黒曜石の伝説  1 ////// 2








黒曜石【オブシディアン obsidian】
溶岩が地表で急激に冷やされ、結晶せずに天然硝子になった石。貝殻状に割れる性質から、矢尻や刃物のほか、磨いて鏡や石柩などに使われた。心の闇を見せつけ、強化する攻撃的な石。その力に屈しない心を持つ者でないと身につけるのは危険である。






ただ、ただ、光に充ちていた。強く張られたかと思えばまた弛められる眸。瞬きはしばしば、闇を繕うため記憶の連なりに折り挟まれる。白い夢。白い光と白い影。脈打ち、溢れこぼれる度に疼く。
藁がうずたかく積み上げられたあの納屋で、僕たちは、無惨にも平坦な光の支配から逃れるため、愛し合ったのではなかったか。ルークは、自らの源から今日もまた盗み取る。愛おしげに掌に転がすたびに、その記憶はまた白くなる。



婚礼のパレードは盛大に執り行われた。隣国とはいえ生涯見ることがないであろう湖水の国からやってきた、美しい王女。人々は息を呑み、激しく喝采した。
王女は、王女として有り得る限り最も華やかな衣裳に身を包んでいる。焦げ付くように鮮やかな珊瑚色。その貴い色だけでも、風々の吹き荒ぶ色のない国にとっては激しく眼に痛い。貫く強い眼と破顔一笑する優雅、理知的に整った振舞いは、決して珊瑚の豪奢にくすむものではなかった。
二度目に会った花嫁の晴れの姿。そして、馴染みのない儀式に浸され行く時に特有の、薄い水色が無骨にこすれ合う匂い。ルークはそれらをぼんやりと眺めてはいられない。人々の好奇の眼が、無数の眼球だけが、背景から跳び出してうごめいている。異形の絵画。受け入れるのに難渋する。何故ならそれは、彼が常に景色のなか追いもとめるものを、あまりにも微細な徴候を、屈託無く塗り潰してしまう為。
ルークには、王位を継承する意志はなかった。あらかじめ定められ遠く隔てられた掟。人々が舞い踊る。常にそこにある訳合を伏し目がちに見つめる。彼はいつも拒んた。拒めないと分かっていることを拒むのが好きだった。二つの枝を要求した上で、選択に踏みにじられるのが好きだった。眠りこけた意思のない手と足を縛り上げる。糸を操ってほしいのだと暗にもとめる。そして感謝を忘れる。身に絡みつく謎を拒み、そして愛した。
彼の愛するものは、必要をまさる鄭重さで家紋の縫いつけられた濃緑色の天鵞絨を、大仰な身振りで脱ぎ捨てる瞬間。香炉に煮えたぎった淡紫色の煙が溶け合い弾き合いするさまを、魂の抜かれつつある眼と人々が称するに相応しい独特の眼差しで包み込む瞬間。
魂が抜かれきったのではない。抜かれつつあると形容されるのは、蒼く煙ったその眸を、鈍重とは反対のあまりにも軽やかな鋭さが時折駆け抜ける所為だろう。掠めるひとひらの羽根。その刹那の明滅の激しさが、穏当な形容を斥けるのだ。
血走った絵画にさざめき立つ肌。木霊する歓声。意識が並べられた石をひとつひとつ裏返していく。白い記憶が黒に取って代わられる。彼のなかで小さな叫びが響く。
うずたかく藁の積み上げられた、不自然なほど明るい納屋。ふたりが隠れるのには恰好の場所。藁に埋もれた僕たちは、時を忘れて愛し合ったのではなかったか。君は王族である僕の名を呼び捨てることになかなか慣れてくれなかった。それ故に君が僕の名を発音したときの恥じらいが今も、視界をほのかに染める。



いつも同じ幻燈。閉ざした瞼のなかで苔むした陰影。湿度が摩耗から守っている。滴り落ちる雫はまたしても同じ苦さであることに安堵する。
季節外れに凍えるような灰色の昼だった。数え切れない兵士達の無表情と、身の丈をはるかに上回る太い槍。ルークが兵士達の何人かに両腕を押さえつけられている。ルークはそれでも激しく暴れるから、兵士達は仕方なしに王子を羽交い締めにする。私は凍えた手足を晒して、城から降りる路を行く。自分の顔が自分のものでない。神の目線を知ったように錯覚できるという不可思議。ルークが私の名を呼んでいる。何度も何度もひび割れた声で叫んでいる。
マルーンの指が、冷え切った石壁の上に蝶のように止まる。石室には小窓から漏れてくる僅かな光しかない。斜めに差し込む光筋が立ちこめる埃の粒子に乱れ輝く。壁に耳を押し当てた。何かが聞こえる気がした。町中に割れんばかりの歓声。それ以外であれば何でもいい。
伸ばしたきりの髪を乱雑に編み込んで、青ざめた唇は紅を忘れて久しい。壁の突起した冷たさに頬ずりを繰り返し、赤らんだ肌と魂はそれでも、無言のうちに若さに救われる。それは、植物的な残酷。
婚礼に浮かれた町も酔いどれの天使のようで残酷だ。耳を塞ぐ。目を伏せる。そして躊躇うことなく浮遊する。マルーンはまた此処から逃げ出す。意識は羽ばたく。蔦は絡まらない。色と色が愛し合っている。眩暈という悦楽。
深い森がある。小径を枝をより分けながら進むのだ。その道程が険しいほどいい。辿り着いた広場には乾いた藁が敷き詰められている。柔らかな緑が微震する。そこでいつものように横たわるのだ。大きく澄み切った球体は眩しく溢れ、世界にとろけていく。いつでも此処で貴方は待っているはずだった。言葉を聞く耳を持つ。すると言葉が聞こえる。
今日の眩暈は悪い酒のよう。貴方が居ない。何も聞こえない。こんなことは今まで無かった。胸が軋む。宙を泳ぐ両腕があらゆる棘を巻き付けた。マルーンは牢獄のようなその空間で一人崩れ落ちる。ひとつの命綱は寿命を迎えた。マルーンの着古して擦り切れた亜麻色の衣服からは、ほつれた糸が数本垂れ下がっている。胴のまわりを結ぶ共布の帯も解けて、床の上で退屈そうに眠っている。それらは、放り出された操り人形のように横たわる肢体にはそぐわない。何故つややかな操り人形は古びなかったのか。





黒い鏡の底に緑の吐息が沈む。禿鷹も眠る夜の森だ。その預言者に請いもとめる者は、闇の粒子の描き出す楕円形に寄り添わねばならない。その貌が箇々の色をものともしなくなる迄、世界に沈み込むのだ。意見を捨てよ。主張を折れ。ルークには得意なことの筈だった。
預言者の住処は誰も知らない。何処から来た何者なのかも知られていない。しかし幾ばくかの月が中空で割れていく年月、彼は人々に請われ続けている。預言者は遠い砂漠の海に暮らす人々のように、顔と躯を黒い布で覆っていた。彼の周囲には、より濃度の高い闇が連なる。夜の傷口。ルークは銃口を突きつけられた如く立ち竦んだ。
その男は死ぬだろう。突然預言者が呟く。一瞬、ルークは目を見張る。誰のことを言っているのだ。死を予言された男の名が自分のそれであることを片手で願いつつ、彼は待つ。
その男が死ぬ。ひとつの時が死ぬ。伝説は生きる。預言者は続けた。ルークはもはや、その言葉に意味よりも響きを求め始めている。預言者の声は低く、大地の霊魂の呻きのようでもある。しかしルークには下すべき判断があった。今となっては、彼はこの国の王である。守らなくてはならない。湖水の国から妻をめとった彼は、同時に彼の国とも結婚をしたことになる。勝たないならば、負ける。奪わないならば、奪われる。それ以上も以下もなかった。彼が望んだか否かは問われはしない。
僕は寧ろ敗けていたかったのだ。しかし国を連れて敗けることはできない。ルークは言う。ルークを後継者に選んだのは前代の王ではなく、忠誠に優れ寵愛されてきた参謀だった。決断をするのはいつも王であったが、そこに導くのは必ず参謀の仕事であった。ルールに則って王として生きるある種の才能を、そして決して逃げ出せない優しさを、ルークのなかに認めたのかもしれない。
既に答えを持つ者が、私に何を訊きに来たのだ。戦はお前のなかで既に始まっている。預言者は告げた。微動だにしなかった闇が、身悶えたように肌の上で泣いた。円錐型の月が突き刺さっている。涙とも血とも知れぬものを夜空は零した。雲はそれを慰めるように、或いは見て見ぬふりをするように、ぎこちなく流れた。



ルークは愛馬を殺めようとした。少年の面影残る日々、彼の記憶のなかにはいつもこの馬がいた。年老いた馬は戦には役立たない。知らなくても良いものなら知らずに逝きたいだろう。心が呟く。たてがみを撫でる。馬はいつものように喜ぶ。少なくともそう映る。悟られないようにしている心を読み、馬は嘘を演じているのだろうか。ルークにはそんなことさえ分からない。舌の奥が苦い。
静けさがざわめいている。乾いた嵐でも来るようだ。空気が色めき立つ。ルークの姿を見つめている眼差し。均一で平らな視線だ。参謀は待っていた。待つのは彼の仕事だ。浅黒く日焼けした皮膚に焦燥の色はない。だがルークは危険でもある。
馬は後脚で藁を勢いよく蹴飛ばした。糞尿の匂いが隙を窺う。命の匂い。馬の背に触れたままの手に痺れたような律動が走る。その瞳の明滅が速さを増す。魂の抜かれつつある眼。
ルークは号泣した。殺めることはできないと知る。
参謀は立ち去る。特に留意しなくとも気づかれることはない。気勢を消すことは、思うまま肝胆を寒からしめるよりも容易い。



蝋燭の炎が並ぶ薄闇の回廊を、棺がしめやかに運ばれていく。前代の王である叔父の晩年は哀しいほどに静かなものであった。ルークは手にした薔薇を口元に寄せた。香りは無いに等しかった。棺の上にあふれかえる薔薇の海へと、波紋すら伴ってその一輪は旅立った。
隣にたたずむ参謀は、彼に何かを囁いた。ルークは、聞き取れなかった旨を眼で返した。従兄弟たちがふたりの様子を見つめている。参謀も気づく。何事もなかったように前方を向き、かしこまる。前代の王には数人の息子がいたが、彼らは未だ若すぎるという理由でルークが後継に推された。その理由はしかし、至って表向きのものであった。家臣の多くは、ルークが継嗣となることを承諾し安堵したものだった。不本意だったのはルーク自身だけ。
棺のあとを追って最も近い血縁者が歩み行く。足音の不協和音。磨かれた神経の底にも忍ばず響く。通り過ぎた後五つを数え、ルークは参謀へと僅かに顔を近づけ小さく告げる。決心はついた。兵士達の士気を上げよ。参謀は人を払い、確信がたぎる表情を投げつけつつ王を振り返る。正しいご決断です。一寸の揺らぎもない。深い根の下ろされた蔓だけが持つ安定。ルークは大人げない口惜しさに舌を打つ。
ルークは返す。決断は自分のためでもお前のためでもない。国のためですらない。敵軍が入れば民に危険が及ぶ。町に生きるただ一人の民を僕は守りたいだけだ。沈黙が転がり、回廊の端でかたりと停まる。参謀はゆるやかに告げた。それ以上は聞きますまい。理由よりも大切なものが因果の掟を司っておるのです。



いっそ従兄弟たちが僕を殺しにくればいい。ルークは夜暗に酔う。繊細な長い指先で煙草を巻き取る仕草。はだけた五感が紫煙と隈無く交わっていく。冥界はこんな色をしているに違いない。彼は夢見ている。
夏の夜の艶やかな潤いが頬をなぶっている。この荒れた国にも垣間見える、短く切り取られた奇跡のような季節。あれから幾つの夏の夜をこうして無為に更けさせただろう。問いかけはまた同じだった。
窓を開け放つ。
馬のいななき。幻聴かどうか分からない。ルークは頭を振った。確かに聞こえた。窓辺に佇む。夜の息づかいしか耳に転がり込むものはない。神経に信号が走り、びくりとした後ルークは促されるように駆け出す。
王妃は隣室でチェスの駒を倒した。足音が遠ざかる。私は駒になるために此処にいるのではない。国という道具を使う選ばれし手だ。王妃の唇は青ざめはしない。彼女のためにあつらえられた豪奢な寝台と正絹の夜具が待っている。
ルークは馬小屋に走り込む。彼の愛馬はぐったりと横たわっていた。それは、愛憎もすべての情も超えた神聖な死だった。まだ馬のむくろには僅かな温もりが残っていた。苦しみの少ない死であっただろう。ルークは馬のそばに跪いた。銃声は巧妙に隠されたに違いない。彼がそんな失敗を犯すはずがないのを、ルークはよく知っていた。
夏の夜と馬とルークは、朝が来ることを拒みながら寄り添って横たわる。夜露が彼らを優しく覆い隠すだろう。







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