月村家の朝は早い。一部を除いて。
意外かも知れないが、イレインも朝が早い部類に入る。尤もそれは、彼女に与えられた仕事において早起きは必須事項だからというだけであって、彼女が好き好んで早起きしているという訳ではない。まあ彼女も、早起きも含めて、嫌々仕事をやっている訳でもないらしいというのは、やらせている身としては、非常に喜ばしい事ではあるのだが。
……まあ、それはともかく。
朝練を終えた女の子達が朝湯に浸かって汗を流している間に、烏の行水の男どもは早々にシャワーだけ浴びて、リビングに戻って来ていた。
わりと今日のような日はよくあるので、みんな自分の着替えはうちに置いてあるから、その辺は概ね心配ない。尤も、誰とは言わないが、時折着替えの有無の確認を忘れて後で往生する、困った娘さんも存在するのだが。
それはともかく、リビングには既に、食堂を越えて厨房から漂ってくる朝食の匂いを嗅ぎ取る事ができた。ノエルとイレインが用意をしてくれているのだろう。今、女の子達が使っている風呂を準備したのも、この二人に違いなかった。
「司、なんか手伝う事はないか?」
お客様扱いが落ち着かないのか、健司がそう聞いてくる。僕は首を左右に振った。
「僕が頼めば何かさせて貰えるかもしれないけど、いいんじゃないかな。二人とも基本的にはこの家のお客なんだし」
「そう言われてもなあ。俺がこういうのに慣れてないの、知ってるだろうが」
「知ってるけどね。だけど正直、これ以上ノエルの手を煩わせたくないんだ。イレインだけでもいい加減、手を焼いてるだろうし」
「むう……」
不承不承ながら、健司はソファに腰を下ろした。燈真が健司の肩を叩く。
「まあ決まりの悪い者同士、大人しく座っておこうではないか」
「だけどなあ。野郎が雁首そろえて大人しく、ってのもなんてか、なあ」
なおも落ち着きのない風で、健司はぶちぶちと言っている。と、不意にてちてちと、寝ぼけた風の足音が聞こえた。
「……司ちゃぁん、おはよぅ……」
寝起きの皐姉さんだった。どうにか起きたものの、まだ瞼が重いらしい。
「浴場に雫姉さん達がいるから、お風呂入って、目覚まして来なね」
「わかったぁ……」
寝ぼけた足取りで、しかしどうにか浴場へ向かったらしい。着替えは向こうにあるはずだから問題ないだろう。
「……司」
不意に燈真が言葉を発した。
「若い娘が、ああいう格好で歩き回るのは、あまり感心しないが」
『ああいう格好』というのは、皐姉さんがパジャマ代わりに着ている、僕のシャツの事だろう。
「自分のパジャマくらい買ったら、っていつも言ってるんだけどね……」
皐姉さん曰く、普通のパジャマだと寝付けないらしい。
いや、同じシャツじゃないと駄目、という訳ではないが、何故か僕のシャツじゃないとよく寝られない、という事らしいのだ。
月村皐、七不思議のひとつ。
あとの六つは、そのうち出てくるだろう、多分。
……いや、単に僕もよく分かっていないだけなのだが。
それはともかく、恐らく父さんは地下の道場にいるだろうから、これで起きていないのは母さんだけという事になる。
まあ、あの人は一旦寝たらなかなか起きないけど。
起こしに行ってもいいのだが、まだそれ程の時間でもないし、寝かせておいてあげる事にする。多分そのうち、父さんかノエルが起こしに行くだろうし。
と、そんな事を考えている間に、イレインがリビングにやってきた。
「司、朝ご飯できたけど?」
「ご苦労様。もうすぐしたらみんなお風呂から上がってくるだろうから、そうしたらご飯にしようか」
「先に聞きに来といてよかったわ。それじゃ、パンはもう少ししたら焼くわね」
「そうしてもらえると有り難いな。後、母さんはまだ寝てるだろうから、父さんと母さんの分は後でいいよ」
「いつものことね」
てきぱきと家事をこなすイレインの姿が、なんとなく微笑ましい。ワガママいっぱいの彼女だが、仕事は仕事としてちゃんとやってくれる。
まあ、ノエルが怖い、というのもあるのかもしれないが。
……怒ったら怖いからなぁ。ノエル。
特に、イレインとのやり合いでは、容赦無しにロケットパンチが飛ぶ。
あれは、怖い。
実は僕も一度、至近距離に撃ち込まれた事がある。あれは、本当に怖かった。
尤も、ロケットパンチそのものよりも、彼女の無表情なまま怒りをみなぎらせる、あの独特の雰囲気の方が怖いのだが。尤も、刷り込みの効果というのもあるかもしれない。月村家の子供達はみんな、ノエルに育ててもらった様なものだから。
誰よりも頼りになって、怒らせると誰よりも怖い。僕達にとってはそんな存在なのだ、ノエルとは。
だから、彼女が人間かどうかなど、些細な事だと思う。他のみんながどう思うかは知らないが。
みんなというのは、僕の仲間内という意味合いではない。もっと広い、人間全体というカテゴリーの事だ。
世の中には色んな人間がいる。だからこそ生きているという事に価値があるんだろう。
だがそれと、自分の嫌いな人間に対する反発心とは、立派に両立する。
僕は、ノエル達自動人形を、道具としてしか見ない、見られない人間が嫌いだ。例えそれが、『同族』であったとしても、だ。
実際、同族かどうかなど、些細な事だと僕は思う。そんな争いに巻き込まれていた身としては、なおさら。
夜の一族もまた、人間と同様に種族カテゴリー内でパワーゲームをやっている。下らない事だと僕は思うが、しかしその権力志向を無視してはいられないだろう。
彼女が――イレインがいるからだ。
だが僕は、イレインを修理した事を後悔した事など、一度もない。怪我をした事もあるし、その他危ない事など多々あったにもかかわらず、しかし今の関係を築くには必要な事だったと僕は思う。
みんなが、その事についてどう思っているか分からない。聞いた事もない。ただ時折、危なっかしく見られていたであろう事は、想像に難くない。
それくらい危うい存在だったのだ。イレインは。
イレインが、僕と今の関係を受け入れた時、一族内から「奇跡だ」という声があった。
奇跡かどうかなど、僕にとっては価値のない事だ。それよりもイレインと、今の関係を築けたという事の方が、何倍も価値がある、嬉しい事だった。
さして昔の事ではない。今年の、年が明けた頃の事である。
リミッターの代わりに『首輪』を付けられたイレインは、それでも荒れた。やっと四肢が直って、万全に動ける様になった頃の事でもあったから、被害がろくに出なかったのは幸いと言えただろう。
その時、イレインと約束した事がある。
『イレインが『何か』を『創』れたら、イレインを解放する』と。
抽象的な約束だ。イレインが、その事を今も覚えているかどうかも分からない。そう言えば、訊ねた事もない気がする。
そして彼女が、僕の言葉を正確に理解してくれたかどうかもまた、分からない。
ただ、こういう言葉がある。
『我々はお前達をつくった お前達はなにをつくるのか』
随分としょった文句だ。しかしこれは、僕がイレインと例の約束をしたきっかけの言葉でもある。
『神の似姿』という言葉がある。
神は自分の姿に似せて、人間を造ったという。
ならば、と僕は思うのだ。人間に似せて生み出された自動人形達は、一体何を創り出すのだろうか、と。
何も、と答えられる人は幸せだ。創る苦しみも、理解できないだろうから。
苦しみの果てに、創るという行為は存在する。ある意味僕は、イレインに『苦しめ』と言ったに等しい。
だが。
その果てに何かがあるとしたならば、それは彼女たちの未来にとって、きっと有益な物になる。僕はそう思う。
尤も、そう信じたいだけなのかもしれなかったが。
「つくる、か……」
そう、例えば『絆』とか。
僕自身ですらあやふやなそれを、もしイレインが『つくれた』としたならば、僕は約束通り、イレインを解放するつもりだ。まあそうなったとしても、今のところ彼女に行く所なんてないだろうから、恐らくは当分、今のままなんだろうけれど。
尤も、ここにずっといなければならないという事もない。彼女自身のメンテナンス等の事さえクリアできるのなら、この屋敷を出て、もっと広い世界へと羽ばたいたって構わないと僕は思う。
正直、そんな彼女は想像できない。
しかし、不可能事ではないだろう。周囲の協力さえあれば。
逆に言えば、周囲の協力無くして、イレインが外の世界に出る事は不可能だという事でもある。だが、それは普通の人間であったとしても同じ事だ。論点は、そこには無い。
……彼女は今、何を望み、何を欲しているんだろう。
唐突に、それが知りたくなった。多分先程の鍛錬の時、考え事をしていた所為だろう。
しかし今それを聞きに行くのは間抜けに過ぎた。後で時間を作って、イレインに会いに行こう。僕は心密かにそう決めた。
「あたしが欲しいもの?」
「そう」
昼下がり。みんなが出かけたか、与えられた部屋でごろごろしているかで、二人で話すには丁度良い状況。そんな中で、僕はイレインに訊ねてみた。
「あたしが欲しいものは知ってるでしょ。それはずっと変わらないわ」
「『自由』、かい?」
「そうよ」
「随分と、抽象的なものだ」
「そうね、あたしもそう思うわ」
僕は彼女の言葉を聞いて、思わずイレインの顔を見なおした。
「……なによ?」
「いや……イレインが、そこであっさり納得するとは思わなかった」
「あたしにだって、考える頭があるんだけど?」
「知っているさ。でも、それでも驚いた。イレインが、自由という言葉の曖昧さに気付いた上で、それでもそれを求めているとは思わなかったから」
「もっと、即物的なものを求めてると思ってた?」
「うん、そうかな。『即物的』と言うと微妙だけど、まあ概ね、そんな感じ」
「別に怒らないわよ。昔はその通りだったもの」
意外と冷静な、イレインの反応だった。
「あたしは『自由』に憧れてた。それは今も変わらないわ。だけどそれを求める意味は変わっている。そういう事よ」
「……理由を、聞いてもいいかな?」
僕の言葉に、イレインは頷いた。
「あたしが地下室に封印されてた事情、知ってるわよね」
「うん、知ってる」
「あの頃は『自由』でさえいれば、何でもできると思っていた。何物にも束縛されず、自分のやりたいように、好きなように生きる事ができるって」
「でもそれは、幻想に過ぎない」
「そうね。それが、何となくあたしにも分かってきた」
イレインは、僕の目を見つめながら、言葉を継いだ。
「あたしが『あたし』として『存在』する限り、どうしても脱する事のできない『束縛』というものはある。例えば、あたしは自動人形だ、という事とかね」
「もしかして、それを引け目に感じているかい?」
僕の問いに、イレインは挑戦するように答えた。
「あたしがあたしを、どんな風に考えていようと、あたしの自由じゃないの?」
「もちろん、それは君の自由だ。だけど、僕は君の生い立ちなど、取るに足らないものだと思っているからね。だから、引け目に感じて欲しくはないな」
僕の言葉の所為かどうかは分からないが、イレインはここでひとつ、ため息をついた。
「……そういうあんたがいたからこそ、あたしは考えるという事ができるようになったのかもね」
「それは、誉めてくれてるのかな?」
「好きなように取ったら?」
「難しいな……」
考え込む僕を見て、イレインは呆れたように言った。
「まったく……馬鹿真面目に考えすぎなのよ、あんたは。誉めてるのよ。一応、ね。感謝なさいよ? あたしが人を誉めるなんて滅多にないんだから」
「それじゃ、素直にお礼を言っておこうかな。ありがとう」
「……馬鹿ね」
イレインはそう言ったきり黙ってしまった。怒らせた訳ではないようだが、しかし女の子というのは難しい。イレインに限らず。
人と関わり合うという事、それ自体が難しいには違いないのだが、しかし特別、異性というものは僕にとって難しい。女の子という存在は。
何が難しいというのだろう。異性である、ということが?
なら、僕はやはり異性を意識しているのだろうか。何かしらの、対象として。
……何の?
それが分かれば、苦労はないのだが。それとも、また別の苦労があるのだろうか。それはあるに違いない。どんな事にも苦労はあるものだ。その先に何があるのか、そこが問題なのだろう。
それはともかく、イレインが黙ってしまったので、僕が話を繋げなければならない。
それでふと僕は、朝に考えていた『約束』の事を思い出した。
「イレイン。例の約束、覚えてるかい?」
「約束?」
「今年の、一月の」
「……ああ、あれね。覚えてるわよ。でも半ば、諦めてる」
「どうして?」
「何をつくればいいのか、分からないのよ。例えば『絆』の事とかね。どうやればそんな物がつくれるのか、あたしには分からない」
僕は苦笑した。
「同じ事を悩んでいたんだな、僕たちは」
イレインは目を見開いた。それほど驚かれるような事を言った覚えはないのだが。
「あんたにはあるじゃない。立派な『絆』が」
イレインのその言葉こそ、僕にとっては驚くべき事だった。
「一体僕のどこに、そんな物があるって言うんだい?」
僕のその取り乱した言葉に応じて、イレインは冷静に指摘した。
「雫や皐、その他の人間、そしてこの館の主とあの男」
この館の主とは母さんの事、そしてあの男とは父さんの事だ。
昔の事があるからだろうか。イレインは二人の事を素直に「ご主人様」とは呼ばない。だから、こういう回りくどい言い方をする。
「……つまり、僕と僕の周りの存在とには、すでに『絆』があると言いたいのかな、イレインは?」
「そうじゃないの? あたしだってよく分からないけれど」
「僕にだって分からないよ」
「そうかもね。でもあたしが分かってる事がひとつだけ、あるわ」
「何かな……?」
「あんたは難しく考えすぎなのよ。色んな事を、いちいちね。もっと気楽に考えなさい」
「まさか、イレインに忠告されるとは思わなかったな」
「言ったでしょ? あたしにだって考える頭があるって。忠言することも出来るわよ」
「そうか。ありがとう」
「ふん……」
そう言ってイレインはそっぽを向いてしまった。多分、照れているのだろう。慣れない事をした、と思っているに違いない。それくらいは鈍い僕にだって分かる。
「イレイン」
僕はあえて、気軽に聞こえる様に呼びかけた。彼女はけだるそうな顔をして振り返る。
「何よ?」
「僕は……できる事なら、君とも『絆』を結びたい。こう考えるのは、傲慢かな?」
イレインは絶句した風で、目を見開いて呆然と僕を見つめた。僕も、じっとイレインの反応を待った。
「あんた……バカ?」
待ち望んだ反応は、そんな物だった。僕は馬鹿にされても冷静に、それを受け止めて、さらに聞き返した。
「どうしてそう思うんだい?」
彼女は、怒った様な表情で言い募った。
「知らないわよ、バカ!」
どこで何を間違えてしまったのかは分からないのだが、イレインはいきなり僕を怒鳴りつけると、むすっとして黙り込んでしまった。僕も何となく黙り込む。
沈黙が流れた。
それを破ったのは、ドアのノック音だった。僕が「どうぞ」と声をかけると、静かにドアが開く。ノックの主はノエルだった。
彼女はイレインを見つけると、僕に向かって問いかけた。
「もうすぐ夕食の支度の時間ですので、イレインをお借りしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、もうそんな時間か。うん、いいよ」
「……あたしの意見は?」
「聞く耳持たないんじゃないかな」
僕は指摘した。
はあ、と深々とため息を吐くと、イレインは言った。
「分かったわよ。先に行ってて」
「できるだけ、急いで」
それだけ言い残すと、ノエルは身を翻して部屋を出ていった。
「それじゃ、行って来るわ」
「うん」
それだけ言い残すと、イレインも部屋を出ていった。
そして取り残された僕も自室に引き上げるべく、彼女たちの部屋を後にした。