第3話 日曜日(1)

 日曜日、早朝。
 中庭に、堅いもの同士が打ち合わされる音が響く。断続的に、或いは連続的に。
 無論、それは僕たちが打ち合わせる木刀の音だ。
 僕と雫姉さんは、鏡合わせのように同じ型を、同じタイミングで打ち合わせている。
 どちらか、或いは双方の剣筋が一拍一振りでもずれたなら、かなり痛い目を見る羽目になるため、見た目以上に集中力を要する鍛錬だ。刺突の場合は互いが交互に出し合う事になるが、それ以外は全く同じ型だ。最後までちゃんと決まると、見る分には見事な演舞に映る……はずだ。
 尤も、僕達自身は、自分の打ち合う姿を見られないので、上手くいっているかどうかは雫姉さんの木刀と打ち合わされる、その一瞬毎で判断するしかないのだが。
 右、左、薙ぎ、払い、刺突。変幻自在の型を一つ一つなぞるように、しかし本気で打ち合わせていく。これは基礎であるが故に、全てのステップに置ける土台。真剣になるのは当然だ。一セット千本はかなりきついが。
 体育会系の他の面々――つまり皐姉さん以外の全員だ――は、まだ戻ってきていない。恐らくまだ、ランニングの最中だろう。
 うちの敷地は無駄に広いので、敷地内を単純に周回するだけでも、結構な距離になる。だからその点に限って言えば、便利だと言ってもいいかも知れない。昔は不便以外の何物でもないと思っていたが、全く、何にだって使い道がある物だ。
「「九九八、九九九……千!」」
 最後の一振りで木刀がみしり、と嫌な音を立てたが、幸い折れはしなかった。
 木刀だって高価いのである。そうそう毎日、バキバキ折ってはいられない。
「よし……それじゃ五分休憩。そしたら次は僕が美沙希ちゃんと打ち合うから」
「いいけど……あんた疲れない?」
「美沙希ちゃんの方が疲れてるはずさ。今し方やっとランニングが終わる所なんだから」
 言っている端から、ランニング組が帰ってきた。思い思いの姿勢で休憩を取り始める。
僕は美沙希ちゃんに歩み寄ると、型打ちの事を伝える。
「……うん」
 それが美沙希ちゃんの返答だった。

 宣言通り五分休憩の後、美沙希ちゃんと型打ちを始める。
 美沙希ちゃんは雫姉さんほどの『重さ』はない。代わりにスピードと切れがある。万一ついて行き損ねたら痛い目に遭うのは、雫姉さんの時と変わりはない。先程よりも、二割ほど速いペースで打ち合っていく。
「百二十一っ!」
 刺突が伸びてくる。美沙希ちゃんの刺突はかなり伸びる。故に受ける速度も上げざるを得ない。ガッ、と木刀同士の打ち合わされる音。
 ……今のは、少し危なかった。
 油断していたつもりはないのだが、彼女と打ち合うのは久々だったためか、呼吸のタイミングが僅かにずれてしまったようだ。だが冷汗をかいている暇もない。美沙希ちゃんのスピードに負けないつもりの速度で、刺突を繰り出す。
「百二十二っ!」
 しかし、あっさりといなされた。やはり刺突とスピードでは、まだ敵わないらしい。
 だが型打ちで優劣を競っても無意味だ。僕は美沙希ちゃんのペースに合わせて、型打ちを続けていった。

「九九九……」「千……っ!」
 美沙希ちゃんとの型打ちが終わる。雫姉さんより若干ハイスピードだった所為か、予定より早く型打ちが終わった。幸い、今度は僕の木刀は言わずもがなとして、美沙希ちゃんの木刀の方も、嫌な音を立てる事はなかった。
「よし、美沙希ちゃんは五分休憩。そしたら次は雫姉さんと美沙希ちゃん」
 僕の宣言に、顔をしかめたのは雫姉さんである。美沙希ちゃんの方を見やると、無表情に見えたが、どうやら雫姉さんと同意見のようだった。
「美沙希ちゃんと打ち合うの苦手なのよね、あたし」
「……私も」
 そんな事は、僕も承知の上である。だが苦手だからと言って、避ける訳にもいかない。相手がいつも自分に合わせてくれる訳ではないのだ。
 大雑把に分類すると、雫姉さんの武器はパワーとタフネスさで、翻って美沙希ちゃんの武器はスピードと一撃の精密さだろう。確かに、決して相性が良い相手とは言えないが、相手を自分の得意分野での勝負に誘導できれば、多少の有利不利は強引にねじ伏せる事も不可能ではない。そういう意味では、むしろ分かり易くて性質(たち)のいい相手であるとも言える。
 ――無論、実戦では、そういうセオリーは中々に通用しないのだが。
「念のため言っとくけど……」
「型打ちは型の稽古。相手に勝つ事を目的としてる訳じゃない、でしょ?」
 雫姉さんに言葉を奪われてしまった。美沙希ちゃんもこくこくと頷いている。
「分かってるならいいけど……二人とも熱くなるタイプだからね。釘を刺しとくくらいで丁度良いんだよ」
「……失敬だと思います」
「そうよそうよ」
 ……こういう時の息はぴったりなんだけどな、この二人。
 一瞬ため息をついてしまったが、髪をかき上げて気を取り直す。
「それじゃ……始め!」
 僕の合図と共に、二人の合計四本の木刀が、打ち合わせられ始めた。

 動いている時はそうでもなかったが、休んでいると汗が噴き出してくる。タオルで汗を拭いながら、僕は他の面子へ目を向けた。
 組み合わせはどうやら健司と燈真、相川さんとみなとちゃんらしい。
「せっ……!」
「……っらあ!」
 ひときわ高く、木刀が打ち合わされる音が響く。二人とも力がある分、端で見ているともの凄い迫力だった。見ているこちらの方がひやりとするくらいだ。木刀が風を切る音も凄まじい。
「二人とも、あんまり熱くならないようにね。お互い、怪我でもしたら洒落にならない」
 一応声をかけておく。その声で集中を削いでしまったのか、二人は距離を取って木刀の切っ先を下に向けた。二人して僕の方を向いて、声を返してくる。
「心配ねーって。燈真が相手なら、俺が全力出してもそうそう当たる事ねーだろーし」
「私と互角に打ち合える者など、そうおらぬ故な。たまには愉しませてもわらぬと」
「……さいですか」
 残念ながら、あまり聞く耳持つ気はなさそうだった。
 まあ二人とも楽しんでるようだし、お互い言っている事の九十二パーセントくらいは、事実でもある。となると、あまり邪魔をするのも野暮という物だろう。
 凄まじい勢いで木刀が打ち合わされあう音を背にして、僕は相川さんとみなとちゃんの練習風景を見に行く事にした。

「ほお……」
 思わず感嘆の声を発してしまうほど、二人の息はぴったりだった。
 長さの異なる二本の硬質ウレタンの棍が、緩急をつけて、まるで計ったかのように打ち合わされている。
 護身道と剣道。型が違うのだからお互い合わせにくいだろうに、二人ともそんな風など欠片も見せていない。棍同士が舞う様は美しくすらある。
「大したもんだ、二人とも。着実に色々、良くなってきてる」
 二人の集中を邪魔するとマズイので、このまま去ろうかと思ったが、向こうがこちらに気付いたらしい。棍の舞が中断された。
「気にしないで、続けてくれたらいいのに」
「別に構わない。司くんとの方が張り合いがあるから」
 みなとちゃんの言葉に、相川さんが過剰に反応した。
「あ、ずるい! 私だって月村くんの方がいいわよ!」
「早い者勝ち」
「いや、二人で続けたらいいんじゃないかな。僕も、もう少し打ち込みをやりたいし」
「それだったら、私がお相手します! いいですよね、月村くん!?」
 思わず勢いで「うん」と言ってしまいそうになる迫力だった。しかし世の中そうは甘くない……所為かどうかは分からないが、当然のように、みなとちゃんが割り込んできた。
「抜け駆けはよくない」
「その言葉、そっくりお返しするわよ!」
「七瀬も、人の事言えないと思う」
「そっちこそ!」
 ……と、二人の口喧嘩未満のやりとりが、いつも通りループを始めたのを好機と見て、僕はとっとと逃げ出した。万一二人が我に返って、もめ事の大元がとっくに逃げ出したと気付いたら、二人して追いかけて来るかも知れないが、その時はその時と諦念して、僕は皆がそれぞれに鍛錬を行っている庭の一隅から、こっそりと抜け出した。

◆◇◆

 そうして皆の輪から抜け出した僕は、皆がそれぞれのやり方で、練習や鍛錬をしている様子が一望できる木陰を選んで、そこに座り込んだ。
 傍目には、サボリの誹りを受けても仕方のない行動だが、幸い、こういう時の僕には、大抵は誰も話しかけて来ない。無論、その必要があると感じたらしい人は、対象外だが。
 それに、今の僕の頭を占拠している類の、自分自身ですら納得させ得るだけの答えが出せるかどうか分からない、悩み事未満の考え事に至っては、例え誰かしらの知恵を借りたとしても、『本当の真実』という扉を開くには、恐らく力不足だろうと思う。
 ――尤も、真実など何処にも存在していない。それこそが唯一の真実だ。等といった、全力で後ろ向きな結論しか導き出せないのだとしたら、無益と失望の二人連れが、手に手を取って、徒労という名の陰気な輪舞を踊る事になるだろう。
 だから僕は、みんなが集まっている時に、こんな考え事をしてしまう――無論、極力避けているつもりではいるのだが――時は、途中で一人抜け出して、みんなの練習姿を遠望しながら、思索にふける様にしている。考え事をしながら剣を振るうなど、遠回りな自殺以外の何物でもないからだ。そしてみんなも、僕がそんな事態を避けようとしている事を知っているから、『いつの間にか』僕が抜け出していた事に気付かない風を演じて、しばらくの間、僕を独りにしてくれているのだと思う。
 恐らく、みんなにもそれぞれ、何かしら思惑があるのだろうが、それは僕の与り知らぬ事でもあるし、第一それを確かめる術は僕には無い。それに、例えその理由が紳士協定の類だったのだとしても、僕が時折、自分勝手に練習を抜け出す事を黙認してくれている、という一点だけでも、僕には充分、ありがたい事だった。

 ――ずっと、気になっている事がある。
 みんなは、何の為にそれぞれ、己の技を鍛え上げ、高めようとしているのだろう?
 そして僕は? 何の為に?
 それは僕が修める剣、御神流にとって、己の生きる道を問い、定める事に等しい。未だ半人前未満の僕が、それを完全に定めてしまうのは早計に過ぎるかも知れないが、だが少し先を見越してみるのは、決して悪い事ではないと思う。
 少し昔の僕は、それを完全に定め、それに沿って生きて、自分の剣を高めているつもりだったし、それで問題ない、間違いないと思っていた。
 だが、恐らくそれは、誤りだったのだろうと、今の僕はそう思う。
 無論、完全に誤った道を歩んでいたとは思わない。だが、あまりに単純で、短絡過ぎる物であったのではないかと、今の僕には思えるのだ。
 その変心は、僕自身の成長による物なのか、それとも単なる気の迷いなのかは、今の僕に判断する事は不可能だ。だが己を見つめ直す心の余裕、或いは自分の迷いを自覚しうるだけの力が、今の僕にはある。ならば、僕自身の迷いを払う為にも、その力を正しく利用して、自分の道、自分が進みたいと望む道を再確認してみたいと思う。焦る必要はないとは思うが、ただいつまでも迷い、悩んでいる暇も無い。仕事の事もあるし、第一これから進む道を自分で定めきれないのなら、御神の剣を持つ資格は無い。恐らくこのまま迷いを持った状態で御神の剣を手にしたいと言っても、父さんは許してくれないだろう。
 父さんは多分、今こうして僕が悩んでいる事に気付いているだろうと思う。それなのに未だ何も言わないのは、恐らく僕が自分で自身の道を定める事に期待しているからだ。その期待に応えたいと思うし、僕なんかの事で、父さんに余計な心労をかけたくないという思いもある。だから僕は、どういう道を辿る事になるにせよ、その道自体は自分自身で定めたいのだ。
 ただ、僕一人では決めかねる事があるかも知れない。その時は、誰かの力なり知恵なりを借りる事になるだろうが、そうなった時、誰かの力を借りる事に恥じない様な理由と意味を示せる様に、僕自身の価値観の土台くらいは自力で築いておきたい。せめてそれくらいはできなければ、僕は恥の一文字のみしか値しない人間に成り下がるだろう。

 心が完全に定まった訳ではない。むしろ逃避の類である可能性の方が高い。だが今この場所で悩んでいられる時間は限られている。少なくとも僕の視線の先で修練を重ねているみんなに、心配をかけてしまう可能性は、今僕がここでこうしている時間が長くなる程に比例して高くなる。とりあえず、今この迷いを振り払えただけでも充分だろう。
 僕は両手で自分の頬を叩いて気合いを入れると、みんなの所へ駆け寄った。


←前へ 目次へ 次へ→