無 彩 色 の 寓 話    


3 ////// 4



 土くさい憧れが、満開に咲いていた。
 そのむせ返る香りに、息を詰まらせて、死んでしまいたいほど美しく。
 誘われて、惑わされた虫達が集い、食虫花がそれを飲み込む、彼女も、その虫のひとつ。呼吸を止めたなら、こんなに、苦しくないだろう。
 苔むした壁面に食い込む、乾いた爪。
 無駄のない曲線に、名付けられた愛。
 至高の言葉に、なぞらえた謎。
 そこは、天国だったのだろうか?
 
 無期懲役に処された魂は、ただ、夢が見たいと言った。美しい、景色が見たいと。
 唇に塞がれた唇は、言葉を失って、どんな不安も語ることができない。排泄されない負の感情が、一面に忘れ去られ転がったまま、彼女の視界を汚した。
 これが、捜し求めた、ユートピアだった。
 しかし、彼女には、眼に写るものはみんな嘘なのだった。もちろん、彼女は、そこに居座るつもりでいた。
 
 何も与えず、何も、搾取しない。ただそこには、交信する電波が行き交う、空間があるだけ。共鳴する、ふたつの音叉。
 
 彼は、どこまでも、優しかった。そして、どこまでも、嘘つきだった。
 彼女の眼を、両手で覆いつづけた。嘘で織りあげた暖かな毛布で、濡れた体をおおきく包み込んだ。
 南の島の、熱帯の楽園に棲む、極楽鳥のオーロラ色の羽の輝きや、大地の傷口のような、深い赤茶色の峡谷を吹きすさぶ風の匂いや、大木の幹の手触りを、彼女に教えた。
 どんな仮想現実よりも、鮮やかで、確かな手応えを持って、繰り広げられる、その寓話。
 彼女は、どこにも、行く必要はなかった。地中に隠れて生きる、昆虫のように。
 しかし、この街を出ようと、彼は言った。
 
 彼女の答えは、ひとつしか、ない。
 うわずった、安っぽい感傷のニュアンスとともに。
 彼女はいつも、完全に満たされた女を、演じた。戸惑いは、すべて隠して。
 彼女は考える。彼は、何に閉塞感を覚えてしまったのだろう。この街の、あきらめの色彩に? それとも、私の卑屈さに?
 恐怖は、蒸留され、純化された空白に巣喰う。
 
 眩しい太陽の街に行こう。こんな霧に煙った、じめじめしたところじゃなくてね。
 本当の青は、南の街の、空の色だよ。家々の白い壁との、コントラストが美しい、つきぬけるようなあの色。
 
 そんな色は、青じゃない。
 青は、清楚な顔はしていても、自信家で、押しつけがましくて、暗い、意地悪な色。この街の色。私の色。
 
 そんな素敵な街に、私は、馴染めるかしら。
 少し、日に焼ければね。
 彼は、長い冬眠から目覚めたように、活気を取り戻しているよう。
 陽気に笑う彼を、穴の空いた大きな水瓶のような心で、見つめ返すしかなかった。
 
 焼けた砂が、足の裏をじりじりと焦がすので、椰子の木陰に駆け寄ると、彼はそこで、穏やかなまどろみに、身を委ねていた。
 その表情は、過去と現在を結びつけているという誇りに満ちた、偉大な文化遺産たちのたたずまいを、思い起こさせる。
 貝殻を耳に寄せて、波の囁きを聴くように、その胸に耳を当ててみる。
 そこには、宇宙の鼓動が、聞こえた。
 砂漠に投げ出された、ふたつの白い貝殻は、大いなる海のふところに抱かれる夢を、見る。
 
 
 
 大事にしていた鉢植えが、枯れた。
 渇きに飢えることがないようにと、慈しみ、たっぷりと与えた水は根を腐らせ、気がつけば、手の施しようがなかった。
 私は、みんな枯らしてしまうわね。
 わたしが大切にするものは、みんな、私を去っていくの。
 この鉢も、誰か他の人の手に渡っていれば、大きく育っていつか花をつけたでしょうに。かわいそうに。私に買われたばっかりに。
 彼は、顔を背け、彼女の言葉を聞こえていないような空白の表情で、何かを考えるように俯いていた。
 本当に、大切にしていたのよ。
 彼女の声が涙混じりだったので、彼は、顔を上げる。
 良く、わかってるよ。
 彼は、右腕を伸ばし、彼女の肩をゆっくりと包み込む。
 まるで、泣きじゃくる子供があやされているようだと、彼女は、遠くなった意識で考えている。
 爆発を警告するアラームのように、心臓がきりりと、音を立てた。
 
 白雪姫は、毒入りの櫛で髪を梳かれて、死にかける。
 幼い頃、甘い死の誘惑の言葉に酔って、何度も何度も、胸をときめかせて、読み返したものだった。
 さあ、このすてきなくしで、おじょうさんのきれいなかみのけを、とかしてあげましょう。
 魔女が現れて、髪を優しく梳いてくれるのを、ずっと夢見ていたのだった。
 そんなことを、彼女は、ふっと思い出していた。
 
 
 
 稜線が切り取る空の形を確かめに、彼は、飛び立とうとしている。銃声が、轟く。
 彼女は、野兎になって、狩人の前に躍り出ようと決めていた。
 波は、激しさの裏で忍びやかに崖を浸食し、いつしか、大陸の形さえ、変えてしまう。
 彼女に寄せつづけた、ささやかな感情の波も繰り返されつづけて、自らの魂の形を、削り取る。もう、何物も残されてはいない。
 既に、愛されることに、怯えていた。愛されることは、いつか愛されなくなることを証明しているだけの、単純な公式に思えた。
 
 彼女は、自分に問う。私は、似た者同士の、根を下ろして生きる勇気のない男を、崇めてしまっただけなのだろうか? 鏡に映った自分自身の幻に、くちづけていただけなのだろうか?
 彼女は、吐き気を催す。すべての汚れた内蔵を、吐き出してしまいたい。
 曇り空に、並んでたなびく煙は、みな、風下に向かっている。彼女は、窓を閉め、カーテンを引いた。
 
 
 
 落とした香水瓶から溢れた液体が、シーツの上に、架空の大陸を描く。バラやジャスミンや、数え切れない花花の甘い香りが、鼻孔の奥をしびれさせ、毒々しい激しさで脳を貫いた。
 僅かに開いた唇から、唾液が流れて、吐息は、舌の上で蒸発してしまった。
 夢幻の彼方の、後ろ姿に手を伸ばすと、振り向いたその男には、顔がなかった。
 救済のためにやってきた使者が、仕事を終えて、帰っていく。
 やはり、あなたは、あなたではなかったの?
 
 彼女は、その後ろ姿にすがりついて伝えたい一言を、呑み込んだ。激しい毒のように、それは彼女の中を焦がしている。
 その微かな痙攣が空気に流れ出し、何もなかった空間がばりばりと引き裂かれていくようだ。
 苦悩は、快楽に、循環される。突き詰めれば、それはどちらでもなかった。すべては酷似していて、彼女には、見分けがつかない。結局は、どちらでも同じことなのかもしれなかった。
 そんなことを確かめるために、使者は遣わされたのだろうか。彼女は、狂ったように笑いたかった。そして、それすらできないことも知っていた。
 毒の櫛は、どこにも見つからない。彼は、私を殺めてはくれない。
 




ψ




 切符に印刷された文字は、数千年の昔に滅びた文明が残した遺物のよう。彼女には、考古学者になる才能はなかった。
 終着駅は、いつでも、始発駅だ。
 アーチ型にそびえる、駅舎の屋根の外側には、星の流れる低い空だけが見える。そのために、すべての線路が、銀河に向かって伸びているかのようだ。
 星がこんなに良く見えるのは、何年振りだろう。通り過ぎる老夫婦が、そう話しているのが、聞こえた。
 夜行列車を待つ人々が、待合い室で、時計の刻む音を教えている。なぜか、彼らは、刑の執行をなす術もなく待っている囚人達のように、彼女には見える。地面に座り込んで、チョコレートを奪い合う幼い兄弟達の黄色い声を、みな俯いて、聞くともなしに聞いている。
 くすぶる煙草のけむりが、灰皿から、ひとすじの線を描いて立ち昇っている。彼女は、その軌跡を、ずっと飽きもせず眺めている。
 ここには、置き去りにされた孤独の死体が、あふれている。
 
 彼らが乗るはずだった列車が出発してから、既に、数時間が経過していた。
 遅れて到着した列車から、疲れた顔をした人々が、次々と降り立った。わびしい静けさは、突然、掻き消される。
 彼女は、席を立つ。
 彼が、駅に残っていなかったことを、わざわざ確かめにやってきた、愚かな女。彼女は、思う。すべては、こうなるべくしてなったのだ。私は、この街に、残るべきだったのだ。
 錨は、降ろされた。
 
 すべては、戻った。時間は、ひとが考えているような、単一な流れ方をするものとは、限らない。
 転がり続けるものは、永遠に、転がり続ける。死に続けるものも、永遠に、死に続けるのだろうか。彼女のように。
 宇宙の掟を越えられるものなんて、あるはずがなかった。
 
 彼女は、解き放された。星空が、彼女を吸いつけている。彼女は、地に足をつけず、歩いた。軽やかに、亡霊のように。
 
 
 
 街角に立つ娼婦たちの、赤く染めた髪の色が、闇の中に浮き立って見えている。ショーケースの中で、捕われた動物のように、餌を要求し続ける。歪められた形の、愛のエネルギーの名残りが、こびりついて漂う。
 眠らない街の営みは、さながら、魂の軍事工場だ。徴兵された男たちの、病んでいることに気づかず病んでいる瞳が、戦闘の準備に明け暮れているようだ。戦うことは、勝つ快楽と、負ける陶酔の、必ずどちらかを与えてくれる。
 原色の人工灯が交差しあう中で、彼女は、初めて、自分の参加していない世界を知った。自分のいない世界を見つめる彼女。この世界は、こんなにも明るく、にぎやかで、楽しげなものだったのだろうか。気高く、野蛮なこのカーニバルは、いつから続いていたのだろう。
 眼に痛いほどの、色彩の、洪水。大光量のライトに、四方八方から丁寧に照らされた人々の顔は、陰影がなく、どれも同じに見える。
 贋物の太陽は、彼女もほかの人間と同じように、眩惑してくれるはずだ。黄昏時も、やってこない。いつでも、真昼のままで。日蝕の瞬間がやってきたとしても、誰ひとりとして気づかずに。
 
 夢遊病者のように歩き続けるうちに、明け方になっていた。人々は、白んでくる空に追い立てられるように、散り散りに去って行く。彼女は、朝日の前触れとともに、とりのこされる。世界が、一番、美しい時間だった。
 
 疲労を感じなくなった体の芯で、地震の予兆のような、大地の軋むような音がしている。白い光は、心に、注ぎ込んだ。ぽっかりと空いている、大きな穴にも、その光は惜しみなく注がれる。消毒薬のようにしみたので、彼女はようやく、痛みを思い出す。
 
 運河に架かる橋の途中で、彼女は、足を止める。欄干から、身を乗り出す。淀んだ流れにも、その水面で、朝の光は戯れていた。冷え切った鉄の手摺を握ると、てのひらは凍りついた。我に返った体は、背筋に走る急激な寒さを、やっとのことで感じ取った。
 
 この痛みは、通り雨なのだろうか。
 振り子は、いつまでも、振れ続ける。
 人の命など、どれほど、小さなものだろう。なのにどうして、もうひとつの小さな命を求めずにいられないのだろう。振り子は、右に、左に、振れ続ける。もうひとつの、小さな振り子を探して。懐かしい、双子の振り子を。
 
 
 
 ずいぶん、遅かったな。何時間待たせたと思う?
 別人のような、その男がそこにいた。生まれ変わった別人の体で、そこにいるように思えて仕方なかった。
 暖をとるために入ったあの酒場は、出会ったときと、なにひとつ、変わっていない。壁の染みひとつまで、記憶と照合される。閉店間際、従業員は、疲れて疎ましげな眼で、彼女を眺める。
 何でここにいるの。彼女の頬は、こわばっている。
 君こそ、どこにいたの、今まで。彼は、穏やかに言う。
 何でこんなところにいるの。何でこんなところにいるのよ。
 意識が混乱して、くらくらした。室内の暖かさに反応し切れない毛細血管が、頬の下で、いくつもぶちぶちとちぎれてしまったように、ひどく火照った。
 
 彼は、彼女のために、体の温まる酒を、注文する。湯気が、彼女の気管を優しく撫でるように、吸い込まれていく。蒼ざめた唇が、赤みを取り戻す。
 沈黙が続く。このまま言葉など失くしてしまいたいと、彼女は思う。
 どうして、行かなかったの?
 彼はようやく唇を開いた。まっすぐ、前を向いたまま、彼女を見ていない。
 あなたこそ、どうして、行かなかったの。
 僕は、初めから、行くつもりはなかったんだ。
 どういうこと?
 君も、初めから、行くつもりはなかったの?
 彼女は、俯いて黙っている。
 だったら、たぶん、君と同じ理由から、残ったんだろうね。僕は、君をひとりで行かせようとしたんだ。
 どうして?
 君と、似たようなものだろう。
 
 早く仕事を終えて帰りたい従業員は、客のまばらになった店内で、モップがけを始めた。その若い男は、左腕の肘の少し上に、小さくタトゥーを入れていた。翼を広げた鳥と、女の名前を刻んだその胸は、遠慮のない動きで、床を擦っている。掃除をしているというよりは、まるで、床に汚れをなすりつけているようだ。
 
 彼は、彼女に、何もかもを話した。犯罪を犯し、逃亡したこと。ある組織を裏切ったために、命を狙われたこと。彼女は、何を聞いても、驚かない。彼女も、パスポートを盗み見たことを、話す。彼も、驚くことはない。
 
 掃除を終え、コートを着込んで奥から出てきたタトゥーの男は、いそいそと階段を昇って、家路についたらしかった。翼を憩めに、暖かな巣へ帰っていく鳥たち。
 世界の中心は、どこにでも存在する。幾つでも存在する。
 照明が、またちらちらと、明滅をし始めた。
 外では、太陽が大気を溶かしながら、姿を覗かせはじめる頃だった。
 今日は、とてもいい天気になるわよ。
 その天気予報は、当てになるの?
 もちろんよ。昨夜は、何年かに一度の、星の降る夜だったから。
 





next▼