バスケットの国でバスケット部の顧問になる。
 

平成20429

PBA(フィリピンバスケットアソシエーション)があり、バスケットが、いわば国技のフィリピンで、バスケット部の顧問になりました。実は自分がプレイしたくて、顧問になったのですが・・・。
 休みの日はゴルフに行く同僚を尻目にして、ビレッジの公園でシュート練習をしていました。とにかく暑いマニラです。きちがいじみた暑さの中でも慣れると平気になるものです。
 ビレッジの代表選手にもなり、夜間は練習や練習試合をしていました。ビレッジ間の試合になると、ダンクのできる味方のプレーヤーの中では、ピリオド最後の1分に出される、いわば2軍選手でした。それでも良いパスがきまり、仲間とファイブ
(手をたたき合うこと)をしたときの感激は忘れられません。フィリピン人の審判はトラベリングにとても厳しく、ピボット(軸足)さえも使えません。あまりにも何回もとられるので、腹が立つこともありました。 
 ビレッジのユニフォームは、何か、安っぽい緑のランニングシャツタイプのものでした。職場の同僚の間でも、ブルズそっくりのユニフォームを格安でつくりました。チーム名はウオリアーズ
(戦士)といいます。昼休みもわずかな時間を惜しんで、生徒とバスケットをしていました。そのころはストリートバスケットがはやっていて、駐車場をコートにしてプレイしていました。駐車場のまわりには火炎樹がはえていて、オレンジ色の花が今でも、脳裏に焼き付いています。