7月のアシュリッジの森から学んだこと

      参加プログラム:アシュリッジ・エステイト

        参加期間:2001718日〜31

 

1.まえがき

 今想い返すと、音楽が聞こえてきそうな鬱蒼とした森でした。6:15AM、フットパスをゆっくりと走り始めます。枯葉を踏む音が気持ちよく響き、朝露に濡れた草が時おり冷たく感じられます。ケァッー、ケァッーと鳴き声が時おり聞こえてきます。小ジカがこちらの様子を窺っています。そっと近づくと跳ねるように距離をとり、また振り返ります。7月のアシュリッジの朝は早く、空気は澄み切っています。広い道路に出て、進むと時々通勤の車が通り過ぎていきます。途中で2頭の犬を引き連れている人に出会いました。犬の吐く息は白く、荒く。毎日の日課なのでしょう、尻尾は激しく揺れています。500mほど先からジョギングをしながら近づいてくる若者がいました。この丘陵地帯で初めて出会ったジョギング仲間です。ゴルフ場のそばで挨拶を交わしました。

 目の前には中世の古城のようなアシュリッジ・カレッジの建物が、背を振り返るとアシュリッジのモニュメントタワーがそびえています。一瞬、今の自分を見失ってしまいます。

2.アシュリッジの森

 樹齢300年〜400年、あるいは500年にも達するかと思う巨大な幹周りの木を多数見かけることができます。18世紀の産業革命の頃か、それ以前から立派に生き続けてきた木です。圧倒的に広葉樹が多く、樹種は主としてブナ、カシワ、トチノキ、セイヨウミザクラそしてカエデ類です。それらの多くは日本の在来種に良く似ています。植生分布的には冷温帯における落葉広葉樹林に区分されるでしょう。ブナは日本の関東では標高800m以上でなければ見ることができませんが、北緯51度のアシュリッジでは平地でも存在します。世界遺産で有名な白神山地のブナ林との比較については次章にて詳しく述べますが、日本の手入れされた雑木林や都市公園と違い林内はやや暗く、下草は林辺やフットパスの周辺を除き生えていません。倒木も多く、その空いた光の差すスペースには下草が生えています。また株立ちの木々が見られることから、かなり過去には人手が加えられ一部牧草地であったと思われます。しかし保護期間が長く、現在では極相林の状態に近いと言えます。これは長く続いた貴族による領地規制、そして1926年以降の英国ザ・ナショナル・トラスト(以下英国NT)買い取りによる保全施策が幾度かの戦争をも乗り越え、充分に機能した結果だと思われます。

            写真1 アシュリッジのブリッジウォーター・モニュメント

3.アシュリッジと白神山地のブナの違いから見た自然保護

 この9月に秋田県側から白神山地を訪れ、見事なシロブナの森を散策することができました。オーバー・ユースによる環境汚染など今後更なる問題を抱えてはいますが、一人でも多くの人が訪れて欲しい豊かな森だと思います。

 同じブナ文化帯に属するアシュリッジと白神山地ですが、今日まで、森林が保存されてきた経緯については多少の差異を見つけることができます。広さも土地の所有権もまったく異なる2つの保護区を比較することで両国の自然観を考えてみたいと思います。

 アシュリッジの丘陵地帯は氷河期の侵食がもたらしたチョーク質(軟土質の石灰岩)を基盤とし、その上に堆積した土壌が主たる成分です。また平均標高130m、最高標高地点でも230m程度の丘陵地帯にあり、森林と牧草地はほぼ平地に近い地形を成しています。さらに年間平均雨量も750mmと日本平均の約1/2です。このような地理的、気候的に不利な背景にありながらブナが多く育っている一因はイギリス人の自然保護の思想が大きく関わっているように感じます。表2に示すようにイギリスの森林面積は非常に少なく、国民の意識として早くから緑を守るべく自然保護に目覚めた結果、すなわち意図的に保護してきたからだと思います。。

 一方白神山地は日本海に面しているため豪雪地帯で、また急峻な山岳地形であるため台風や多雨などによる自然災害も多く厳しい環境にあります。このような深山には神々が宿ると日本人は考えてきました。白神と名づけられたことからも昔の人々は畏敬の念をこの山に抱いていたものと思われます。険しい地形のため道は峠を越えず、山々を分断することもなく、白神山地は孤立状態でした。山はマタギと呼ばれる猟師のみが入ることが許されていた特別な地区だったのです。農民は開墾も、山の恵みも麓までと棲み分けをし、山

1 アシュリッジと白神山地の地理、気候比較

 

アシュリッジの森

白神山地の森

備考

緯度/経度

N51.6°/W0.5°

N40.5°/E140.3°

 

平均標高(最高地点)

130m(230m)

(1,243m向白神山)

 

面積

1,820ha

16,971ha

 

年平均気温(7月の平均)

9.7(16.5)

11.1(22.6)

理科年表より

年平均雨量

750mm(ロンドン)

1,750mm(秋田)

(4,000mm、白神)

理科年表より

土壌

チョーク+森林土

堆積岩+褐色森林土

 

森林の形態

天然性林

原生林

 

土地の所有権

英国NT

 

に深く踏み入れることは有りませんでした。さらに草食のニホンジカが生息していない事もブナの実生にとっては幸いでした。その結果、現存するブナ林では世界最大規模と言われる白神山地が奇跡的に残ったと考えられます。

2 イギリスと日本の国土、森林比較

イギリス

日本

備考

人口

58,308,000

125,472,000

1995年のデータ

国土面積

24,488,000ha

37,780,000ha

1995年のデータ

人口密度

239/km2

331/km2

1995年のデータ

森林面積

2,390,000ha

25,146,000ha

1995年のデータ

森林の占める割合

9.6%

66.6%

 

1人当たりの森林面積

0.04ha

0.2ha

 

4.アシュリッジのシカ保護管理

 有史以来人類は野生動物と闘ってきました。狩猟民の食料として、農業被害の対象として、あるいは近代ではスポーツとしてです。アシュリッジの森のシカ(主としてファロージカ)は食料として、またスポーツとしてのハンティングのために13世紀ノルマン人によって導入されました。その後、アシュリッジの森は王立の狩猟場として利用されてきましたが、森が売りに出された20世紀まで生き延びてきました。イギリス人のハンティングの歴史は長く、今も多くのハンターがいます。しかし現在、シカは森を含めた生態系を維持するため、および種の多様性を守るために保護されています。一般に欧米の野生動物の保護策は科学的な個体群管理のもと、補助金政策も含めて積極的にに実施されていると聞きます。シカは繁殖力の強い動物です。好条件下では生後1年で出産可能です。しかしながらアシュリッジの森1,800haに暮らせるシカの数は限りがあります。このため英国NTと地方委員会の管理のもと環境収容力として600頭以上に増えないよう、契約ハンターたちによって駆除され、その肉は食肉として輸出されています。年に数10頭は自動車事故により死亡していますが、100〜150頭分程度はハンターに補助金を支払っています。英国NTはこのような財源を自主事業により確保しています。例えばアシュリッジ・エステイトでは農林産物の売上げ、農場やコッテージのレンタル料、イベント収入、土産ショップの売上げなどから年間350,000ポンド(2001年予測、約6,300万円)以上の収入を得ています。英国NTの保護管理策はこれらを含め野生動物との共生を優先させた重要な施策だと考えられます。

 さて日本でのシカ問題はアシュリッジの場合より深刻です。もともとシカは平地の大型哺乳類です。江戸時代には関東でも現在の東京23区内に普通に見られたと言われています。しかし、表2に示すように国土の約7割は森林、すなわち高度のある急傾斜地なのです。人は人口の増加、都市化と共に平地を独占してしまいました。そのためシカは山に追いやられ、その上狩猟により激減しました。私が住む神奈川県の丹沢山系では一時期絶滅の危機に瀕した記録されています。戦後の高度成長期、日本は拡大造林政策により、多くの天然林を伐採、そこにスギ、ヒノキを植林しました。シカにとってはこれが大規模な牧草地が出現したと同じ結果となり、逆に爆発的に増加しました。そして植林木の成長と共にシカの主たる餌であるスズタケなどが退行し、ますます高地に移動させられていったのです。丹沢などの広葉樹の稚樹や低床植生への被害だけでなく、最近は尾瀬のミズバショウなど貴重な湿原野草が食い荒らされています。日本のハンターは今や高齢化し、またハンティングがスポーツとして定着しておらず、シカによる農林被害は拡大する一方です。欧米のような多額の予算化とその収入財源の確保が急務です。

 シカの科学的個体群調査、防鹿柵設置などの保全対策計画の推進と予算化、そして国民への情報公開と市民やNGO参加による強力な事業推進が必要です。またその収入財源として英国NTのような自主環境事業やエコ・ツーリズムの発展が望まれます。

 

写真2および3 アシュリッジのファロージカ

            

 6月から7月にかけてアシュリッジはファロージカの出産、子育ての時期です。夕方に親子のシカが草を食む姿を見かけると心が和みます。日本のシカ問題がもっと真剣に協議され、後世に悔いの無いよう検討されることを願って止みません。

5.アシュリッジの森でのレクレーション

 森を楽しむ文化はイギリスと日本でどのように異なるのでしょう。人口が都市に集中したこと、そして余暇時間が増えたことなどから森林との触れ合いを積極的に持ちたいと考える人々が増加しています。1980年代、日本で森林浴と言う言葉が使われ始めました。日本語の森林浴と言う言葉にあたる英語は見当たりませんが、洒落た造語だと思います。欧米ではそれ以前より森林療養が盛んでした。森にはそれ自体にセラピー効果があり、現代人を引き寄せるのでしょう。       写真4 森で遊ぶ子供たち

 7月のアシュリッジの森は自然の宝庫でした。野生動物、昆虫、野草に樹木の木漏れ日。フットパスの地図を片手にウォーキングをする若者たち、乗馬を楽しむ人、ベビーカーを押しながら散歩をする家族連れなど多くの人びとを見かけることができました。高緯度の国々の人は冬の暗い暮らしを払拭するかのように夏の光を本当に愛しています。そして夏の長い昼時間を楽しんでいます。フットパスの標識看板も良く整備されています。また英国NTが運営するビジターセンター内には森林や野生生物の紹介展示、教育設備、キャフェテリアそしてお土産ショップもあり、充実しています。

 一方、年間50万人にもおよぶレクレーションのオーバー・ユースに対する規制も厳しくスタッフが管理しています。稀少植生保護区へのマウンティング・バイクの入場禁止やキャンプの禁止などです。人々のマナーは大変良く、ゴミなどの投棄も無かったように思います。

                                       写真5 巨木の上で昼寝?をする婦人

 日本では富士山の観光客によるゴミやトイレ問題は大きく取り上げられています。また尾瀬の山小屋のトイレではウォシュレットを導入しトイレットペーパーさえ使用しないよう呼びかけています。観光立国スイスのツェルマットでは以前から一般自動車による入山を禁止し、電気自動車や馬車のみ許可されています。またカナダやオーストラリアの国立公園でもマイカーによる入園が規制されている例もあります。市民のモラルアップに加えて、今後日本でも大胆なオーバー・ユース対策を打たねばならない時期にきていると感じない訳にはいきません。

 

6.アシュリッジの森での英国NTスタッフ

 英国NTのアシュリッジ・エステイトには20歳代から30歳台のエネルギッシュで若いスタッフが多く、皆誇りを持っており頼もしく感じられました。そして自然保護に対するしっかりとした考えを持ち、ボランティア活動を実行していると感心しました。私達を直接指導してくれた若いスタッフも既にここで、一人は11年、もう一人は約9年働いていました。スタッフになるために1年間の無償ボランティアを経て、厳しい教育訓練に耐えてなることができたそうです。また微に入り細に入り記載されたマニュアルを手本とし実行することが義務づけられています。そうした訓練と数多くの体験から来る豊富な知識、そしてイギリス人のボランティアに対するスティタスの高さをひしひしと感じました。さらに自然を愛する姿勢、ボランティアや寄付への対応に歴史の重みを感じます。日本のナショナル・トラスト運動を支えるスタッフを養成する上で先輩英国NTスタッフのレベルの高さは、日本との社会的、歴史的背景や地理的環境が大きく異なるとは云え日本の自然保護活動の有り方に参考になる部分が多いと感じられました。

7.あとがき

 今回のイギリス派遣は私にとって、大げさではなくこれからの生き方を変えるターニング・ポイントを示唆するものでした。この9月で32年の会社生活に区切りをつけ、早期定年を迎えます。日頃からボランティアを実践しているつもりでした。そしてまがりなりにも市民ボランティア指導しているつもりでした。しかしながら英国NTの若い常駐スタッフが身近な自然に一所懸命と汗を流す姿を見て、日本にもアシュリッジのようなフィールドに英国NTのようなスタッフが欲しい、こんな指導スタッフを育ててみたいと本気で思うようになりました。涼しい7月のアシュリッジの森で学んだこと、それは私自身のこれからの情熱を膨らませてくれたことのような気がします。

 本レポートが一部専門用語を使用したため多少堅苦しくなってしまったことをお詫びします。

 最後に次の方々には、渡英前そしてアシュリッジにおいて多くのことを助けて頂き、また貴重な意見を伺うことができました。おかげで今回の派遣が稔りあるものとなりました。心より感謝致します。

 英国NTスタッフ:ローレンス、ニールくん

 英国側ボランティア:ケン、キャサリンさん

 日本側ボランティア:ひろ、なべ、しん、とも、てぃさ さん

 日本ナショナルトラスト協会:廣部さん

 そしてウォーリー夫妻、まどかさん

  写真6 アシュリッジを去る朝、ベースキャンプにて

左から、ドロシー、ローレンス、てぃさ、キャサリン、

ひろ、ウォーリー、とも、

まどか、ケン、しん

そして英国NTのミニバス

 

 

 

 

                            2001925

                  誇り高き木こりに憧れ、トレイル・ランニングとスイミングを愛する・・・Mitsuzee

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