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江戸時代は「根付師」という呼称は一般には用いられず、単に彫物師や象牙角彫、”ねつけほり”と称されていた。”根付師”としてのまとまった単位の職人群は、江戸庶民の間ではあまり認知されていなかった可能性がある。(せいぜい友親、龍珪、忠利くらいが有名人だった。)
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根付の専業職人は少なく、人形師、彫物師、蒔絵師、欄間師といった職人の余技の産物であった。上田令吉らが指摘している、この根付師副業説は、番付表を通して裏付けられる。
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庶民向けの安価で単純な根付の製作者は、職人番付の中で”ねつけほり”と称され、一般庶民からは地位や格式の低い職人と見られていた可能性がある。
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一方、人名録に掲載されるレベルの有名根付師の根付は、当時は上流階級の武家や裕福な商人を対象とした高級品であり、一般庶民の目に触れる機会は少なかった可能性がある。だからこそ、一般庶民の番付では、根付(根付師)に関する記述が全体として少なかった。
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番付から推測すると、同じ江戸時代の工芸美術である刀剣、刀装具、蒔絵、印籠と比較して、根付は重要な美術品としての扱いを受けていなかった。高級根付に接する機会の少なかった江戸庶民は、根付というものを名物として扱っていなかった可能性がある。すなわち、根付文化は、江戸庶民の文化ではなかった可能性が高い。
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結果、文明開化後も根付が軽んじられ、大量に海外流出した遠因となった可能性がある。和装文化は明治末期でも一般庶民の間で存続していた。しかし、明治初期の上流階層の洋装文化の導入は、もの凄い勢いで、高級根付の市場を衰退させた。
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江戸時代の根付師の姿を知るためには、更なる番付表の調査研究が望まれる。 |