Shimpu
新府
新府の桃源郷の案内図
新府のホーム
 対向式のホームにちょこっと雨よけの屋根がついただけの簡素な駅である新府は元々は勾配の途中の信号場として開設された。

 造られた当時は上り勾配の途中で止まった場合は発進が困難であったため、構内に加速線を設けた形のスイッチバックを採っていた。しかし昭和48(1973)年の複線化によって新府のスイッチバックは廃止され、今では韮崎寄りに加速線の跡が残っているにすぎない。

 駅の周囲には桃畑が広がり、春になると桃の花が咲く様子は桃源郷の名にふさわしい。下りホームの階段の途中には新府桃源郷の案内図があってハイキング客に対応している。

 駅から徒歩約10分の所には新府城址がある。新府城は天正9(1581)年に武田勝頼が築いた城で七里岩の上に造られたが、武田信玄亡き後の武田家は凋落の一途を辿っており12月24日に入城したものの、織田信長軍の勢力は留まることを知らず、信長に城を乗っ取られることを恐れた勝頼は翌年の3月3日に城に火をつけて逃走。その8日後の3月11日に勝頼父子は自害し武田家は滅亡した。結局新府城は戦うことなく自落していった。

 新府城址はこれと言った城らしき建物が全くなく、城址内にある想像図でイメージを膨らませるしかない。実は新府城は山梨県内ではミステリースポットとして知られているらしいが、新府の駅は城の寂しい歴史を感じさせないほど長閑であった。

                                                                  (2004.4.8)
新府のホームと桃畑


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