無 彩 色 の 寓 話    


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 夢の中で、彼女は、銀色に光る車に乗って、どこまでも透明な水を湛えた、浅瀬の波の上を、走っていた。
 黒光りするタイヤが、柔らかく、音もなく、飛沫を巻き上げている。そしてそれは、細かな宝石のかけらたちに変わって、舞い続ける。
 白く輝く砂浜が、彼方に眩しく、眼が痛んだ。
 粘り気の強いようにも見える、奇妙なほど透き通る海水は、舐めると、甘い味がするような気がした。
 彼女は、車を降りた。海水は、生温かく、両足を包んだ。
 空気は、乾き切っていて、完全に、無臭だった。
 
 小さな船の船室に、大きな空の水槽がある。そのなかに、裸の男が、筋肉質の大きな体を小さく丸めて、屈んでいた。
 船の鎖が、その手首に食い込んでいる。緑色の痣が、静脈を横切って、走っている。
 男が、怯えた動物のような眼を、宙に泳がせる。
 室内の蒸れた空気に反して、小刻みに、震えていた。
 肌は、うっすらと汗ばんで、魚の鱗のように、艶かしく光沢をたたえていた。
 その下には、筋肉組織のしなやかな動きが、透けて見えている。
 柔らかく波打つ頭髪は、指を入れると、意外にごわついていて、その感触に苛立った。
 潮の匂いが、つんとわき立った。
 男は、彼女を、飼い犬の従順さのまなざしで見上げた。
 見つめ返すと、その瞳の美しい海色は、どんどん、濃くなっていく。やがて、群青色に近づくと、白目の部分を覆い尽くすように、広がった。
 サファイアを埋め込んだ、ふたつの窪みは、内側からの光を、妖しく乱反射した。
 
 彼女は、水槽を、軽々と抱えて、海のなかに落とした。
 穏やかに揺れていた海水は、にわかに沸き立った熱湯のように、水槽に躍り込む。
 男は、その中で、静けさを保ったまま、彼女を見つめていた。そして、口角がつりあがり、顔面の筋肉は、微笑のための動きを、なめらかに執り行った。しかし、それは、笑顔ではないように思えた。
 あまりに完璧な微笑みであったために、かつて眼にしたことのないものに対する恐れから、彼女はそう感じたのかもしれない。
 男は、彼女の意識に、話しかけた。
 ありがとう、と、一言。
 男の顔は、醜く、歪み始める。
 断末魔の喘ぎの中で、赤く膨れ上がった物体となって、波間に消えた。
 風景は、もとの静寂を、取り戻した。
 溶けたサファイアの色は、どこに、消えたのか。
 それだけを、化学変化の結果を検証するように、佇んで考える、彼女がいた。
 
 
 
 夢の中で、あなたを壊してしまった。
 あなたは、海に溶け、私に溶けてしまったの?
 彼女は、感情を失っていた。同時に、男を、激しく愛していた。
 
 私の愛は、世界を銃殺してしまった。
 私は、虚無のなかに佇み、朽ち果てる。その時を待つ、そのために、時に犯される。
 目覚めた彼女は、あまりの恐怖に、小さく、叫び声をあげた。
 
 
 てのひらにかいた、冷たく鈍い質感の汗を、もう一度握りしめる。一輪だけ差しておいた花が、しおれて、ぽとりと落ちていた。
 眼を、閉じる。残像が、目蓋の裏に消えないので、寝返りを打つ。ひとすじ流れた涙は、もう、乾いている。頬がつっぱって、微かに痛む。
 
 愚かさを、涙で洗い清めるために、すべての時を使えるのなら、どんなに幸せだろう。
 胸に押し込められた、魂は、叫ぶ。
 あなたは、私ではない。私は、あなたでは、ない。あなたは、あなたですら、ないかもしれない。
 とりとめのない、不安。
 誰にも、誰の心も、理解することはできない。共感は、幻想の、かりそめの姿。
 
 
 
 知ることを拒否するのは、罪なのだろうか。
 記憶することもなく、何を考えることもない、ただそこにとどまって生きている、植物になりたかった。心を揺さぶる感動もない代わりに、苦しむ能力もない存在に。苦しむ必要がないのは、人間よりも、ずっと高等な生命だからかもしれない。
 植物は、何を予感して、生きるのだろう。
 しおれて落ちた花びらをかたづけ、新しいつぼみの付いた、咲きかけの花を差す。
 花は、色や形が違っても、どれも同じつながりを持った、生命の一片に、思える。
 枯れた花は、新しく飾られた花に、嫉妬するだろうか。
 なのに、わたしたちの命は、細かく散乱してしまって、取り返しがつかない。
 微粒子と、微粒子の、憎しみ合いばかり。愛し合うふたつの命も、ひとつに重なって連なることは、不可能なことだ。たとえ、どんなに、それを願っても。
 あらかじめ、奪われた形の自由だけしか、私たちは謳歌しない。
 糸の切れた、真珠の、ネックレス。
 誰かと同じところに落ちて、並んで転がることだけを、願う。ただ、それだけ。
 いつかは錆びて、脆くなることがわかっていても、使い古した鎖で、また、縛ろうとする。
 彼女は、眠る彼の背中を、見つめている。
 
 
 
 着古した衣服と、数冊の、かび臭い本。
 不思議に思えるほど少ない荷物の中に、いくつかの、偽造されたパスポートを見つける。
 外見を変えながら写っている、何種類かの、顔。彼の過去を語る、唯一のものだった。
 たとえ彼が、殺人犯だったとしても、それが彼女に、何の関係があるだろう。
 本の間から、はらりと舞うように落ちたその秘密は、無邪気な顔をして、彼女を見上げている。
 
 思い出は、鉛筆書きの原稿。焼け焦げた肌。
 私は、汚く消し跡の残った白い紙。火傷の醜い痕。
 過ごした時のすべては、渦を巻いてげっぷのような音を立てながら、あくまでも貪欲な排水溝に消えた後だった。
 彼女は、秘密をさえ、持っていなかった。
 
 駆け下りた階段は、薄暗く、螺旋を描いて地中にのまれている。足音が、奇妙なほど籠もって、増幅される。熱く蒸れた風が、湧き上がる。地獄への入り口のよう。
 街の喧噪は、いつも饒舌に、欲望の美学を語る。ドラッグを売る、青黒い顔の男が、目配せの相手を求めて視線を泳がせていた。冷え始めた湿気が、骨にしみ渡るようで、体が軋んでいる。
 彼女は、彼の過去を、羨み始めている。彼が、なんらかの政治犯であるらしいことは、どうでもよかった。
 彼が人殺しなら、私も人殺しになりたい。イメージの遊びは、自らを傷つけた。
 彼の何もかもを、知りたかった。でも、知りたくはなかった。
 過去なんて、思いのままに作り替えてしまった、身勝手で稚拙なプロットのくせに。
 風に紙屑が舞い、彼女は、襟を立てる。いらなくなった想い出たちは、未練もなく捨てられ、今日も、街を汚している。
 
 
 
 君は、子供のまんまだからね。子供というか、もっと前の、胎児かもしれない。
 羊水の中じゃないと、生きられないから?
 そうだね。純粋な、世界じゃないと。
 私は、そんなに、純粋じゃないよ。ただ、愚かなだけ。
 愚かなのは、僕のほうじゃないかな。
 あなたは、間抜けに、やさしいからね。
 間抜けっていうのは、何だよ。
 例えば、私が、寒さに震えていたとするでしょう。あなたは、それを見ても、自分の上着を差し出すことも思いつかずに、途方に暮れて、せっかくの上着を投げ捨てちゃうような人だから。それで、一緒に震えようとするような人だから。
 やっぱり、愚かしいな。
 うん。
 なんか、僕達、馬鹿みたいだな。
 馬鹿みたいね。もっともっと、馬鹿になりたいな。
 
 
 
 赤い斜光の射し込む小さな部屋は、洗濯した衣類を取り込むと、限りなくやさしい太陽の匂いで充満した。
 こんな、鉄屑の降ってきそうな空を通しても、陽射しはいつも、わたしたちを包み、守ってくれる。
 太陽の輪郭は、確かなものを描き出す完全な曲線として、今日も、生まれ変わり続ける。
 この、消え入りそうな日常の果てに、永遠というものが、本当に、ありそうな気がした。気が遠くなるほどの、はるかな道程の上に、彼らは、いるような気がした。
 ほんの少しでも、道を外れれば、すべては夢想として、影もなく消えてしまう。失敗は、許されない。
 赤い夕焼けの空へ続く、あの高みに溶け込む、曲がりくねった土色の道から、懐かしい子供たちの歌声が、聞こえる。そこでは、憧憬と、受容とは、反比例しない。
 




ψ




 僕は、今も、死んでいるのと同じなんだ。
 今の僕は、あなたを一緒に殺してしまっているようだ。それが、あなたの願いだったとしても。
 
 熟れた果実が、腐るのを、ただ待っていてはいけない。
 指の間からこぼれ落ちた砂の粒だけが、美しく輝いて見えたとしても、その瞬間を凍りつかせ、突き抜けていくことを望んでも。
 タブーを犯した僕は、裁かれる。
 あなたの長い髪は、毒蛇に化けて冷たく肌の上を走る。碧い月の下で、全身をきつく縛り付けられ、息絶える。
 甘ったるい、幻想。それが、現実になることを、切望した。にごった欲望が、あなたを白濁した世界に封じ込めてしまう前に。
 
 凛として降り注ぐ月の光を浴びて、無数の色彩の中を泳ぐ、世にも珍しい深海魚。
 墨を溶かした海の中に、鮮やかな残像を遺しては消え、また気紛れに現れる。その虹色のオーラは、無防備になった心の恥部を照らす。
 波のパルスは鼓膜をくすぐり、そのリズムに身を任せることで、幼いかくれんぼは夜明けまで続く。世界が、敗北の鐘を、高らかに鳴らすまで。
 
 
 僕の血は、流れることを拒否しながら、流れた。
 魂の声を聞かず、ルーレットを廻す。
 無数の岐路に立てば、過ちを犯すために、理性的になった。迷路にはまりこむために、磁石を狂わせた。
 信じてもいないものを信じ、忠誠を誓い、裏切ることを承知の上で、当然のように裏切られた。
 僕の弱さや矛盾を、あからさまにえぐり出す人々。そして、女たち。僕は、隅々まで、残酷なまでに正確に、写し出される。
 
 それは、宇宙の果てで命を全うし、死に行く星たちに導かれた、強く見えない意志だった。
 最期の爆発は、次世代の命の誕生を証明している。自然な流れの一部だ。
 最果ての地で、終わることと始まることの連なりを、見届けたかった。
 
 悪あがきの人生経験がもたらすものなど、何もない。何もないことを確かめるために、何かをするのだ。確かめる必要のないことなら、何もしなくたっていい。
 生きることの余白は、情熱の隙間は、それでも、なんらかの形で埋められていないと、閑散とし過ぎている。
 僕は、暇潰しに自分をいじめて、その手加減された生ぬるい痛みに酔ってきただけだ。
 それなのに、あなたは、どんな怒りや憎しみも、堕胎することがない。
 
 
 
 人間が、都市を孤独な独房に変え、地球を巨大な刑務所に造り替える間に、生きとし生けるものすべての願望は神の意志を支えて、いつしか、太古の楽園は甦るだろう。
 その時まで、僕達の命が続くことがなかったのは、残念だった。
 でも、あなたは、その息吹を感じているのだろう。今この時も。
 
 眠り続ける命を、揺り起こさなくていいんだ。
 あなたは、そのまま、眠るように、生きていけばいい。
 胎児の姿のまま。両足を折り曲げ、膝を抱いて。
 
 あなたは、枯れた花を抱きしめて、泣いていた。大切に思うものは、みんな、去っていくと。
 僕が去っても、あなたはこんなふうに泣くのだろうか。そう思ったとき、僕のなかで、何かが切り替わってしまった。
 初めての、生命が、うまれた。ありふれた、どこにでもある、単純な、僕が。
 だらしなく、薄汚い格好をして、浮浪者のように彷徨っていたが、そいつは、確かにやってきた。僕の前で、憮然とした顔をして立っているその男の顔には、見覚えがあった。
 演じない男の顔を、本当に久しぶりに見ていた。
 体温があり、手触りがあり、汗くさい匂いがする。
 僕は、僕ではなく、ほかの誰でもなかった長い時の間に、自分の顔を忘れてしまっていた。
 しかし、今見ている自分の顔が確かなものだと、証明することなどできない。これも、贋物なんだろう。きっと、そのうちにそれに気づくのだろう。
 楔は、僕が思う以上に深く、打ち込まれていた。宿命とは、そんなものだろう。本当の自分なんて、探していられるうちは幸せだ。そんなものがどこかにあると、信じていられるうちは。
 
 
 月の満ち欠けのように、愛情はせめぎあう。
 酷い真実を拒絶する者が裁かれるのなら、あなたは、上手に嘘をついてくれたらいい。
 苦しみに耐えるには、その筋書きを、自分で書けばいい。それには、僕を憎むことで、十分だ。
 さもなければ、僕が、引き金を引かなければいけない。
 あなたが壊されてしまうのなら、その前に、僕のこの手で壊したい。
 
 

 



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