ができるなんて、知らなかった。
 ぽつりとつぶやいた独白に、彼は黙って、少し強い目をする。
 私が、光を遮っている存在だなんて、信じられなかったの。みんなが背負って歩いている影の色を見て、私のは、もっともっと、見えないくらい、薄い影の色なんだろうって、思ってたの。
 テーブルの上に置いた彼女の手は、黄ばんだ石壁のしみの上に、シルエットを象っている。
 彼女も、彼も、それを見つめている。
 やがて、もうひとつの手のシルエットが、その上に重なった。
 彼女は、左手の上に、確かなぬくもりを感じ、ふたつの手の影も、そのまま動かない。
 目を閉じてしまえば、彼は、低く柔らかな声をより細めて、言う。影なんて、見えない。でも、ぬくもりは、感じるよ。
 そうね。影の色なんて、どうでもいいのかもしれない。でも、目を閉じても、光を見ることはあるわね。
 そう。目を閉じたほうが、よく見えるものも、あるね。
 例えば?
 例えば、君とか。
 
 
 
 この、世界の終末を予感させる、掃き溜めの街、人々の魂が、巨大で猥雑な胃袋に吸い込まれるように、光を失っていく街。
 彼らはそこで何かを得たのか、それとも失ったのか、わからない。
 ただそこに、彼らがいて、ぬくもりのあることだけが、今、確かな唯一のことだった。
 彼の過去も、現在さえも、何ひとつ、知らなかった。それでも彼女は、すべてを知っていると、感じていた。
 彼は、彼女の時計を、逆に廻してしまった。彼女は、未来の思い出も、懐かしく見つめることができた。
 
 石畳は、夜明けの霧雨に濡れて、ねずみ色の光を、つややかに反射している。
 ふたりは、雨を避け、肩を寄せあうように歩いていた。
 古ぼけたブーツは雨を吸い込んで、その中で、濡れた爪先が凍えながら遊ぶ。足下でも、泥まみれの水滴が、楽しげに跳ねている。
 雨に始まる一日の気配は、どこか不自然だ。
 辺りには、ひどく生臭い、廃墟の腐臭が、立ちこめている。それに混じって、降り初めの雨のほろ苦い匂いが、流れてくる。雨を呼吸する、緑の発する、すがすがしく、哀しい匂い。長い長い間、忘れかけていた、その匂い。
 さまざまな、埋もれかけた、一瞬一瞬の映像がたちのぼっては、消える。混乱した意識は、軽い目眩を起こした。
 眉間に手をやると、まつげの水滴が視界にフィルターをかけ、世界が美しく見える。
 雨足は、強まった。
 横顔を見上げると、彼は、遠い目をしていた。
 彼女を振り返って見て、柔らかな微笑に目を細める。長い髪を伝わって落ちていく雨粒たちを、見守っている。
 彼女は、わだかまった謎が氷解していく音を、聞いている。シンプルになった世界が、やり場のなかった想いを、吸い取っていく。
 




ψ




 目を閉じると、よく見えるものがあると、彼は言った。
 この世界の目に写るすべてのものは、本当に見えているとおりのものなのか、彼女には、信じられなくなるときが多かった。
 視覚は、時として、プラグを取り違えられて間違ったところに入力された、データのよう。
 鏡を覗き込めば、他人のような、私がいる。ゆがんで、ひずんだ時空のはざまで、永遠に凍りついた世界に閉じ込められ、絶望しているみたいな、私。
 それは、彼女自身の感情とは別のもので、どんな笑顔も、ひきつった絶望の笑みに、写った。
 私は、絶望など、したことはなかったのに。そんな甘美なものを味わう贅沢を、自分に許した覚えはないのに。
 鏡の中の自分と、私が私だと思っている自分と、どちらが本物なのだろう。頑是ない嘘つきは、どちらなのだろう。
 
 もう、目を閉じてしまおう。見たくないものから、目をそらそう。そう、思った。
 そのひとは、光を纏って、いつでも、そこにいる。
 どんな色にも染まらず、何も反映しないで。ただ、空気の突然変異した形として。
 彼女の思考は、既に、停止した。
 ささやかな予感を信じ込もうとする、盲目な熱意だけに、支配されていた。
 
 彼のまなざしは、彼女の身体を通り越して、すきとおる風を、追いかける。
 翼は、その風に包まれて、はばたきを、思い出す。
 彼女の眼に、写るものは、すべて、彼の姿をしている。
 その、残像だけを追いかけて、彷徨うために、このふたつの瞳は、あるのかもしれない。
 
 
 
 彼の、手の仕草が、彼女はとても好きだった。
 癖と呼べるほどの、具体的なものではない。なにげない、無意識のうちから生まれる、とても些細な、腕や指の動かし方。完全に無意味で、何かを表現しようとする意図など、何もない動き。そこから、香り立つ、何か。
 人は、無駄をたくさん抱えながら生き、それを少しでも減らそうと、躍起になる。
 それでも彼らは、まるで無駄に埋もれて死ぬために生きるように、無駄を、無意味を、愛した。
 
 時や、命を、溢れてこぼれる水のように垂れ流して生きることは、それにしたがって、心の水位を徐々に下げていくという、あまりにも明白な過程を、伴う。
 それは、老いにも勝る、分かり易す過ぎるほどの、下降。下降と言うより、落下。墜落。
 重力に身を任せる瞬間に感じる、一瞬だけの浮遊感は、彼女を夢中にさせた。
 彼の仕草を、ふっと眼にしたときには、このまま、時の終わりまで、流れていくきらめきを数えながら、過ごしていけるような、幻に囚われた。
 百年も前から、ずっと、この仕草を見つめ続けてきたように、思えるのだった。
 
 ずっと、ずっと、落下し続けるふたつの物体でいることは、不可能なのだろうか?
 
 
 
 人に見つめられることに、慣れることがない彼は、彼女の視線に気づくと、いつも照れくさそうに笑って、魂をどこかに隠してしまう。瞳の描かれない人物画のように、抜け殻としての体を残したままで、時々、どこかへ行ってしまう瞬間があった。
 残された抜け殻のほうが、逆説的に、その人物の特徴を際立たせることが、ある。彼の場合もそうだったかどうか、彼女には、わからない。
 しかし、彼の深い二重の目蓋も、その唇の形も顎の線も、そのひとつひとつを見る限り、大変な違和感を、彼女にもたらした。鏡の中の自分に、いつまでも馴染めない感覚と、同じに。
 希釈されて、長く続く、悪夢。
 掴み切れない真実は、掴み切れないのが当然だと知っていても、また、不安がめぐるのを止められない。
 歯車が噛み合わないまま、回り続ければ、すぐに磨耗して、元へは戻らなくなるだろう。
 バランスの悪い満ち潮が、答えを出すのを、少しでも、引き伸ばしたい。このまま、いつまでも、ふわふわと漂っていたい。
 消極的な憧れは、そのための苦しみを、指定席付きで、用意した。
 単調な日常は、毛羽だったいらだちを、陽の下に晒さない。またひとつ、太陽は沈む。
 
 
 
 彼女には、愚かな抵抗が、多すぎたのだろうか?
 彼には、すべてを受け入れる、柔軟さがあったのに。
 不思議なほどの、安定した、感情。それは、彼女を支えてはくれた。しかし、それが原因で、焦げついた痛みももたらされた。
 その落ち着きと、少ししらけているとも取れる、陽気さ。そして度肝を抜かれるほどの無邪気さ。
 汚れた水を、いくらでも飲み込んで、清らかにして世界に返しているよう。
 あなたの中で、濾過されて溜まった汚れは、どこにいくのですか?
 彼女は、とても、恐かった。
 限界を1ミリ越えたとき、彼は、どうなってしまうのか。常に、不安定な危険物を抱えているから、いつも、安定していなくてはいけないという、矛盾。
 それなのに、なぜ、すべてを飲み込むの?
 私には、彼を救うことは、できない。
 私は、彼が浄化する、汚物のひとつなのかもしれない。
 
 空気は、熱を帯びて、対流を止める。
 じわりと、肌が、焦げていく匂い。
 裂けた時が、血のように流したものは、やがて、甘い蜜に姿を変えた。
 哀しみの叫びは、甘い揺らぎに変わり、ふたりは、脱皮を繰り返すさなぎになった。
 熱してふるえる唇が描いた文様は、肌の上に刻まれる。
 血管にしみこんで、速度を越えて、駆け巡る。
 そして、魂は、何かに化けた。
 聞いたことのない呪文が、二重三重に響いて、耳に焼き付く。
 心臓が、縛り上げられたように締めつけられ、痛んでは、壊れた機械のように、ぎくしゃくと、動いた。
 鼓動は、警鐘のように、身体をとびだして、世界中に鳴り響いているよう。
 ふたりは、溢れ出て流れたお互いの血を、飲み干した。
 傷を舐め合う、獣たちの仕草で。癒されるはずのない渇きを、癒すために。
 
 妖しくうごめく、微生物たちの祭りは、続いた。
 
 
 
 広すぎる海に、たったふたりきりの魚たちは、暮らした。そして、愛しあい、彼らは、伝説になった。
 世界中に、ふたりきりしかいなくなったら、どんなふたりでも、愛しあい、縋りつきあうのかもしれない。
 幸いなことに、世界は、彼らだけでは、なかった。
 生まれて初めて、彼女は、世界に感謝したいと思えた。
 彼女は、世界を恨んでいた。そのために、世界も、彼女を恨んでいた。共存を拒む冷たい意志が、自らを浸食していることにも、気づかずに。
 
 どんな不安より、どんな恐怖よりも、近くにいたかった。
 わずらわしい、命の矛盾よりも、宇宙の、すべての、掟よりも。
 憎しみを売りさばく、たくさんの手よりも、優しさを買い占める、わがままな玩具よりも。
 





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