流浪世界譚 07

〈5〉最終戦闘

〈1〉

 扉を開けたそこは、恐らくは平凡な理事長室だった。応接用の椅子などのセット一式がひとつ、窓際の本棚には本が並び、窓を背にするようにマホガニーの応接机。その上に黒い箱が乗っているのが唯一の違和感だったろうか。そして椅子に足を組んで座して、中年の紳士がひとり、いた。

 皐が緊張するのが分かった。司も、緊張して先程から手にしている刀を抜く構えをとる。しかしこの部屋では刀は不適当だろうか。そう考え、司は刀を拳銃へ変化させた。

「ようやく会えたわね、クラッカー。もう、逃がさない」
 皐の低く押し殺した声が夕闇の理事長室に響く。しかし戦術戦闘知性体を目の前にしても、クラッカーは慌てる色もなかった。ただ余裕の表情で、司達を睥睨している。
「何を考えているのか知らないけれど、もう絶対に逃がさない。お前は何処にも逃げられない」

 ここでやっとクラッカーが口を開いた。
「逃げる?とんでもない。そんな必要が何処にある?私は勝ったんだ。後は、最後の仕上げを行うのみだ」
「最後の仕上げ?」
 司が訝しげに口にすると、クラッカーは嬉しそうに答えた。
「お前達が私を殺す事だ。それで、事は成就される」
「何だと?わざわざ死ぬ為に、こんな大仰な事を企画したのか、お前は?」
 司は信じられなかった。回りくどい自殺の方法を考える者がいるというのは知識としては知っていたが、これほどの人間を犠牲にして自殺しようという人間が今目の前にいる、という事が信じられなかった。
「死にたいのなら、望み通り殺してやる。くたばりなさい。一撃だ」
「待て、皐ちゃん!」
 皐の宣言でクラッカーが浮かべた歓喜の表情を見て、司は咄嗟に皐を止めた。しかし間一髪で、間に合わない。皐の『銃』から発射された弾丸は、正確にクラッカーの胸の中央を撃ち抜いた。
 砂の彫像のように固まるクラッカー。そして、細かい粒子となって消えていった。

 皐が晴れがましい表情で言った。
「これで任務はお終い。後は楽しく学園生活を……えっ?」
 皐の表情が深刻化する。司には分からないが、恐らく上役か戦術戦闘知性体部分と会話しているのだろう。しかし司は、その内容が大体予測できた。
 クラッカーは、まだ消滅していない。

〈2〉

「失敗したなあ……」
 皐はがっくりとうなだれて、応接セットのソファに座り込んだ。
 司も同じソファに座り込んで皐を慰めようと試みた。
「君の責任じゃないさ。クラッカーが悪辣だったんだ」
 皐はキッと司を凝視すると、矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「司くんはアイツがこういう手段にでる事が予想できてたんだよね?どうして?」
「どういう手段かは今も分からない。だけど、何の手も打たずに殺されるはずはないと思ってはいた。それが、さっき皐ちゃんを止めようとした理由」
「結局、アイツが何処に逃げたかは分からないんだね?」
「そこまでは、まだ何とも。でも気になっているものは、ある」
 皐は司に飛びついた。
「どれ!?」
「落ち着いて、皐ちゃん。ほら、その机の上にある黒い箱だよ」

 司が指さした黒い箱は、主のいなくなった机の上に、依然としてそこにあった。クラッカーがいた時には気にも留めなかったが、こうして改めてみると、怪しさが増してくる。
 なぜ、これが、ここにあるのか。これの用途は何か。何も分からない。外見からは。
「皐ちゃん、調べてみよう、あの箱を」
「うん」
 その箱は、外寸三十センチ程の立方体だった。持ってみると、意外と重い。持ち上げようとしても、持ち上がらない。何かが引っかかっているようだ。引きちぎって持ち上げてもよかったが、それは後の事にする。司はペンライトを創り出して、机と箱の間を照らし出した。
「どう?何か見える?」
 皐が急かしてくる。だがやんわりと皐をなだめて、司は注意深く隙間を探った。
 何か細いものが見える。太さは様々だが、それがどこかに繋がっているようだ。司は机の下を見た。ケーブルが何本もまとまって、床の下まで伸びていた。
「コンピュータなのか、この箱は?」
 それが司の感想だった。ケーブルの正体は分からない。だが司の知識にある中で一番近いものは、それだった。

「正体がコンピュータなんだったら、バラせばいいよね?」
 皐が乱暴な事を言うが、実際それ以外に方法がない。司と皐は協力して箱の外装を剥がした。といってもネジがなかったので、力尽くで引っぺがしただけの事だったが。
「やはりコンピュータだ。僕の知っているパソコンとは造りがだいぶ違うけれど」
 司がそう感想を言うと、皐も首肯した。
「確かにコンピュータだね。それもパーソナルな。クラッカーはこれを使って逃げたんだよ、きっと」
 司は瞠目した。
「どうやって?」
「『電脳人格化(サブリメーション)』という技術があるの。人格をそのまま電脳空間へコピーする手法。クラッカーはこれを使ったんだと思う。通常は人造生命体なんかを創る時などに使うんだけれど、この手法を使って電脳空間へ住み込んでしまう人がたまにいるの。それが電脳人格(リコライド)。クラッカーはリコライド化したんだよ、きっと」
「どうもよく分からないな」
 司はすっきりしない気分を抱えて、首を捻った。

「何故そんな手間のかかる事をしたんだ?敵が来たなら、倒せばいい。逃げるなら、もっといい方法があるだろう。リコライド化するのが目的なら、もっと早くにすれば良かった。何故、今なんだ?それが、分からない」
「それはね、司くん。今しかできないからだよ。戦術戦闘知性体のいる、今しかチャンスはない」
「どういう事だい?」
「リコライド化するには、現実世界にオリジナルを残してはいけないの。分裂症状を起こすからね、コンピュータが。そしてクラッカーは、オリジナルを消滅させるには、私こと戦術戦闘知性体が殺すしかない」
「つまり、クラッカーの思うつぼだったという訳か……」
「うん……」
 皐はまた俯いてしまった。恐らく、自責の念に囚われてしまっているのだろう。そんな必要はない、と司は思う。第一、この世界でリコライドになってどんな得がある?クラッカーとして力を振るえるならともかく。そこまで考えて、司は事の重大さに気付いた。皐の落ち込みの原因も。

 クラッカーはリコライド化する事で、戦術戦闘知性体の手を逃れるのと同時に、電脳空間を介して世界中に広がるつもりなんだ。世界中に広がってしまえば、世界の壁という制限なしに力を振う事ができるようになる。
 奴は文字通り、世界の支配者になるつもりなんだ!

「皐ちゃん、まだ手はある?」
 あるのなら、司はどんな事でもするつもりだった。だが、皐は頭を振った。
「できる事は、あるよ。だけどそれは私を手伝って貰う事だけ。アイツとの対決は、私がやる」
「手伝える事があるなら、喜んでやるさ。どうすればいい?」
「私の手を、握っていて欲しいの」
「……それだけ?」
「ううん。そして願って。私が、必ず勝つ、と。それが、私の力になる」
「でもそれじゃ、皐ちゃんが一人でどこかに行ってしまうみたいだ」
 皐はくすり、と笑った。
「何処にも行ったりしないよ。ただ、電脳空間に入り込むだけ。それだけでも今は難しいでしょうね。クラッカーが網を張っているだろうから」
「なら尚更危険だ。僕も一緒に行くよ」
「司くん……」
 皐は真剣な瞳で、司を射た。
 そして射抜かれた司は、その視線に抗う事はできなかった。

「翼は創想術でどうにかできたかも知れない。だけど今度のはレヴェルが違う。生物ですら、なくなるの。リコライドは生物じゃない。電脳空間に生きる霊みたいなものだよ。生きる亡霊、ってのも変な表現だけどね。だけど亡霊という表現は間違いじゃない。司くんがもしリコライドになるなら、君は死ななくてはならないんだよ」

 しかし司は不敵に笑った。
「逆に言えば、死ねばリコライド化も不可能ではない、という事だね」
 皐ははっと、司を見なおした
「まさか、司くん……」
「そう。僕がサブリメーションして死ねば、リコライド化できる」
「危険だよ!幾が今は不死状態だからって、クラッカーを倒せばその不死状態も解除されるかも知れない。君は、リコライドとしてしか生きられなくなるかも知れない」
 しかし司はさらりと言い捨てた。
「構わないさ。クラッカーを倒せて、皐ちゃんが側にいれば」
 皐は、かあっと真っ赤になった
「司くん、それ、すごい殺し文句」
 司は邪気のない笑みを浮かべて、それに答えた。
「二人一緒だよ。何処までも、ね」
 皐も諦めの表情で、首肯した。
「分かった。クラッカーを倒して司くんが人間に戻れなくなったら、私もずっと一緒にいてあげる。ずっと、永遠に、ね」
 司は頷いた。皐の瞳を見つめながら。

◆◇◆

「さて、まずはサブリメーションだけど、どうやるんだい?」
「本当は専用の機器が必要なんだけれど、今はもう必要ないかな。司くん。電脳空間の中に、もう一人の自分がいるのを想像して」
「電脳空間というものが曖昧だけど……やってみる」

 司は目を閉じ、電脳空間というものをまず想像した。

 どんな世界だろう。生身の身体では感じられない世界には違いない。実際、言葉はあっても、その世界を生身で感じられた人間はいないのだから。
 しかし言葉があるというのはいい事だ。そこから、想像の翼を広げる事ができる。0と1だけの世界?いや、そんな世界に居着いて安住するような相手ではない。視覚はあるのか、無いのか。あるとすれば、どんな世界が見えるだろう。
 司はありきたりなSF映画の一シーンを思い浮かべる。こんな世界が見えるだろうか。ま、仮の題材としては悪くない。

 司はそのイメージを元に、自分自身の構築を始めた。身長、体重、その他、身体測定で測ったデータを元に、人間のひな形を創る。そこに、斎乃司というデータの波をぶつけた。

 失敗だ。外見は斎乃司になったが、内面が空っぽだ。これでは完全なコピーとは言えない。司はその不完全なコピーを見ながら、斎乃司という人間のデータを流し込むという形をとる事にした。
 性格、性向、その他エトセトラ。自分自身では気付かないデータもそこには含まれているだろう。

 成功だ。恐らくは。SF映画の電脳ワールドに、斎乃司という存在がそこにいる。自分自身を創るという事は、その周りの世界も創るという事なのだろう、と思いつつ、司は皐に作業の終了を報告した。
 皐は外装の剥げたコンピュータに手を当てると目を瞑り、そのまま数秒微動だにしなかったが、目を開けるとにっこりと笑った。

「うん、上出来。合格だよ」
「良かった」
 そう言うと司は、理事長の椅子にどっかと座り込んだ。自分自身を構築するという作業は、終わってみると酷い疲労を伴う作業だった。夢中になっている最中は気付かないが。
 だが今は疲労が重くのしかかってきている。一休みしたかった。
 そんな司に、皐がハッパをかけた。
「ほらほら司くん。こんな所でへばってたら駄目だよ。まだ、死んで貰わなくちゃいけないのに」
「やれやれ。自分で言いだした事とは言え、ろくでもない作業だ。自殺する、なんてね」
「別に自殺しろ、なんて言ってないよ。私が殺してあげてもいいんだから」
 少し考えて、司は首を左右に振った。
「いや、やっぱり自殺する事にする。その方が、リコライド化しやすい気がする。電脳世界の自分を意識しながら死ぬのは、自殺の方がいい」
「そっか。少し残念だな」
「残念?どうして」
「だって私は、好きな男の子が死ぬのを見届けなくちゃいけないんだよ?これはちょっとした苦痛に思えるんだけれど?」
「どうして?君も一緒に死ねばいい。どうせ仮の死だ」
 皐は頭を振った。
「私は君と違って不死状態じゃないの。死んだら多分、生き返らない。試してみる気にもならないよ」
「なるほど……不便なものだな」
「私から見れば、いちいち死んでリコライドにならないといけない司くんの方が不便に思えるけどな」
「確かに、その通りだな」
 司は肩をすくめた。そして拳銃を取り出す。
「それじゃそろそろ、始めようか」

 拳銃をこめかみに当てる。恐れは、無い。今度こそクラッカーを倒してみせる、という思いだけがある。司は皐にひとつ頷いてみせると、拳銃の引き金を引いた。パンと呆気ない音。司は意識がブラックアウトしていくのを感じた。

〈3〉

「司くん、しっかりして。司くん!」

 皐の声に目を覚ます。目覚めは、最悪だ。頭を振り、どうにか頭を覚醒させる。
「そうか、また死んだんだったっけ。それで、ここはどこ?」
 皐は答えた。
「電脳空間の中だよ。クラッカーの牙城」
「そうか。それじゃ成功したんだ」
「成功しないと困るよ!私本当に心配したんだからね!」
 司は皐の剣幕に気圧されながらも、何とか皐をなだめた。

「ごめんごめん。そんな危うい賭だとは思わなかった。何せ、死に慣れているものだからね、僕は」
「向こうで死んでも、こっちで覚醒できなかったら一緒じゃない!ううん、もっと悪いわ。私はパートナーを失って、力を大きく減衰させる事になるんだから」
「僕の存在はそんなに重要なのかな。どうもそうは思えないんだけれど」
「とんでもない。とても重要だよ。『想い』の力の供給源として」
 司は苦笑した。
「僕はタンクか。まあそれでもいいさ。何の意味もなく君にくっついているよりは」
「そう言う意味で言ったんじゃないよ。例えば、現実世界ではいっぱい助けてくれたじゃない」
「まあね。それが唯一の道だったから。でも確かに受動的にその道を行ったんじゃない。そこには、僕の意思があった。皐ちゃんと共に行くという。行き着く先がこんな所だとは、思いもよらなかったけれど」
「私が油断しなければ、こんな事にならなかったんだけど……」
「今それを今言っても始まらないさ。今は、クラッカーを倒す事に集中しよう。それで、一体奴は何処に居るんだ?」

 司は辺りを見回す。現実世界の理事長室から電脳世界へ移動してきたはずだが、そんな気が全くしない。まるで、現実世界を丸々こちらへ持ってきたかのようだった。
「クラッカーは一体何を考えているんだろうな。現実世界を、電脳空間に創造するつもりか?」
「電脳世界に現実世界の裏返しの世界を創る、かあ。ありそうな話だけれど、どんなメリットがあると思う?」
 司は少し視線を上に向け、そして皐の問いに応じた。
「現実世界の王になったという錯覚に浸れる。クラッカーの性癖から考えて、悪くない線だと思うけどどうだろう」
「確かに、悪くない線だね。だけどそんな世界、常に維持し続けなければすぐ崩壊してしまう。そんな世界に何の意味があるの?」
「意味なんか必要ないんだよ。少なくとも、クラッカーにはね。クラッカーには現実より幻想の方が大事なんだ。自分が一番偉いという幻想がね。その為には何だってやるだろう。そんな事も厭わない。そんな気がする」

 皐は司をかえり見て訊ねた。
「随分とクラッカーの心理分析に自信があるみたいだね。その根拠は何?」
 司は腕組みして、少し悩むと答えた。
「第一印象かな。そんな奴だという気がした。勿論詳しく話をした訳じゃない。だけどあの優越感に満ちた顔。常に誰かを見下してきたような瞳。それがアイツの内心を表わしていると僕は思う」
 皐はため息をつくと、口を開いた。
「司くんは心理学者になれるかもね。確かにクラッカーの行動原理は利己的で、自己の満足を得られるなら他者も、そして自分さえも犠牲にできる。尤も自分を犠牲に、というのは限定的かな。最終的には自己の利益最優先、というのには変わりないんだから」
「皐ちゃんこそ、随分アイツについて詳しいじゃないか」
「そりゃ仕事ですから。ターゲットの性向・性癖くらいは調べるよ」
「それじゃ、今クラッカーが何処にいるか、分析できないかな」
 皐はきっぱりと口にした。

「無理だね。ま、そのうち自分の方から宣伝してくれるんじゃないかな。大々的に」
「その可能性もあるか」
 そう呟いて、司はテレビを創り出してスイッチを入れた。

◆◇◆

 テレビは問題なく機能した。という事は放送局がこの世界にもある、という事で、そこで働いている人もまた存在する、という事だ。
 人が、人間が、存在するのだ。この世界に。
 司は窓の外を見た。朧気に、大学棟に出入りする人間が見える。司は双眼鏡を取り出した。それらは確かに、カタチは人間の姿をしていた。

「この世界にも、人間が居るんだね」
 司の言葉に、皐は頷いて応えた。
「それはそうだろうね。そうでないと、意味がない」
「……どういう事だい?」
「クラッカーが、本当にやりたい事が分かったの」
 そう告げて、皐は説明を始めた。

「そもそも、何故疑似世界に入り込んでからリコライド化したのか。上位世界にも電脳世界は存在するのに。それは、クラッカーが唯一のものとして存在できなかったから。だから、技術レベルの低い仮想世界へと潜り込んだ。そして何故、電脳世界に現実空間を創ろうとしたのか。クラッカーは、電脳世界に単一、唯一の世界を求めたんだよ。そこで神になる為に」
 司が異議を唱えた。
「クラッカーは現実世界でも神になれた。なのに何故、わざわざ自己の存在を消してまでリコライド化する必要があったんだい?」
 皐は揺るぐことなくその質問を受けた。
「現実世界では、限定的な地域での神にしかなれなかった。クラッカーのキャパシティが足りなかったんだね、現実世界全体を支配するには。だからクラッカーは、現実世界を捨てて電脳世界に入り込み、そこで電脳世界全体の神となろうとしたんだよ」
「どこまでも、『唯一絶対』にこだわったんだな、クラッカーは」
「そうだね。そういう事だと思う。その為に、私を呼び出すような真似をしたんだと思う」
「君を、呼び出す?」
「君という存在を利用して、戦術戦闘知性体を呼び出した。自分を殺させる為に」
 司は眉をひそめた。
「どの道、君は派遣される事になっていたんだろう?場所を特定するのに手間取っていただけで」
「それも、君のお陰で特定する事ができた。そう思っていた。今まで」
 司は背中にぞくりとしたものを感じて身震いした。
「という事は、その解釈は間違っていた、という事かい?」
 皐は首肯した。
「そう。間違っていた。全部、クラッカーの手の内で踊ってしまった。私が君と出会う事も、君をパートナーにする事も」
「そんな……」
 司は床が無くなったかのような虚脱感に襲われた。

 全て、仕組まれた事だったのか?皐ちゃんと出会う事も、殺された事も、パートナーになった事も、そして彼女を愛した事も。

 司は皐を抱きしめた。いなくなってしまわないように。
「僕たちの愛は、仕組まれたものだったのかもしれない。それでも僕は、君を愛してる」
 だからどこにも行かないでくれ、と言いたかった。しかし言えなかった。司と皐、個人的でミクロな事より、もっと大きな、世界を救う方が大事だ。だから言えなかった言葉を、しかし皐は察し、そして拒む事はしなかった。
「何処にも行かないよ、司くん。私も君を、愛してる。出会いは仕組まれていても、想いは偽物じゃない。私達の、私達だけの、物なんだよ」
 皐は司を抱きしめ返した。
「出会いは幾らでも転がっている。だけど、そこに想いを乗せる事は難しい。私達は、それに成功した。クラッカーの、計算違いだね。私達が愛し合ったという事は」

 二人は口づけを交わして、離れた。

「クラッカーは重大なミスを犯した。私達がこれほど強く結びつくとは、想像もできなかったでしょうから」
「そのミスを、教えてやる必要があるな」
「その必要はないよ。どうせ理解できない。会えば、今度こそ、殺す」
「意気込むのはいいけど、何処にいるのか分かるのかい?」
「分かるよ。この世界なら。司くんの力を借りれば」
 そう言って、皐はソファに座って司も隣に座るよう促した。

「手を握って。離れないように、強く」
 指を絡める。そしてお互いの手を握りしめる。強く。
 皐が宣告した。
「これから私は世界の書き換えを行う。名義をクラッカーの物から、私の物へと変更するの」
「そんな事が可能なのかい?」
 皐は首肯した。
「この世界はクラッカーが創造した架空の代物。だから創想術でそれを書き換えてしまう事は簡単なの。まあ、範囲が範囲だから大変だけれどね。多分、私にも司くんがいて初めてできる事じゃないかな」
「危険は、無いの?」
「分からない。多分無いとは思うけれど。危険が起きるとすれば、その後だね。現実世界でやった事を、繰り返さないといけなくなるかも知れない。でもそれなら大丈夫。押さえられる。クラッカーは、私と直接対決せざるを得なくなくなる」
「僕は、祈る事しかできないんだね」
 それが残念だ。もっと彼女の役に立ちたいのに。

 しかし皐は、司の瞳を見つめて言った。
「司くん。不安だと思うけれど、私を信じて。決して負けないと。それが、私の力になる」
「分かったよ」
 司は頷いた。納得できた訳ではない。しかしこれ以上無理を言って彼女に負担を強いる事は避けようと思った。それは彼女に苦痛を与えるのみならず、この戦いを不利に導く結果となるだろう。だから我慢する。ここから、彼女を支援する。全力で。

「それじゃ、始めるね」
 そう宣告すると、皐は目を閉じた。司からは、それ以上の事は分からない。だが勝てると信じる。クラッカーになど負けないと信じる。それが、彼女の力になるというのなら、幾らでも願おう。幾らでも祈ろう。

 頑張れ、皐ちゃん。その思いに全ての祈りを乗せて、司は皐の手を握った。強く。

◆◇◆

 思った通り、司の祈りの力は莫大だった。それを受け止めるべき皐が、力をこぼれ落としそうなほど、皐の周囲は力の波動に満ちている。

 皐は精神世界にいた。ここでは想いの力が全てだ。心の強さ、意志の強さが力に変わる場所。そしてクラッカーが世界構築の核としたのも、ここだった。
 精神世界に距離の概念はない。だが遠近の感覚はあるから不思議な物だ。クラッカーの世界支配の核は意外と近くにあった。脈打つ、世界のミニチュア。皐はそれを捧げ持つようにして手に取った。
 激しい破壊の波。
 冷たい構築の壁。
 その二つを手にとって、皐は世界のミニチュアに叩き付けた。相反する力を受けた世界のミニチュアは、脆くも崩壊する。しかしそれだけでは駄目だ。すぐに、復活してしまう。その中に隠された、核の中の核を皐は探し出す。
 ない。世界のミニチュアは、心臓を抜かれても生きている人間のように、脈動を続けて復活を遂げた。心臓部は、恐らく別の場所に隔離されているのだろう。それを、探す。

 皐は目を閉じる、イメージだけの事に過ぎないが、肉体感覚を持って精神世界にいる身としては、身体の動きという物は重要だ。司から受け取った力の波頭をその手に乗せ、皐は一気にそれを解放した。脈々と流れ込んでくる力を感じながら、皐は念を懲らした。この力の波濤に触れる物、それがクラッカーの本当の『核』だ。ダミーに引っかかったという悔しさはあるが、今はそれを問題にしている場合ではない。
 遠く遠く、精神世界の遙か彼方に、それはあった。司の力の波濤は、未だ広がり続けている。この距離が、クラッカーの精神世界の限界と言う事か。精神世界には距離の概念はないが、広さという概念はある。それを繋げば、自ずと距離も測る事ができる。クラッカーの精神世界は、司の物より卑小で歪曲だ。それは核のダミーの件からも知れる。それに比べて司の力はどうだろう。清廉で、強力で、まるで清廉な急流を思わせる。それこそが、彼の心の根幹という訳か。それを知って皐は一人、納得していた。
 ともあれ、クラッカーの核である。
 叩き潰すのではない。それでは司が今いる世界が、壊れてしまう。あくまでこれを解析し、書き換えるのだ。その作業には、大した力は必要ない。ただ書き換えの為に、連続した力が必要になる。途切れたら、そこで終わりだ。だが司の祈りの力は、途切れる所を知らないかのように流れ込んでくる。これなら、問題ないだろう。
 クラッカーの核に触れる。そして書き換える。その作業は大した時間を要することなく、終わった。

 これで、全てが終わった訳ではない。クラッカーとの直接対決が待っている。皐は精神世界から、電脳世界へと浮上した。

◆◇◆

 ただひたすら祈り続けていた為、司には時間感覚はなかった。ただ、皐が憔悴した表情で「終わったよ」と告げられるまで、ずっと祈り続けていた。
「これで、下準備は終わったんだね?」
 期待を込めて、訊ねる。その期待は、正しく報われた。皐は首肯し、司の肩に頭を乗せた。
「これでこの世界は私の物になった。クラッカーが幾ら操作しようとしても、私の許可無しにはどうする事もできない」
「そうか。これであと少しだね」
「うん。本当に、あと少し」
 その答えを聞いて、司は提案した。
「皐ちゃん、少し休みなよ」
 その言葉は皐には唐突に聞こえた。しかし実際、疲れてはいるのだ。だがそれを司に悟られたくない、そう思っていたのだが。
「無理しないで。隠さなくてもいい。そして今は休むべき時だ。最後に備えて」
 司の言葉は正論で、口を挟む余地がない。皐は大人しく、司の忠告に従う事にした。
「それじゃ司くん、肩借りるね」
「え?」
 司が問い返す前に、皐の頭が司の肩に乗せられていた。既に寝息が聞こえている。
「やれやれ」
 司はため息ひとつ吐くと、皐を両足の上に載せて、膝枕した。現実世界での、お返しだ。
「うう……ん」
 皐がむずがって、身体の位置を微調整する。司はくすぐったかったが、我慢した。

 夕闇は夜の帳に浸食されて、その影も最早見いだす事はできなかった。

〈3〉

 皐の睡眠は十五分ほどで終わった。

 皐は目を覚ました時、「あれ……?」と戸惑ったが、すぐに司が膝枕していた事実に気付いて赤面した。夜の帳の中、月光に照らされて辛うじて司に見えた程度であったが。
「ここまでしてくれなくて良かったのに」
「昼間、現実世界でのお返しさ」

 しかし妙な物だと司は思う。今ここにいるのは電脳世界で、その上に現実世界がある。しかしその上に上位世界があって、司達の世界は架空世界だという。司は何処にルーツを求めたらよいのか、しばし悩んだ。
 答えは結局、元の現実世界にルーツを求める事にした。理由は単純で、感じられない世界は自分にとってないも同然で、そういう物にルーツを求めてもルーツを見失うだけだと思った。これから取り戻す、現実世界に根を張って生きていこう。司はそう思った。
「それで、これからどうする?」
 司の質問は、楽しげな皐を興がらせた。
「どうしようか?なんだってできるよ。お腹空いたんならご飯を先にしてもいいし。クラッカーを倒すにしても色々と手段がある。例えば専用車から降りてきた所を狙い撃ち、でも、自宅で寝てる所を寝首をかく事でも。でもお勧めは、式典の最中に乗り込んでいって、クラッカーに無力を思い知らせてから殺す事かな」
「残酷だな。ま、奴がこれまでやってきた事に比べればどうって事はないが」
「それで、どうする?司くんのお好みでいいよ」
 司はパチンと指を鳴らした。
「それなら皐ちゃんの例の、最後の奴で行こう。それが、この戦いの幕引きに相応しい。ただ、殺す場所はここにしてくれないかな」
「それは簡単だけど、どうして?」
「奴は元は理事長だったんだ。ならそれ相応の場所で死んで貰うだけさ」
「そっか。そうだね。それが一番、残酷かも知れない」
 皐は頷くと、座っていたソファから立ち上がった。司もそれに従う。
「行くよ、司くん。クラッカーのいる会場まで、跳ぶ」
「分かった」
 そう返事した瞬間、周囲は一変していた。どこかの公会堂の舞台裏だろうか。舞台に目をやる。いた。クラッカーだ。

 奴は胸に大きなメダルを下げて、得々と演説をぶっていた。客席の反応がないのに気付いていない。陶酔すると、周りが見えなくなるのだろう。都合が良い。
「「クラッカー!」」
 司と皐、叫んだ声が同時だった。クラッカーはまるで有り得ない物を見たかのような表情で、二人を見返した。
「馬鹿な、お前達がここまで追ってこれる筈がない!あの機械は、私にしか使えないはずなのに!」
「そんなもの使わなくとも、わりと簡単だったよ、ここに来るのは」
 司はわざと嘘を言った。実際はわりと苦労したのだが。だがそれを教えてやる義理はないし、言った所で同情してくれる訳でもないだろう。クラッカーは追いつめられているのだ。そんな精神的余裕は、ない。
「戦術戦闘知性体を甘く見たようね。電脳空間への移動など、精神世界への移動に比べたら何ほどの事もないわ」
「妖物(ばけもの)め!」
「ありがとう。あなたの負け惜しみは心地いいわ。それとも敗北宣言かしら?ところで私たちに構っていていいのかしら?会場の皆さんがあなたを見ているわよ」

 確かに会場はざわめいていた。突然現れた二人の少年少女に、大の大人が狼狽え、罵声を浴びせかけているのだ。それが、先程までの洗練された容貌と演説とのギャップもあって、会場内に集まっていた人々はさざめいていた。
「静まれ!お前達、静まるんだ!」
 クラッカーがわめくが、効果はない。それどころか、さざめきはより一層高くなった。
「ハウスとはこうやるのよ、クラッカー」
 皐が一歩、舞台に出た。そして一言。

「静まりなさい」
 その静かな声で、十分だった。
 会場内は、水を打ったかのように静まった。無駄口を叩く者は、もういない。

「馬鹿な!お前等、何故私に従わない!お前等は私が創造したんだぞ!」
 クラッカーの狂熱に、皐が冷然と冷水を浴びせた。
「創造主と所有者が同一とは限らない。これで分かるわよね、クラッカー」
「貴様……」
 クラッカーは歯ぎしりした。音が立つほどに。その行為が、彼が事態を理解したという何よりの証だった。クラッカーは吠えた。
「貴様、私の物を、私の世界を奪ったな!この代償は大きいぞ!お前等全員、叩き潰してやる!」
 司が初めて、冷然と応じた。
「できるものならな」
 クラッカーはキッと、司を睨み付けた。
「大体、いつまで貴様は戦術戦闘知性体の味方をしている!とっとと私の元へ戻って来んか!」
 その言葉は、司と皐、双方の意表を突いた。
 その反応が気に入ったのか、クラッカーは初めて溜飲を下げた。

「そうだ。斎乃司とは私が念入りに創想術で創造した、レギュラーの中のイレギュラー。斎乃司がイレギュラーだという理由で、戦術戦闘知性体と邂逅する事は予想できた。だから改創造たのだ。私の人形とする為に。最終局面で、戦術戦闘知性体に最大のダメージを与える為に!」

 司が口を開いた。
「……つまり僕が本来いるべき場所は、皐ちゃんの隣じゃなくて、お前の隣だ、そう言いたい訳か、お前は?」
 我が意を得たりとばかりに頷くクラッカー。司はそんなクラッカーに冷然と言い放った。
「自分のいる場所くらい自分で決めたい物だな。僕は、皐ちゃんといると決めた。だからそれを翻すような事はしない」
 愕然とするクラッカーに、更に司が言い募った。
「居場所は自分で決める物だ。幾ら強制された物だとは言えども、そこに自分の意思が介入しないはずがない。僕は自分の意思で、ここにいるんだ。ここに、皐ちゃんの隣に」
 クラッカーは歯ぎしりした。丈夫な歯だな、と司は下らない事を考えた。と、不意にクラッカーが余裕を取り戻したかのような表情で司に告げた。
「お前が自分の意思で私の側に来ないというのであれば、もうお前の意思など必要ない。消えろ、斎乃司」

 言うと同時に、司に向かって腕を伸ばした。膨大な量の念が、司に降り注いだ。
「司くん!」
 皐がそれに気付いて『銃』を取り出す。
「一発で楽にしてやる。くたばれ、クラッカー!」
「待って、皐ちゃん!」
 今度の制止は間に合った。皐は焦りの表情で司を見やる。
「今撃ったら、恐らく僕も、消える。今アイツが仕掛けている創想術は、アイツと僕とを一体にする為の物だ」
 くっ、と皐が声を漏らすのが聞こえた。司は段々苦しくなってくる息の中、皐に向かって笑いかけた。
「大丈夫、僕は、僕だ。こんな一方的な術、はじき返してやる」
「できる?」
 不安そうな皐に、司はきっぱりと頷いて見せた。自分を鼓舞する為に。実際、クラッカーの創想術は強力で、確かに神を思わせる物があった。だが、と司は思う。自分は独りではない。隣に、彼女がいる。奴と同格の、神が。彼女の力と、自分の力を合わせれば、きっと耐えきる事ができるはずだ。
「皐ちゃん、手を」
 そう言って、皐の方に手を差し出す。皐は頷いてその手を取る。
 暖かな力が司に向かって流れ込んでくる。司にはそれが、分かる。溢れかえるほどのそれは、自身のそれとを合わせれば、クラッカーに押し返す事も可能だろう。
 司は力の波濤をイメージした。それがクラッカーに押し寄せる感覚。司は今にも溢れかえりそうな想いの力を、クラッカーに向けて解放した。

◆◇◆

「馬鹿な……」
 呆然として、クラッカーは立ちつくしていた。それも当然だろう。必勝の策がことごとくうち破られたのだから。

 クラッカーは満身創痍だった。司が解放したイメージの波が、現実世界にも作用した結果だ。それ程に、強いイメージだった事が分かる。波濤がイメージの世界に留まりきれず、現実世界へと溢れかえったのだ。それが、クラッカーを直撃した。倒れ伏さなかっただけ、クラッカーもただ者ではなかったと言える。
 しかしそれも、時間の問題に見えた。

「これまでのようね」
 皐が冷然と口にした。
「万策尽きた。創想術でも私達にお前は勝てない。加えて逃げる足も失った。覚悟を決める事ね」
 皐は再度、『銃』を取り出す。もう司も、皐を止めようとはしなかった。クラッカーはもう何もできないと、二人とも思っていた。
 誤算だった。
 クラッカーは銃弾を、ひらりと避けて見せたのだ。満身創痍だったのは擬態だった。

「その程度の『イレイザー』で私を滅ぼそうなど甘いという事だよ。尤も、こちらも手詰まりなのは確かだ。とっとと逃げさせて貰うとするかな」
 余裕げな表情の中に、必死さが見え隠れしている。クラッカーとて、実は大して余裕はないのだ。それを見て取って、司は皐の銃に手を置いた。

「皐ちゃん。『想い』を乗せるんだ。クラッカーよ、滅べと」
 皐は頭を振った。
「この銃には、その程度の創想術、とっくに施されているよ。外したのはあくまで、私の油断の所為。でももう外さない」
 司も頭を振った。
「それだけじゃ駄目なんだ。持ち主の意思。それがその銃の威力を決める。僕はそう思う。銃そのものに頼らず、自分の力を使うんだ、皐ちゃん」

 クラッカーは変貌しつつあった。背中には翼が生え、手と足は爬虫類のような鱗が生え、鋭い爪が輝いている。グロテスクなその姿を見ても、二人とも怯える事はなかったが、司はもしかしたら、クラッカーは最後の反撃を考えているのかも知れない、そう思った。
 クラッカーが飛翔する。真上へ向かって。皐の照準も、自然上へと上がる。
 そこで突然、クラッカーは急降下した。皐の照準は間に合わない。鋭い爪が、皐を狙う。 交差した。

「こんな事だろうと思ったよ」
 言葉を発したのは司だった。司は急降下に反応して、皐との間に割り込んでガードしたのだ。掴んだ腕を極める事はできなかったが、時間を稼ぐ事はできた。
「往生際が悪いって、こういう事を言うのよね。いい加減、その顔も見飽きたわ」
 皐は冷酷に言い放つと、創想術を弾丸に込め始めた。司に言われた通り、自分自身の『想い』をも乗せる為だ。この一発は、もう外さない。
「消えなさい、クラッカー」
 弾丸はクラッカーの眉間に命中した。そこでクラッカーの防御の創想術との競り合いになる。勝負は、なかなかつかない。

 皐は司を呼んだ。
「司くん、こっちに来て、手伝って。アイツの頭に、弾丸を叩き込む為に」
 司はすぐに指示に従った。クラッカーの腕を放し、皐の元へと向かう。途端クラッカーはもがき苦しみ始めた。それ程に強い消去の『想い』が込められているのだろう。それに負ければ、クラッカーは消される。必死にもがくのも当然かと思われた。
「司くん、一緒にこの銃を持って、祈って。司くんの想いを、乗算するの」
 司はニヤリ、と笑った。
「二人の愛の力で、悪を討ち滅ぼすんだね」
 皐もくすり、と笑った。
「そうだね。二人の初めての共同作業だ」
「ケーキカットでなくて残念だな」
 司は軽口を叩きながら、皐と共に拳銃を握る。その銃口を、クラッカーに向ける。

 司は祈った。「滅べ、クラッカー!」
 皐は祈った。「消えなさい、クラッカー」

 二人の祈りが創想術となって弾丸に届く。螺旋を描いて弾丸はクラッカーのバリアーを貫き、クラッカーに命中した。

 変化は激烈だった。

 まるで軟体動物のようにクラッカーの身体がねじれ、曲がる。それがクラッカーの最後の抵抗なのだろう。ねじれる。曲がる。伸縮する。それが段々と収まり、一人の男の死体が出来上がった。

「……死んだのかい?」
 司の呟きに、皐が首肯した。
「うん。今度こそ、滅ぼした」
「でも、死体が残ってるよ」
 司が問うと、皐はクスクスと笑った。
「司くん、忘れたの?こいつの死体は理事長室こそ、相応しいって」
「……ああ、なるほど」
 司の納得と共に、場面はすぐに理事長室に変わった。椅子に座り、奇怪な機械を抱いて死んでいる男の死体。

「これで上等でしょう」
「ああ。上等だ。過ぎるくらいに」
 実際には現実世界の理事長室ではないのだが、この男は自分が産み出した世界と共に滅びるのがいいと、二人とも思っていた。だからわざわざ口にはしない。
「それじゃ行こうか、司くん」
 突然言われて、司は戸惑った。皐は呆れた風に答えた。
「現実世界へ、だよ。正確には疑似世界の現実と思われている世界、かな」
「感じられなければ疑似世界も現実さ。それが、僕にも分かってきた」
「そうそう、その意気」
「それで、どうやって帰るんだい?」
 司の問いに、皐は答えた。
「多分司くんは、例の巻き戻り、六月一日の朝にいると思う。だけど安心して。もう入れ替わり現象は起こらない」
「六月一日から、普通に生活していけばいい訳だ。それで、皐ちゃんは?」
「私は報告の為、上位世界との連結地点へと赴かなければならない。だから司くんとは数日の間、お別れ」
「そんな……」
 司の顔を見て、皐は破顔した。
「そんな顔しないで。たった数日だけなんだから。すぐ戻ってくるよ、司くんの隣に」
「うん……」
 それでも司の表情は晴れない。漠然とした不安が、司の胸をよぎっている。
「これでお別れって事はないよね?」
 皐は笑った。朗らかに。
「ないない。もしかしたら時間がかかるかも知れないけれど、浮気しないで待っててね」
「分かった。待ってる。」
 司がやっと納得すると、皐は手を差し出した。
「それじゃ帰ろうか。司くん、手を」
 司は言われた通り手を差し出す。
 浮遊感。

 それが司の、最後の記憶だった。


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