奇想流離譚 01

〈1〉

 深い深い眠りら目が覚めると、私は自分が誰だか分からなかった。

 通常、自分が誰だか意識してから目覚める者はいないだろう。私も、そうだった。今日やる事を考えて、その事になにも思い当たらず、焦って自分は昨日何をしていたかを考えてまた何も思い出せず、そうして遂に思い当たったのだ。
 自分が、記憶を失っている事に。

 しかし一般常識は思い出せる。私が今寝ていたのはベッドだ。そしてここは寝室。しかし誰の寝室だろう。順当に考えれば私の寝室なのだが、まるで覚えていなかった。しかし使用していたという暖かみは感じる。放置されていた訳ではないのだろう、この部屋は。綺麗に掃除されている。ハウスクリーニングでも頼んでいるのだろうか。
 しかしそんな事は問題ではなかった。
 私は今、裸だった。衣服は畳んで、床に置いてある。誰が脱がせたのだろう。自分でか。それとも、他人か。他人なら誰だ。女の服を脱がしていったのだ。男なら親しい者の筈だし、女でも同様だろう。
 ともかく、服を着る。用意されていた服はカジュアルさと実用度との調和が取れた、なかなかの一品だった。ジャケットとトレーナーと、スラックス。ジャケットにはポケットが多く付属しており、スラックスはスーツに付属しているような物ではなく、縫製もしっかりした実用品だった。トレーナーは、ただのトレーナーだった。特に、防弾加工されている訳でもない。しかし私は何故、服ひとつにこんなに警戒し、吟味しているのだろう。別におしゃれに興味を持っている訳でもない。ただ、実用度を測ってみただけ。そんな服の選び方は、尋常の女はしないだろう。ならばこの私は、尋常でない女という事になる。
 何者なのか。この、私は。
 寝室を出る前に、枕元を探る。予想通り、堅い感触があった。枕をどかす。そこには一丁の、大型ブラスターがあった。手に取ってみると、結構重い。だが取り回せない程ではない。むしろこの重みが、頼もしいくらいだ。ホルスターを探す。それは、寝室のドアの近くにかかっていた。それを手に取り、ジャケットを一度脱いで、ホルスターを装備する。脇の下にブラスターが来るように調整して、そこにブラスターをぶち込む。そして再びジャケットを着込み、私は警戒しながら、寝室のドアを開けた。

◆◇◆

 寝室の向こうはリビングだった。向かい側に、もう一つドアがある。警戒しながら開けてみると、スタンダードな客用寝室だった。廊下側を調べる。バスルームは勿論、図書室になっているもう一つの部屋も調べた。しかし、誰の痕跡もない。
 結論。ここは私の他に、誰もいない。
 リビングで、私がそう結論付けた矢先だった。
〈おはようございます、真由。今日も元気そうで何よりです〉
 と、声が降ってきた。いや、これはWIS回線からか。パーソナル通信回線WISを通じて、誰かが私に話しかけてきた。
「誰だ、お前は。一体どこから私を監視している?」
〈監視カメラがあるでしょう。万能型の。その視覚を拝借しています。何せ私には、五感という物がない物で〉
「五感が、無い?」
〈何を寝ぼけているんですか。人工知性体に五感がある訳がないでしょう〉
「お前はその、人工知性体だと、主張するのか?」
〈一体どうしたんですか、真由。いつもならおはよう、と挨拶を返してくれるのに〉
 ……言おうかどうか、一瞬ならず迷った。しかしこうしていても、埒が開かないのは確かだ。わたしはこの、人工知性体だと主張する存在を、信用する事にした。
「実は……私は今、記憶喪失中なのよ」
〈……それは事実ですか?〉
「ええ」
〈私の存在も、覚えていない?〉
「ええ」
〈……重症ですね。私とあなたは、パートナーだというのに、パートナーの名前すら、思い出せないなんて〉
 言われて気がついた。彼(正確には性別はないのだが、便宜的にこの存在を「彼」と呼ぶ事にする)の名前を、確かに私は覚えていない。呼ばれて返事は出来ても、こちらから呼びかける事が出来ないのだ。これでは、コミュニケーションに齟齬が生じるだろう。どの道、私が記憶喪失である以上、齟齬が出るのは避けられないのだが。
〈まあ、起きてしまった事を嘆いていても仕方ありません。あなたの名前は、千堂真由。私の名前は、ホルスです。WIS回線でホルス、と呼びかけてくれれば、いつでも参上出来ますよ〉
 好奇心に駆られて、私は彼に質問してみた。
「お前はWIS回線に棲んでいるの?」
〈いいえ。私の存在はそういった物に固定されません。どこへも行けます。どこでも見られます。それ相応の、設備さえあれば。WIS回線に常駐しているのは、それが私にとって都合が良いからというより、真由にとって都合が良いからです〉
「私の都合で、すぐに呼び出せるから?」
〈はい。それは、私自身の都合でもありますから〉
「よく分からないわ。私の都合が、あなたの都合?」
〈あなたは私に、様々な物を見せてくれます。様々な事を、体験させてくれます。そういう意味で、真由と私は利益共同体なのです〉
 なるほど、納得がいった。人工知性体はその可能性はとてつもないが、成長させるのもまた、困難な存在でもある。私は自分と行動を共にさせる事で、このホルスという人工知性体を成長させてきた、という事らしい。
 という事は、私はそれだけ刺激に満ちた生活を送っていた、という事になる。刺激に満ちた生活。スリルに満ちた生活。そこに危険がないはずがない。私はそれをくぐり抜けて今までを生きてきた、そういう事か。
 という事は、やはりこの記憶喪失現象にはヤバイ事が関わっている気がする。一刻も早く記憶を取り戻さないと、生命に関わるかも知れない。まずは私は、ホルスに私がこれまで何をやってきたかを聞いてみた。
〈表向きは、私立探偵、ですね。でも実際は、官憲への協力、厄介事の依頼などの方が多かったようです。一歩間違えれば死に繋がるような事件も、扱ってきています〉
「非合法な事も、やっていたという事?」
〈いえ、それはありません。全て、法の範囲内で活動してきています。本当に、神業としか言いようのない程、すれすれの範囲で、ですが。しかし、法を破った事は一度たりとてありません。それは紛れもない、事実です〉
「つまり法スレスレの活動をしていた、という訳ね」
〈そうなりますね。しかし、真由の活動で利益を被った人間はたくさんいます。富裕層に限った話ではなく、平民層、貧民層の人々にとっても、という事です〉
「まるで正義のヒーローね。いえ、ヒロイン、かしら?」
〈そう言ってもいいかも知れませんね。何せあなたはサイファだ。それも最強のAAA+判定を受けた〉
「……サイファ?」
 覚えのない単語だ。私は、一般常識は覚えていると思っていたが、どうやらそれは間違っていたらしい。サイファという、その単語に、まるで覚えがなかった。
〈真由。あなたは自分がサイファである事も、忘れてしまったのですか?〉
「……ええ、そのようね」
〈それはまた、重大な危機状態ですね。危険が迫った時、真由の身を守る手段を真由は失った事になるかも知れません〉
 ホルスのその言葉に身が震えたが、何とかこらえる。恐怖は、サイファという単語の意味を、確かめてからだ。
「それでホルス、サイファとは、何なの?」
〈普通人は持ち合わせていない、超常的な力を操る人々の事です。超能力者、と言い換えていいかも知れません。その方が、分かりやすいでしょう〉
「私は超能力者だった、それも最強と呼ばれる程の。そういう事?」
〈はい。その通りです〉
「記憶を失う事で、サイファの力も失われる、そういう事例はある?」
〈いえ、そういう事例はありません。むしろ暴走して、手の付けられなくなった事例の方が多い。そういった事件も、あなたは過去に経験しています〉
「私のサイファの力も、暴走すると思う?」
〈いえ、それはないでしょう。あなたは何故か、記憶を失ったというのに酷く落ち着いている。なればこそ、感情から発するサイファの力の暴走も、有り得ない事と考えていいでしょう〉
「別に、落ち着いている訳でもないんだけどね……」
 ただ単に、ああ、記憶を失ったんだな、とまるで他人事のように感じられて、自身の危機とは感じられない、それだけの事なのだが。記憶を失っても、ホルスがいてくれたからかも知れない。ホルスが、今の現状を分かりやすく教えてくれたからこそ、私は取り乱すことなく、こうしていられるのだろう。ホルスは優秀な人工知性体だ。
「ホルス。もし私が落ち着いて見えるとしたならば、それはあなたの功績よ。あなたは本当に、優秀なパートナーだわ」
〈ありがとうございます〉
 ホルスはまるで感情があるかのように喜んで、私の賛辞を受けた。いや、実際に感情を持っているのだろう。知性を持っていれば、そこに揺らぎが生じる。知性の揺らぎは感情の証だ。人間とは異なるにしても、人工知性体は知性を持った存在なのだから、感情も持っていて当然なのかも知れなかった。
 勿論、知性を持っていれば必ず感情が生じる訳でもない。一定以上の知性と外部環境を知覚できる事。これが知性体を育て、感情を育てる最低限の土壌になる。その他、偶然などもあるだろう。そうして一個の個となるのだ。人工知性体も、人間も。
 関係のない事に思考を費やしてしまった。私の、悪癖かも知れない。集中すべき時には、恐らくは集中出来るのだろうが。
 そんな事を考えている私に、ホルスが有益な助言をしてくれた。本当に、優秀なパートナーだ。
〈真由。サイ・ブラスターは所持していますね?〉
「サイ・ブラスター。これの事かしら?」
 私はホルスターから、枕の下から見つけたブラスターを取り出した。
〈そう。それです。そのブラスターは、今の真由にとって最強の武器であると同時に、唯一のサイファの力を発揮出来る媒介でしょう。大事に、持っていて下さい〉
「サイファの力を、発揮出来る?」
〈はい。私の観測によれば、真由自身からサイファの力が消えたという事実は確認できません。消えていないという事は、あると言う事でしょう〉
「そんな、単純な事実かしら?」
 私は疑問を提示してみたが、ホルスは自信満々で答えた。
〈私の『視覚』を侮らないで下さい。人間には見えないサイファの力の波動も、私には観測可能です。尤も、このカメラにはその装置が付随していないため、観測する事は出来ないのですが。ですから真由。私の元へ、来て下さい〉
 私は眉をひそめた。
「私の元って、あなたは今、ここにいるじゃない」
 ホルスは毛ほども揺らがなかった。
〈言葉が足りなかったようですね。私とのコミュニケート装置のある場所まで、来て下さい。と言っても、あなたの事務所ですが〉
「私の、事務所。そんなものがあるの?」
〈あなたの表の顔は私立探偵ですからね。事務所もちゃんと、構えています。勿論レンタルですが〉
「店子って訳ね。で、そこはどこ?」
〈それも、思い出せませんか?〉
「ええ。残念ながら」
〈でしたら後で、わたしがWIS回線で誘導します。真由は私の指示通りに歩いてきて下さい〉
「徒歩距離圏内なんでしょうね?」
〈当然です〉
「それで、わざわざ『後で』なんて付けたのは何故?私は今からだって構わないんだけれど」
 するとホルスは説教口調になって言った。
〈真由。朝食を抜いてはいけません。朝食は、一日の活力です〉
 私は思わず苦笑した。ホルスは続ける。
〈それに身だしなみもです。真由は元がいいんですから、きちんと化粧をして、出て下さいね〉
 私はホルスの言う通りにした。化粧など後で構わないが、全身鏡で自分の姿を映すくらいの事はやってみる。

 やや切れ長の、深い黒の瞳。整った鼻梁。艶やかな黒髪の長さは背中に届くくらいで、私は首筋辺りでひとつにまとめた。身長は、女としては標準くらいだろう。やや華奢な体つき。しかし痩せているという質感も、無い。体型は均整が取れていると言うには、やや胸が大きすぎるだろうか。少しコンプレックスを感じる。
 これが千堂真由。私の姿だった。
 私は姿見を見終えると、ジャケットを脱いでキッチンに立った。
 朝食を、作るために。


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