流浪世界譚 08

〈6〉終幕

〈1〉

 司が目を覚ますと、自室のベッドの上だった。カレンダー付きのデジタル時計を見ると、六月一日、午前六時半。
 皐の言った通りだった。ここまでは。あとは学校で入れ替わり現象を目撃しなければ、事件は全て終わったと納得できた。
 いや、と司は首を左右に振る。皐が帰って来なければ、終わりじゃない。終われない。
 皐はいつ帰ってくるのだろう。今日か。明日か。明後日か。それとも、もっと後か。それが分からないのは不安だった。

 皐と過ごした二日間は新鮮だった。
 勿論その殆どが対クラッカー戦に関わる事で占められていたが、それでも彼女とのふれあいがあった。それも強く濃いふれあいだった。たった一日で恋し、お互いの想いを確認しあい、そして二人は恋人同士になった。対クラッカー戦の事は忘れて。少なくとも、あのひとときは、対クラッカー戦とは無関係だった。無関係であってよかった。実際には大いに関係あったのだが。それを求めて愛し合ったのではない。あくまで、お互いの気持ちを求めて愛し合ったのだ。
 お互いの心。離れてしまうとそれはあやふやなもので、本当にそこにあったのか曖昧になる。確かにそこにあったと信じた物は離れてみると実は錯覚だったと思える事もあるだろう。
 だが。
 彼女との、皐との心のふれあいは確かにそこにあった。あったと信じたい。残念ながら、無条件で信じられるほど司の心は単純ではなかった。しかしそれでも、司の心が許す限り、皐との心の繋がりを信じていた。

「顔が見たいな……」
 司はぼんやりと呟いた。
 彼女のあの晴れやかな笑顔が見られたら、こんな悩みなど一発で吹き飛んでしまうだろうに。
 延々と悩んでいる間に彼女が帰ってこないとも限らない。その時、見せられるのか、この顔を?
 司はそこに思い当たってベッドから跳ね起きた。
 うじうじと悩むのは止めよう。折角取り戻した世界だ。精々愉しむとしよう。そして彼女が帰ってきたら、笑顔で迎えよう。

 しかしこれだけの事を決めるのに、どれほどの事を考え悩んだやら。自分は優柔不断なのだろうか。そのケはありそうだな。司は顔を洗いながら反省した。この反省が、いつまでも続くといいのだが。怪しい物だと自分でも思った。
 台所へ行く。結局朝食を作るという習慣は一日で終わってしまったな、と思い寂しくなる。また自炊でも始めようか。そう考えながら司は、冷蔵庫に張られているメモに気付いた。何のメモだろう。覚えがないが、と思いながら何気なく覗く。
 次の瞬間。司は両手でそのメモを掴んでいた。そのメモにはこう書かれていた。
『朝ご飯はちゃんと食べないとダメだよ。帰ってきたらチェックするからね 皐』
 司は苦笑した。そのメモには一時の別れの挨拶とかそういった物は一切書かれていなかった。ただ、帰ってくると、それだけ。

 半ば希望的観測に過ぎない。だが、皐が帰って来ると言うのだ。それを信じよう。
 司は明日からは自炊しようと心に決めながら、登校までの残りの時間を過ごした。

〈2〉

 心臓破りの坂を登る。相変らず周囲には登校途中の生徒でにぎわっていた。しかしこの生徒達は本物なのだ。誰にも書き換えられる事はない。それを恐れる必要はない。
 尤も、司が恐れている事がひとつだけあった。それは入れ替わり現象のお陰で、誰のどの名前がオリジナルの物なのか、さっぱり分からなくなっている事だった。つまり、司が今から行くクラスは、司にとって誰の名前も知らないという事になる。司は長い入れ替わり現象の間で、素早くその生徒の名前をチェックするという技を身につけていたが、下の名前が一切分からないというのは、おいおい不便を生じる事になるだろう。当分は名字でみんなを呼ぶ事にして、親しくなった物から名前で呼ぼう。
 司はそんな戦術を立てながら、坂を登りきった。

 周りを見渡す。平和な、登校風景だ。司はその中に、違和感がないかを探して周囲を見回していた。しかし司の触覚には何も引っかかる物はない。司は諦めて、教室に向かう事にした。

 最後に、最初皐と出会った校門の柱を見やる。あれから、始まったのだ。そして、終わった。
 クラッカーはこの世に亡く、皐もまた、居ない。中途半端なエンディングだな。司はそう考えて購買へ向かった。そこでクリームパンを買い求め、階段を上がりながらぱくつく。行儀が悪いが、そんな概念は司にはない。正確には、見て見ぬ振りをしている。しかし世の中、見て見ぬ振りをしてくれない人も存在する。

「こら、廊下での飲食は校則違反ですよ!」
 女の子の声が響いて、司の肩をぽんと叩かれた。校章をみると、三年生だ。三年に知己はいたかな、脳裏を検索する為司は女生徒の顔を見て、驚いた。
「生徒会長……」
 司は慌てて、残りのパンを平らげた。その様子を可笑しそうに見ながら、生徒会長は口を開いた。
「君は一年の中でも目立つ存在だからね。その分、君の行状は注目されてる。だから気を付けてね。朝からパンを食べながら階段を上がるような不作法な仕草、しないように」
「そんなに目立ちますか、僕は」
 そんな目立つ行為をとった覚えはないのだが。悩む司に、生徒会長は言ってのけた。
「成績は優秀、だけど行状に問題あり。そんな生徒はブラックリストに載せてありますからね。君もその一人よ。成績優秀なら、何をやってもいいという訳ではないんだからね」
「それは同感ですが、僕は目を付けられるような何かをやりましたか?」
「他校生と逢い引きしてたでしょ?しかも、校門で」
「な……」

 司は驚いた。確かに心当たりが無いでもない。皐との出会いだ。あれを逢い引きというなら、確かにそうなのだろう。しかし問題は、そこではない。
 問題は、この世界はどのくらいクラッカーがいた時の世界を引き継いでいるのだろう、という事だ。今、目の前の生徒会長からは敵意は感じないが。まあ当然だろう。全校生徒に司達への敵意が湧いたのは、皐の放送より後の事だ。それもクラッカーの影響でそうなったのだから、クラッカーのいない今、彼女個人を怒らせたりしない限り、敵意など湧きようもないはずだ。

「さて、それじゃ私は行くわね」
 そう言って颯爽と去っていく生徒会長の後ろ姿を見送りながら、司は生徒会長は一年生校舎になんの用事があったのだろう、と下らない事を考えた。

「おはよう」と声をかけながら教室に入る。「おはよう」「おはよう、斎乃くん」と答礼が帰ってくる。そうしながら司は、机の数を数えてみた。

 ぴったり、三十。間違いなかった。

 喜べばいいのか、それとも落胆すればよいのか。今の司には判別がつかなかった。無論入れ替わり現象が起こればよいと思っている訳ではないから、数の増減がないのは喜ばしい事だ。だが、数が三十しかないという事は、皐が今日転入してくる可能性も無いという事だ。それが、切ない。今日は彼女に会えないという事だな、と司は寂しさを噛みしめながら席に着いた。

〈3〉

 無味乾燥な授業が終わり、放課後となっても、司は皐の事ばかり考えていた。教室から人がいなくなろうとしても、司はぼんやりと椅子に座っていた。頬杖をついて、ぼんやりと窓に目をやる。そこからは校門が見えた。次々と下校していく生徒達が見える。その中にぽつりと一人、校門に立ったまま動かない人影がひとつ、あった。
 司はある衝動に駆られ、急いで帰り支度を始めた。そして三段飛ばしで階段を駆け下り、靴を履き替えるのももどかしく、校門へ急いだ。

 人影は、まだそこにいる。他校の制服を着ていて、時折好奇の視線を向けられても臆することなく、校門で誰かを待っている風情だ。司はそこへ駆けていった。足音に気付いたか、人影も司の方を見やった気がする。やがて二人は邂逅した。

「待ち人来たり、だね」
 皐が言った。

「待たせてごめん」
 司が言った。

「「それから」」
 二人の言葉が重なる。皐は微笑んで、「司くんから」と言った。
 司は頷いた。
「お帰り、皐ちゃん」
 司の言葉と同時に、二人して微笑した。そして微笑をたたえたまま、皐が口を開いた。
「待たせてごめん。思ったより、時間がかかっちゃった」
 司は頭を振った。
「たった一日だけさ。まだまだ取り戻せる。それより僕は、皐ちゃんがちゃんと帰って来てくれた、その事が、嬉しい。今日のような、無味乾燥な日はもうごめんだ」
 皐は意地悪な顔で微笑した。
「独りに耐えられなくなった?」
 司は真面目に応じた。
「そうかもしれない。でもそれが、弱くなったとは思わないよ」
「人は人を支え、支えられて人になる、かあ。そうだね、私もそう思うよ」

 司が微笑して、提案した。
「それじゃ帰ろうか。僕たちの家に」
 皐も破顔して応じた。
「その前に、スーパーに寄ってから、ね」

 そして腕を絡めてくる。柔らかな感触が司の腕に伝わる。司は大いに慌てたが、皐は腕を解放したりはしなかった。


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