眼-eye- 01

〈1〉

 深い深い眠りから覚めると、おれは自分が誰だか分からなかった。
 まるで死んだかのような本当に深い眠りだったのを覚えている。夢も見ていない。しかし無理矢理眠らされたというような不快な眠りではなく、自分から安心して眠りについた、自然な眠りだった。おれの、記憶では。
 そんな事まで覚えていながら、しかし自分自身の事になると、はて、と首を傾げているのだからおかしな話だ。しかし事実は事実として受け止めねばなるまい。解決策が、必要だ。
 体を起こし部屋を見回すと、寝室のようだった。安心して眠りにつく事のできる、自分の巣のような場所。しかし見慣れた、というと語弊があった。安心してこの場所にいる事は確かなのだが、自分の場所、という感じがしない。安心できる巣のような場所、という自分の感覚と、これも矛盾する事実だった。 おれは裸で寝ていたらしい。毛布の感触がダイレクトに伝わってくる。下着は、着替えと一緒に、すぐ側の床の上に畳んで置いてあった。誰が畳んで、誰が置いたのだろう。その記憶も、なかった。そもそも、おれは誰かと一緒に暮らしていたとか、そういう記憶もないのだ。これは少しばかり、いや、随分と困った事態ではないか。その筈なのに、しかし不思議と焦りを感じない。これも不思議だった。なるようになる、と楽観的に考えてないでもないが、それとは別に、この場所に全く危険を感じていない自分がいて、毎度の事ながら記憶のない事と矛盾している。
 おれが寝ていたのは、ダブルベッドだった。誰と寝ていたのだろう。独りでか、ふたりでか。それによって、今後おれが取るべき行動も変わってくるというものだが。
 とりあえず、ベッドの上で胡乱に考え込んでいても始まらない。ここは、この場所は危険ではないという自分の感覚を信じる事にする。まずは、着替えだ。
 下着のサイズも、スウェットの上下も、おれにあつらえたかのようにぴったりと合った。用意してある着替えがスウェットという事は、これは恐らくパジャマ代わりだったのだろう。それを脱いでいたという事は、女と寝ていたのだろうか。可能性はある。ベッドはダブルだし。
 試しに自分の寝ていた隣のあたりをまさぐってみたが、それは外れだった。誰の体温も感じない。しかし、長い髪、間違いなくおれの物ではないそれを発見して、恐らくは誰か、多分女と寝ていたのは間違いないだろう事を確認できた。そうして改めて部屋を見回すと、ドレッサーがある。女物の化粧品も。おれに女装癖がなければ、これは別の誰かの物に違いない。恐らくは、一緒に住んでいる、誰か。いや、とおれは別の可能性を思いつく。ここは昨日おれが寝た女の部屋という可能性だ。ありそうな事ではある。しかしそれだと用意された着替えがスウェットというのが少しおかしい気もする。余程通い慣れた女の部屋というのでなければ、やはりここは、おれが住んでいる部屋なのだろう。
 一八〇センチはありそうなガタイのいいおれがスウェットを着ると、ヘビー級のボクサーかプロレスラーがトレーニングに出かけるみたいだ。着替えが欲しい。だが朝飯がまだだった事を思い出す。まさか昼を過ぎてるという事はないよなと思いつつ部屋の時計を見ると、もうじき午前の仕事タイムというくらいの時間だった。八時半。これでは遅刻するんじゃないかと思いつつ、おれはどこに勤めていたかも覚えていない事を思い出す。これではどうしようもない。サラリーマンが一日の無断欠勤は痛いかもしれないが、まあ仕方がない。こんな事になるなんて、おれ自身思わなかったのだから。尤も、その言い訳が通用するかどうか、怪しいものだったが。
「実は昨日、記憶喪失だったんです」
「馬鹿野郎、ふざけた事を言うんじゃない」
 と、いう所がせいぜいだろう。おれだって、自分がそうじゃなけりゃ、笑い話としてしか聞かない所だ。まあ、さして深刻ぶっている訳でもないのだが。
 しかし不思議なものだとおれは思う。記憶喪失になっているというのに、不思議と自分のルーツを断たれたような不安がない。目覚めた場所が安心できる場所だ、という事もあったのだろうが、やはりそれは不思議な事だった。どうしてだろうと考えるが、分からない。まあ、なるようにしかなるまい。おれは思考放棄して、寝室の扉を開けた。
 寝室の向こうはリビングだった。応接室兼、ファミリールームといった感じ。俺にファミリー、家族がいるかどうかは分からなかったが。
 そしてその向こうはキッチンと、恐らくは玄関に向かう廊下だった。キッチンには人影があって、おれに気付いたのか、こちらを振り向いた。髪の長い、女。
 女は、おれに向かってにっこりと微笑むと、頭を下げた。
「おはようございます、ナナキさま。朝食の用意はもう出来てますので、顔を洗ってらして下さい」
 まるっきり、毎朝の挨拶のような口上。しかしおれは彼女に聞く事があった。
「折角のところ、悪いんだが、ひとつ聞きたい事があるんだ」
 女は小首を傾げた。「なんでしょう?」
 おれは呼吸を整えると、口を開いた。
「おれと、きみは……誰だ?」
「は……?」
 女は、目を丸くして固まった。
 ま、そうなるだろうな。

〈2〉

 女の名前は真由(まゆ)といった。
 そして肝心な事だが、おれの名前は七輝(ななき)。北斗七輝(ほくと ななき)というのがフルネーム。おれは自分の名をまるで他人のものの様に聞いて、言ったものだ。
「どうも、ぶった名前だな。七つ輝く北斗七星、か。誰だ、こんな名前を付けた奴は」
 真由はくすりと笑って応じた。
「勿論、七輝さまのご両親でしょうね。いいお名前だと思いますよ」
「フム」
 美人に誉められると、それが、たかが名前の事でも何となく嬉しくなる。
 そう。これも肝心な事だが、真由は美人だった。美人にも色々あるが、真由は清楚な美女、という形容がぴったりの女だ。長いストレートの黒髪に、目尻が下がりがちの瞳。常に感じのいい笑みを浮かべたままの様な口元。
 そんな美人が、おれの為に朝食を用意しておいてくれた。これは感激してしかるべきではないか。実のところ、おれと彼女の関係をまだ訊ねた訳ではない。だが、嫌いな相手の為に笑顔で朝飯を作る女なんていないだろう。こんな美人に朝食を作って貰える関係になっているなんて、おれもなかなか捨てたもんじゃない。やるな、おれ。記憶は失っているが。
 そういえば真由は、おれが記憶を失っている事を告げると、胡散臭そうな顔をするでもなく、真摯に受け止めてくれた。それは有り難い事ではあったが、しかしどうしてだろう。おれは真由に訊ねてみた。
「おれが冗談を言ってるとか、そういう風には思わないのか?普通はこんな話、真面目に受け取らないと思うが」
「冗談なのでしたら、それで構わないではないですか。朝からこうして、七輝さまと差し向かいでお話しするというのも、なかなか機会が無い事ですし」
「そりゃまた、なぜ?」
「七輝さまは、朝が遅くていらっしゃいますから。朝の支度をして、朝食を召し上がったらすぐにお出かけになりますので」
 フム、なるほど。確かに今日もこんな時間だしな。しかし、だとするとおれは一応毎日出かけていたという事になる。やはり勤め人なんだろうか。
「いいえ、七輝さまは私立探偵をなさっています。出かける、というのは、その事務所へ向かう、という事です」
 それが真由の答えだった。
 私立探偵ね。まあ、サラリーマンよりは性に合っている気がする。尤も、探偵の仕事の事だって、何一つ覚えちゃいなかったが。
「まあ、なるようになるさ」
 おれは勝手に一人で結論付けると、真由に質問を続けた。
「それで、おれはいつも何時から出かけていたんだ?」
「そうですね……大体九時半頃でしょうか。事務所まではすぐ近所ですし」
「そりゃ好都合。それでその場所は……」
 不意に、部屋に電子音が鳴り響く。どこからだろうと周囲を見回すが、それらしき物は見当たらない。おれがきょろきょろとしている間に、電子音は断続的に鳴り響いているのだが、不思議な事に、真由はそれに気付いた様子がなかった。
「何か、鳴ってないか?」
 おれは真由に問いかける。すると真由は「いいえ」と答えかけて、何かに思い当たったかの様に表情を明るくした。
「きっと、WISの着信ですわ」
「ウィス?」
 聞き慣れない単語だ。まあ、おれは記憶を失っているわけで、あまり当てにならない事は承知してはいるが。
「マンツーマンのパーソナル間通信装置です。ワーカムやヴィジホンに接続すれば、データ通信のやり取りもできます」
「という事は、おれはサイボーグなのか?」
 つまらない質問だが、そう訊ねてみる。真由は首を振って「いいえ」と答えた。
「WISの埋め込みは、今の時代誰でも行っている簡単な手術です。ですから、WISを埋め込んでいる程度では、義体化した、とは言いません。それよりも七輝さま、早くお出になった方がいいのでは?」
「まあ、そうなんだが……どうやったらいいのか分からん」
 おれは頭を掻いた。どうやらこの世界じゃ幼児でも知ってるような事を、おれは聞いているらしいから決まりが悪い。しかし真由は嫌な顔ひとつせずに答えてくれた。
「まず、WISを使う事を意識してください。そうすれば、視界の一隅に番号か、名前が表示されるはずです」
「WISを使うぞ、と考えればいい訳かな」
「はい」
 おれは言われた通り、WISを使うぞ、と頭で念じた。すると確かに、視界の左端に半透明の文字列が表示された。へえ、よくできた機械だ。しかし感心している場合じゃない。表示された文字列は、名前だ。兵頭誠、と読める。
「名前が出た。そこからどうすればいい?」
「名前が出たという事はお知合いの方ですね。そのまま、着信許可と意識すれば、通話できる様になりますよ」
「通話も、意識するだけ?」
「はい。ですから慣れれば、WISで通話しながら別の作業をしたりする事もできる様になりますよ」
「慣れれば、ねぇ」
 そうなるまでどれくらいかかる事か。考えが顔に出たのだろうか。真由がくすりと笑った。
「七輝さまは、そういうながら仕事がお得意でしたけれど」
「誉められているのかどうか、微妙な話だな、そりゃ」
 ぼやきながら、おれはWISの着信を許可した。
 名前から想像できたが、通話の相手は男だった。高めの男声で、話しかけてくる。相手の画像は、出ないらしい。音声のみの対話。
「よう北斗、元気か?」
 なれなれしい奴、と思わないでもないが、名前が登録されているという事は、知り合いなのだろう、おれと。しかし問題は、おれが覚えていない、という事なんだよな。
「まあ、それなりに息災のつもりだがね」
 おれはそう答えてやった。おれとしては、当たり障りのない返事。相手は苦笑、だと思うものをして答えた。
「相変わらずだな、その物言い」
「そう簡単には変わらんさ。性格ってものはな」
 本心からおれは言った。例え記憶を失っても、どうせおれはおれのままだっただろう。それについては、妙に自信がある。当たっているかどうかは、後で真由に聞けば分かる事だ。
「それで、今日は何の用件だ?」
 記憶を失っているから、長々と会話をしていてはボロが出る。おれは自分から用件を切り出す事にした。
「ああ、それだ。お前、サーヴァントを買ったらしいじゃないか」
「サーヴァント?」
「おいおい、お前が言い出したんだぜ?やっと念願のサーヴァントを買ったってな」
「そうだったか?」
 おれは適当にごまかしの言葉を入れた。何の事かさっぱり分からない。だがそれも真由に聞けば分かるだろう。とにかく今は、この対話を早々に打ち切る方が肝心だ。
「そうだったさ。ま、そのうち見に行くからな。隠すなよ?俺とお前の仲なんだから」
 どんな仲だったのだろう。おれにはさっぱり覚えがない。これも、後で真由に聞くしかないか。
「用件はそれだけか?それなら切るぞ。おれは、これから仕事の準備をせにゃならん」
「なんだ?こんな時間に、仕事?」
「なんだとは何だ。もう世間では、午前の仕事タイムが始まってる所もあるような時間だぜ?」
「ああ、そういう事か。分かった、頑張れよ。じゃあな」
 通話終了、と視界の端に出て、それきり相手の、確か兵頭というやつの、声は聞こえなくなった。通話終了の文字も、二・三秒で消える。WISが終了したらしい。
 さて、真由に聞く事がまたいくつかできちまった。
「真由。また聞きたい事ができたんだが」
 おれがそう言うと、真由は嫌そうな顔ひとつせずに、「はい」と答えてくれた。
「サーヴァントってのは、なんだ?」
 てっきりすぐ答えが返ってくるだろうと思っていた。しかしその予想は、初めて裏切られた。真由はきょとん、としたまま、答えない。
「ひょっとして、心当たりがないのか?」
 おれが重ねて訊ねると、真由ははっきりと答えた。
「はい。聞いた事もない単語です」
「しかし、さっきの、兵頭だったか、の話では、おれが買ったらしいという事なんだが」
 真由はしばし考え込むそぶりを見せると、思い切った様におれに言った。
「その会話ログを、見せて頂けませんか?」
 おれは戸惑った。
「そりゃ構わんが、どうやって?」
「そこのワーカムに、文字出力する事ができます。右端の、球状のセンサーに触れてください」
 真由が指し示した方向に、こぢんまりとした家庭用コンピュータがあった。これがワーカムなんだろう。おれは言われた通り、球状の部分に触れた。
「そのまま、先程のWISの記録を出力、と命じれば、ワーカムにログが出力されます」
 フム。おれは言われた通りにやることにする。WISのログ出力、と声で命じると、ワーカムのディスプレイに返事が出た。
〈WISに記録された全ログを出力しますか?〉
「いや、さっきの、兵頭との通話だけだ」
 おれが答えると、ワーカムのディスプレイに〈了解〉の文字が出て、するすると先程の
WISの記録が出力された。
 ワーカムに出力されたそれを、真由に見せる。彼女はをれを一読すると、眉をひそめておれに言った。
「サーヴァントという単語には、やはり心当たりはありません。少なくとも、私は聞いた事はありません。しかし召使い、という意味でしたら、私の役割のひとつであるかもしれませんが」
「召使い?君が?誰の?」
 真由は微笑して応じた。
「もちろん、七輝さまの、ですよ。私はあなたの秘書であり、パートナーであり、身の回りをお世話する者であり、その……あなたの女、でもあります」
 最後の言葉を赤面して言い終えると、真由は、はにかんでこちらの様子を伺うような表情を見せた。可愛いじゃないか。おれは感動しそうになるのを堪えて、肝心な事を訊ねた。
「おれの女って事は、その、昨日は、やっぱり?」
 はっきりと『それ』を口にした訳ではなかったが、ちゃんと意味は通じたらしい。頬を染めて、しかし真由ははっきりと頷いた。
「はい。抱いて、頂きました」
「フム、そうか……」
 おれはこんな佳い女と、その、一晩楽しんだ訳か。その記憶が無いのは残念だ。まあそれはいい。しかしおれは真由に、ひとこと言わねばならぬ事があった。
「真由。おれは申し訳ない事に昨日の事は覚えちゃいないが、しかしお前の事を抱いてやる、なんて気持ちで抱いた訳じゃない……筈だ。だから、そういう言い方は止めてくれ」
 おれの提言に、真由はにっこりと、いい笑顔で笑って答えた。
「はい。ありがとうございます、七輝さま」
 ……くそ。段々記憶がない事が、勿体ない事のように思えてきた。おれはこんな佳い女を抱いた事を覚えてないとは。いやまてよ。という事は、今晩も、その、いいという事か?いやいや。そういう問題じゃない。おれは頭を振って馬鹿な考えを追い払った。
 とりあえず、仕事に行かにゃならん。記憶がない以上、休んじまうというのも一手だが。しかしここに籠って、記憶が戻るまで待っているというのも息が詰まる。仕事をするかどうかは、事務所とやらに着いてから決めてもいい気がした。とにかくも、外に出てみる事だ。それで、何か思い出すかもしれない。ま、確率的には絶望的な数字だろうが。しかしゼロではない。我ながら脳天気な事だが、悲嘆的になっていたら状況が変わるという物でもないだろう。おれは、とりあえず脳天気にいくことにした。いつものおれだ。たぶん。


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