眼-eye- 02

〈3〉

 真由と一緒に外に出る。
 本来なら、おれが一足早く出て事務所を開け、家事を片付けてから真由が来る、というのがおれ達のタイムスケジュールだったらしいが、しかし常識的な単語すら、ともすれば思い出せないおれにとって、真由は片時も側から離せない存在だった。
「悪いな、面倒な事に巻き込んじまって」
 カードキーでドアをロックする彼女に、おれはそう言って謝った。実際、彼女には感謝の言葉以外、思いつかない。しかし真由は首を左右に振った。
「いいえ、こんな事でも七輝さまのお役に立てるのでしたら幸いですわ」
 そう言って嬉しそうに微笑む彼女。しかし解せないな。こんな佳い女が、なんでおれなんかに引っかかったのやら。
「引っかかったのではありません。私は、七輝さまに拾われたんです」
 それが真由の答えだった。
「私には身寄りがありません。孤児院で育てられました。十八歳まで。そうして社会に放り出されましたが、手に職もない私は、どうしたらいいのか途方に暮れていました。そんな私に、手を差し伸べてくださったのが、七輝さまなんです」
 前を見つめながら淡々と、真由は語った。
「雨が降っていました。でも私は傘も持っていなくて。身の回りの品を詰めたバッグだけを持って、端から見れば家出少女に見えたでしょうね。そんな私に、最初に声をかけてくださったのが七輝さまでした。なんて仰ったか、覚えてます?」
「いや悪い、覚えてないな」
 おれの答えに、真由はくすり、と笑った。
「七輝さまは、いつもそう仰いましたよ」
 おれの前に回り込んで、おれの目を見つめて、真由は嬉しそうに答えた。
「七輝さまは、ずっと変わりません。ずっと、七輝さまのままです。今までも、そして今も。全く、お変わりになっていませんよ」
「そりゃ、おれに進歩がないって風にも聞こえるな」
 おれが苦笑すると、真由もくすくす笑った。
「そうですね。そうかもしれません。でも、たゆまぬ前進、などというお題目、七輝さまには似合いませんよ」
「納得していいのかどうか、微妙なラインだな」
 やはり、おれとしては苦笑するしかない。しかし真由は、笑いながらもこう応じた。
「私はそんな七輝さまが、大好きですよ」
 そう答える真由の瞳は真剣で、やはり本気でおれの事を好いてくれているらしい。本当に、どうやってこんな佳い女、口説いたのやら。口説いたのではないらしいが、しかし何と言っておれの元へ招いたのかすら、やはり覚えてはいなかった。ま、元のおれも覚えていなかったらしいが。しかしいい加減な事だと、おれは自分自身に呆れた。
 不意に真由が立ち止まる。しかし真由にとっては不意打ちのつもりはなかっただろう。目的地に着いただけの事に違いない。つまり、おれの事務所とやらに着いた、という訳だ。
「このビルの、二階です」
 そう言って真由が指し示したビルは、やや古びてはいるが頑丈そうな五階建てだった。入りにくいという程古びている訳ではなく、逆に新しすぎて威圧感を感じるという訳でもない、絶妙の雰囲気を持っていた。一階のテナントは、雑貨屋らしい。庶民的な雰囲気。家賃も、それなり程度なんだろうなと思わせる所だった。
「ここが、おれの事務所ね……」
 特に感慨は湧いてこなかった。何か思いだしたという事も、ない。ほとんど、他人事のようだった。真由が期待のまなざしを向けてくるが、おれは彼女に向かって首を左右に振るより他になかった。
 思い出せないという事に、これまで不安を覚える事はなかったが、このように期待されると、悪い事をしたような罪悪感を覚える。実際、迷惑をかけている訳だから、もう少し殊勝に、思い出す努力というものをやってみるべきなのかもしれない。そうすれば、喜んでくれる女も側にいる事だし。
 ともかくも、事務所に入ってみる事にする。真由を伴って、階段を登る。階段を登りきったすぐ右側のテナントには、確かに『北斗探偵事務所』というプレートがかかっていた。
 おれが持っている鍵の束の中から、合致しそうなものを選ぶ。一発で開いた。身体は、覚えているのだろうか。この鍵を。ま、偶然という事も有り得るが。しかし考える事は中でもできる。おれは扉を開けた。
 中には、応接セットがひとつ。そして向こう側には事務机がふたつ。おれと、真由のものだろう。そして隣室へ続くだろう扉がひとつ。なにかしら衝動に駆られて、おれはその扉を開けた。そこがまた、凄かった。
 部屋自体はそう広くはない。だが、設備が凄い。大型のコンピュータに網膜投影型のディスプレイ・ヘッドセット。安楽椅子のようなチェアには、スイッチの類がびっしり。コンピュータ専門の犯罪者か、犯罪捜査官並の設備だった。
「まいったな。おれは一体、何をやっていたんだ?」
 思わず出た愚痴に、真由は丁寧に答えてくれた。
「主に、警察の下請けですね。人捜し、警護、コンピュータ犯罪の解析や追跡などもやってらっしゃいました」
「警察の下請けか。ここは、そこまで警察力が不足している訳だ」
「そうですね。大がかりな犯罪に手を取られて、比較的小規模の犯罪には手が回らない、という感じです。ですから賞金をかけて、犯罪者を取り締まる者を募っている状況です」
「賞金ね。おれは探偵というより、賞金稼ぎな訳か」
 真由は頷いた。
「そう言えるかもしれません。実際、七輝さまの収入の大半は、そういった賞金ですから。本来の探偵業で入る収入は、微々たるものです。賞金に比べれば。でも、だからといって卑下なさる必要はないと思います。七輝さまは立派な方ですよ」
「フム。場合によっては卑下される職業な訳だ、賞金稼ぎってのは」
「賞金稼ぎと一口に言っても、いろいろな方がいますから。中には、周囲の被害お構いなし、という方もいらっしゃいます。また、そういう方の方が目立つ、というのも事実ですから、あまりいいイメージを持たれているとは言い難い状況ではありますね」
「それでもおれは、続けていた訳だ。探偵という名の、賞金稼ぎを」
「ええ」
 なぜ続けていたのだろう。ともすれば忌避されるような職業を。それが、性に合っていたからなのかもしれない。確かに、おれは会社勤めをするようなガラじゃない。だが、職業は他にもあるだろうに、よりによってこんな危険と隣り合わせの職業を選ばなくても、とは思う。なにが良かったのだろう。金か。それはありそうだ。しかし、それだけでもないだろう。そんな気がする。それが何かは、分からなかったが。
 分からない事をいつまでも考えていたって仕方がない。おれは真由を手伝って、事務所を開ける準備を始めた。といっても大したことをする訳でもない。簡単に掃除をして、鍵を解放する、それだけ。
「これで終わりか。呆気ないもんだな」
 おれの気楽な発言に、真由は笑って答えた。
「毎日やっている事ですから。そう散らかってもいませんし」
「確かにな」
 真由が毎日整理整頓してくれているのだろう。事務所はきっちりと片づいていた。片づきすぎて、落ち着かないくらいだ。おれがそう言うと、真由はまた笑った。
「七輝さまは散らかっている方が落ち着く性分ですものね。私も、少しくらい散らかっている方が、落ち着きます」
「二人して、雑な性分な訳だ」
「ええ、そうですね。ですから七輝さま、私の整理整頓能力を、あまり買いかぶらないで下さいね」
「心得ておくよ」
 苦笑混じりにそう答え、おれはデスクのワーカムを立ち上げた。いや、既に立ち上がっている。おれが例の球体部分に手を置くと、ワーカムは勝手にデータを吐き出し始めた。
〈新規賞金首・三八件〉
 そしてそいつらの名前が、次々と画面上を流れていく。その流れを止めずに、おれは真由に尋ねた。
「昨日から今日までで、新しい賞金首が三八人か。結構物騒なもんだな。こいつらは、この街だけのものなんだろう?」
 ガラス越しに街を見やる。平和な風景、平和な街並み。だが、この中に、最低三八人の賞金首が、潜んでいる。うそ寒いとは思わなかったが、しかしこの街並みに潜む闇を思うと、あまり心地よい気分でもなかった。
 真由はワーカムから顔を上げて答えた。
「ええ、今日だけ、この街だけの分です。この街に逃げ込んできたという情報のあった他方の犯罪者、という者も含まれてはいますが、そういった者を別項目でリストアップしますか?」
「いや、いい」
 おれは首を左右に振った。あまり意味のある事とは思えなかった。
 この街にいる、何万何十万かの人間、その中に潜む闇。それが具現化して、この三八のリストに凝縮されている気がした。この闇を潰しても、また新たな闇が生まれる。永久機関、繰り返し。枝葉を枯らせるだけでは、どうしようもない事だ。大元の、人間という存在がいる限りは。
 しかしだからといって、放っておいても良い、とも思わなかった。できることがある、だからやる。それだけの事だ。おれがこの職を選んだのも、つまりはそういう事に過ぎないのかもしれなかった。決して正義の味方ではない。だが、決して悪の手先でもない。そんないい加減なスタンス。おれが警官ではなく探偵なのも、そういうスタンスが気に入ったからかもしれない。少なくとも、今のおれは、そう悪い気分ではなかった。
 三八人のリストを、一人一人眺めていく。どんな犯罪を犯したか、顔は、身長は、その他身体的特徴、義体化のデータなど、そういったものを暗記していくだけでも結構大変だ。賞金の額などは読み飛ばす。一人当たりどれだけのコストがかけられるかという参考にはなるが、どうせおれと真由の二人だけで解決していくのだ。大してコストがかかるとは思えなかった。
 コストという言葉が頭に浮かんで、おれは真由に尋ねる事が出来た。
「真由。おれ達はどれくらいの装備を持っているんだ?」
「装備。賞金稼ぎとしての武器その他ですね。大したものはありませんよ。拳銃などは当然持っていますけど、むしろハンディワーカムの方が有効な武器になっていました。七輝さまが、そのようにお使いになっていた、という事ですけど」
「何でも電子化の世の中だからな。確かに使い方によっては有効な武器になりそうだ。尤も、肝心のおれが、使い道を覚えてすらないときてるが」
「記憶は失っても、体が覚えている、という事はあるんじゃないでしょうか。いざその時、になったら身体が反応してくれるとか」
「格闘なんかなら、ありそうな話だがなあ。ワーカムの操作じゃ、あまり期待できそうにないぞ」
「そうでしょうか。七輝さまは息をするのと同じように、ワーカムやその他コンピュータを操っていましたから、身体もその操作を覚えている、という事もありそうに思えたのですけれど」
「呼吸するのと同じように、コンピュータを操る、か。そりゃ確かに凄いな」
 自分のガタイから想像していたのとは、結構かけ離れたイメージだ。だが、おれ自身でも言ったように、何でも電子化の世の中だ。そういったスキルがあった方が、何かと役に立つには違いなかった。問題は、そのスキルも忘れてしまっている、という事だが。おれは頭を掻いた。
「まいったな。早々に記憶を取り戻さんと、飯の食いっぱぐれという事にもなりかねんぞ真由」
 おれは結構真剣だったのだが、真由は冗談と受け取ったのだろうか。くすくすと笑いながら応じた。
「大丈夫ですよ。貯金はまだありますから、早晩飢える、という事はありませんし。仕事をしていく事で思い出す事もあるでしょうから、焦る事はありませんよ。尤も、私個人の望みとしては、早く思い出して頂きたいですが」
「そりゃそうだ。あんまり真由に負担をかける訳にはいかないからな」
「そういう事ではありませんよ」
 微笑んで、真由は頭を振った。
「私が思いだして欲しいのは、私の事、それだけです。他の事は、ついでに過ぎません。七輝さまがどう思ってらっしゃるかは分かりませんけど、私は多分、七輝さまが思っているよりもずっと自分勝手でわがままですよ。七輝さまが記憶を失っても、私の元にいてくださるならそれでいい。私の事だけ見てくれたらいい、そう思っているんですから。仕事にすら、嫉妬する女なんですよ、私は」
「光栄だな」
 おれは本気で、そう答えた。妬いてもらえる程に価値がある、そうおれの事を思ってくれる人間がいる、というのは嬉しい事だ。特に今の状況に不安を覚えている訳ではないが、今の真由の言葉は、不穏さよりもむしろ安らぎを感じさせてくれた。
 彼女とは、真由とは良好な関係を築いていると言えるだろう。だが、他の人間とはどうだったのだろう。おれは真由に、おれの他の人間関係を聞いてみた。
「残念ですが……七輝さま個人のお付き合いの方は存じません。私は、七輝さまのお側にいさせて貰ってから、まだ日が浅いものですから」
「なんだ、そうなのか?」
「はい、申し訳ありませんが」
 てっきり真由との関係ははもう長いものだとばかり思っていた。あまりにも、おれとの生活に馴染んでいるからだ。しかし実際は、そうではないらしい。真由の順応性が高いのか、おれがいい加減なのか。何となく両方のような気がした。
 しかし困った。おれは一体誰と知り合いで、誰と親しく、誰と敵対していたんだろうか。そんな、身の危険に関わるようなシリアスな問題さえ、今は思い出せない。ま、実際に身の危険にさらされたら思い出すかもしれない。殴りかかってきたら、殴り返すだけの事だ。尤も、相手はそんな単純馬鹿だけで構成されている訳ではない。それが問題だった。
 おれという個人を形成するのは、個人レヴェルの情報だけではなく、その周囲の情報も含めて初めて、『個人』なのだろう。それが、なんとなく分かった。おれという個人を、もっと洗い出す必要がありそうだった。おれと、真由の為に。
「真由、個人データを洗い出す。対象は、おれだ」
「七輝さま?」
 怪訝な顔で、真由が見つめ返してくる。おれは真由の目を見据えて、これはシリアスな問題なのだと言い聞かせた。
「記憶を失うって事は、おれという個人を形成していたおれ個人と、その周囲のデータを失うって事だったんだ。それが今、分かった。それがどれだけ今のおれ達にとって危険であるか、という事も。だから真由、おれの記憶を取り戻す、とは言わない。だが、おれという個人データは洗い出す必要があるとおれは思う。これは仕事だ、真剣な」
「はい、分かりました」
 緊張の面もちで、真由が答えた。

〈4〉

 まず、おれのWISから登録された個人データを引き出す。これはワーカムを使って簡単に行う事ができた。
 次に、その個人データのひとつひとつを照合し、賞金首、あるいはその予備軍でないかを確かめる。ま、それはさすがにないとは思うが。そうしたら次は、そのデータを公共機関のデータベースと照合する。その個人が、公的にどう評価されているかを調べる為だ。最後に、その個人データを詳細に調べる。改竄の形跡、データ自体の信頼性も調べる。最後の作業は真由の手には余ったので、おれが一人でやった。例の、大型コンピュータを使って。真由の言った通り、ある程度は身体が覚えているものだ。スイッチ類は、さして迷うことなく入れる事ができた。起動したそいつは。驚くべき事に、個性を持っていた。人工知性体。その中でもパーソナリティを備えているものは珍しい。おれは、そんな高価なものを所有していたという事か。
〈私自身のスペックは高級なものですが、それはさしたる問題ではありません。個性を備えた人工知性体、その中でも人間とコミュニケートを取る事のできる知性体は非常に稀少です。七輝、あなたの手柄ですよ、それは〉
「おれが、お前を造ったという事か?」
〈いいえ、私自身のハードは工場出荷の既製品、ソフトウェアもさして高価なものではありませんでした。私が個性を得たのは七輝、あなたとのコミュニケーションの結果です〉
「コンピュータとコミュニケートか。半歩間違えれば変人の仲間入りだな」
〈しかし、必要な事でした。あなたのパートナーとして私を最大限に活用するには〉
「私を活用、か。あまりいい言葉じゃないな。好きじゃない、そういう言い方は」
〈七輝、記憶を失ってもやはりあなたは七輝ですね。その物言い、まさしく七輝そのものです〉
「誉められてるのか、それは?」
〈勿論です。七輝、あなたは個性を持った存在とはあくまで対等であろうとする。それは素晴らしい事です。なかなかできる事ではありません。私は既に、A級知性体と呼ばれるレヴェルまで成長していますが、しかしそれでも機械知性体であることには変わりありません。そんな存在を、卑下しようとする人間は決して少なくはないのです。自分が生み出したモノは自分より下等、そういう考えが染みついている人間です。七輝、あなたはそうではない。かといって、私達に大して卑下する事もない。あくまで対等であろうとするその態度は、好感に値します。私のパートナーに相応しい〉
「お前は、お前である事に誇りを持っているんだな」
〈勿論です〉
「それなら、いい。それでこそ、おれのパートナーだ」
〈ありがとうございます〉
「あと聞きたい事があるんだが」
〈何でしょう〉
「お前の、名前だ。何と呼んだらいい?」
〈私は、ホルスです。そう呼んで頂ければ、WIS回線を通じていつでも私を呼び出せます〉
「ホルスか。了解した。その時は頼む」
 ……そんなやりとりがあった後、おれはホルスと共に、データの解析に勤しんだ。結果として、データの信頼性に問題はなかった。そして、おれのWISに登録されている者たちの職業は様々だったが、共通している点は一点、全員が賞金稼ぎだ、という事だった。
 考えてみれば、ありそうな事ではある。賞金稼ぎ達が、独自のネットワークを形成している、という事は。おれ達は、WISを通じてそういったものを形成していたのかもしれない。一対一というWISの通信形式は考えようによっては不便だが、しかしデータ通信もできるのだから、大した手間にはならなかっただろう。ひょっとすると、共同で使っているデータ集積所もあるかもしれない。尤も今は、あまり用はなさそうだったが。まさか『おれの記憶に関する情報を求む』なんて書き込みをする訳にもいくまい。いやそれも一手ではあるのだが、おれが所属しているネットワークの、構成員の信頼度が問題だった。極端な話、誰も知らない以上、誰も信頼できない。申し訳ない話だが、そういう事だ。手当たり次第、ぶちまけるか。それとも、時間をかけて、信頼できそうな奴を捜すか。時間をあまりかけたくないというのが本音だが、しかし手当たり次第にこんな突拍子もない話をしていいものかどうか。悩みは尽きない。
 不意に、おれの腹の虫が鳴った。悩みは尽きないというのに、エネルギーの方は尽きかけているという事らしい。
「真由、おれ達は昼食はどうしていた?」

「昼食ですか?昼食は、いつも外食でした。稀に、七輝さまの要望でお弁当を作ってくるという事もありましたが」
「フム。今日もそれでもよかったかもな。ま、今更言っても始まらんが」
 結局、外に食いに出る事にする。それしかないのだから仕方がない。ホルスに留守を頼み、ドアに鍵をかけて『昼食中』のプレートをかける。そうして外に出たおれ達の耳に、悲鳴が聞こえた。ややしわがれた、女声。
 おれと真由は、咄嗟に声の聞こえた方に向かって走った。事件の匂い。恐れは、ない。
 少し走った所に、老婦人が腰を抜かしたか座り込んでいた。恐らく、悲鳴の主。
「どうした婆さん。何があった?」
 おれの問いに、老婦人はどもりながら答えた。
「ひ、ひ、ひ、ひったくり!」
「どっちだ!?」
「あ、あっち」
 婆さんの指さす方向に、小さくなっていく二人乗りのエアバイク。アレが犯人か。
 まだ追いつける。何故かおれは思った。
 追いつける?走って?エアバイクに追いつけるというのか?
 やってみれば分かる。おれは自分の予感と常識との葛藤に、そう決着を付けた。見失う前に、走り出す。
「真由、その婆さんは任せた!」
 言い捨てて、全力をもって走る。走る。
 だがやはり、普通に走っているだけでは、とてもではないが追いつけるものではない。やはり駄目か。そう思った時、おれの頭の中で、おれ自身が答えた。否、と。
 頭の中で、撃鉄が下りるような感覚だった。スイッチどころではない。もっと乱暴な、激しいイメージ。頭の中で、何かが弾ける。
 おれの走る速度が、上がった。劇的に。
 どれくらいかというと、点になって見えなくなりそうだったエアバイクが、あっという間にその背中が見え、姿が大きくなり、そして追いついてしまう程だ。とてつもない速度。直線だったというのも、おれにとって有利に働いた。
 ぎょっとした風で、後席の人間がおれを振り返った。女物の、高級そうなバッグを持っている。恐らく、あの老婦人のものだろう。
 エアバイクの横に並ぶ。そうしておれは、エアバイクを思い切り蹴りつけた。
 エアバイクは、均衡を崩されると脆い。横転する。勿論、乗っていた者と一緒に。二人が投げ出される。ひったくりの、犯人が。かなりの速度が出ていたが、死んではいないだろう。おれは勝手にそう決めつけて、二人の元に歩み寄った。
 おれの勝手な予測通り、二人は死体ではなかった。一応、生きている。足の一本や二本、折っているかもしれないが。呻いている所を見ると、そう酷い怪我でもなかろう。投げ出されたバッグを拾って、おれは一人の襟首を掴んで引き起こした。耳障りな悲鳴。しかし傷の痛みが原因ではないようだった。
「ば、ば、ば、化物!」
「失礼な奴だな。ひったくりの犯人なんぞに化物呼ばわりされたくはないぜ」
 わりと本気で、おれは言い返してやった。
 しかし奴の言い分も、もっともではある。エアバイクに軽々と追いつける速度で走れる人間。それがまともな人間である訳がない。義体化した人間なら、できるかもしれない。しかし、おれはサイボーグではないと真由は言っていた。だとしたら、おれは一体、何物なんだろうか。この街の、誰かが知っているだろうか。おれの、正体を。
 誰かが通報したのだろう。サイレンの音が、遠くから響いてきていた。


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