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第13回 番付表でみる根付師たち  
平成15年8月3日




 困ったことに、江戸時代の根付師の姿を知るための文献は少ない。
 雑多の歴史資料から関連する情報を丹念に拾い集めていくしかないのである。

 そのようななかでは、当時の庶民の考え方や風俗を知る上で欠かせない「見立番付」が、根付師の姿を知る上で有効だと考えた。今回は、江戸時代の番付表を約350点も収録した書籍『番付集成』(林英夫・芳賀登、人文社・柏書房、昭和48年)の中から、関心のある情報を拾い出して紹介したい。この本は貴重な番付資料を集めた2巻から成る本である。著者が数千点の番付の中から約350枚の番付表を厳選して掲載している。


番付表とは何か

 番付表といえば、相撲の番付表が有名だ。当局の許可を得て興行を開催した証である「蒙御免(ごめんこうむる)」の大きな題字を中心に、東西に横綱や大関、関脇の名前が居並ぶ表である。番付表とはランキング表のことで、ランキングが高いほど大きな目立つ字で、上位に書かれる。ランキングが低くなるにつれて字は小さくなり、最後は虫眼鏡でなければ判別できないものとなる。

 この相撲番付と似たランキング表が江戸庶民の間で大いに楽しまれていた。それが今回紹介する見立番付(みたてばんづけ)である。面白半分に世の中の事象の何にでも序列を付けて、相撲番付風の番付に仕立てて、簡単に出版していた。例えば、「大日本名所旧跡番付」、「米の産地番付」、「江戸名物番付」、「儲かる商売番付」、「人気料理茶屋番付」、「諸国有名祭礼番付」、「諸職人番付」、「国々名物づくし番付」、「大坂両替屋番付」といった番付が現在に残されている。当時の一般庶民の風刺、好み、暮らしの知恵、道徳などの生活の姿を知るためには欠かせない、貴重な歴史資料となっている。

 番付表が商品として発刊されるためには、全国的な商品流通組織が確立し、様々な情報が集積する社会的条件が整い、市民生活の向上に伴う共通の市民的関心の成立を前提としていたとの指摘がある。このような背景があり、番付表は江戸時代の寛政期(1789年〜)頃に発刊され始め、文化・文政期(1804年〜)に最も多くの表が発行された。

 これは、古根付の隆盛の時期と偶然にも一致している。江戸時代から明治大正時代にかけて、日本全国で番付表は約1万種類近くが発行されたと言われている。この番付表を読み解けば、根付文化が花開いた時代の姿の一端を知ることができるかもしれない。そのように思った。




『大江都名物流行競』(発行年:不明(江戸時代後期))

 正確な発行年は不明だが幕末頃と推測され、当時の江戸で流行したものを並べた番付表。この番付表はとても面白い。画仙や儒学、謡曲、篆刻、狂言などで名物と賞された物の番付に混じって、竹陽齋友親(ともちか)神子齋龍珪(りゅうけい)の2名の名前が象牙角彫の分野の代表として挙げられている。

 当時、江戸を代表する根付師といえば、江戸庶民の間ではまずこの2名が真っ先に挙げられていたに違いない。友親の住所は浅草、龍珪は中ノユウ(?)と書いてある。友親はもちろん初代のことであろうが、上田令吉の『根附の研究』によると、友親は”巣鴨に住す”とされている。上田令吉が間違ったのか、番付が間違ったのか、それとも友親は引っ越しをしたのか、分からない。

 ここでは彼らが「根付師」と紹介されていないことに注意したい(後述)。また、友親と龍珪は「象牙牙彫」というジャンルの達人であって、「根付」というジャンルではないことにも気に留めて頂きたい。

 この他に、上代蒔絵として神田の羊遊齋寛哉雛師木偶として本町の原舟月が挙げられている。




『金府繁栄風流選』(発行年:不明(江戸時代後期))

 今紹介した『大江都名物流行競』の名古屋版である。金府とは金鯱城下町の意味である。こちらの番付も正確な発行年月日は分かっていない。ただし、名物とそれぞれ対応する氏名が100名以上書かれているので、それらの生年を調査すれば簡単に年代特定はできると思う。

 ここでは、彫物の分野で忠利廉士(藩士の誤りか?)が挙げられている。この番付には大関や関脇といった序列は書かれていないが、忠利は第1列目に序されているので、当時は相当有名であったようだ。忠利は根付だけではなく、彫物一般を行っていたのであろう。

 上田令吉の『根附の研究』によると忠利は名古屋派の有名根付師で、"天明寛政(1771-1801年)の人なり"と解説されている。もし番付表の正確な年代推定ができれば、忠利の正確な活躍期が分かるかもしれない。ここでも、忠利は「彫物」のチャンピオンであって「根付」のチャンピオンではないことに注意したい。

 この他に、蒔絵の分野で一國斎という人物がランクインしている。




『日本国中見渡勘定 七分三分の見立て』(発行年:不明(江戸時代後期))

この見立て表も面白い。日本中の様々な物の割合を表にした。

 <抜粋>
  武士 七分  百姓 三分
  学者 一分  不学 九分
  金持 三分  質置 七分
  神社 四分  寺院 六分
  義理知人 一分  不義理 九分
  長者 一分五厘  貧者 八分五厘


 これらの割合は必ずしも人数や数を表わしているわけではなく、例えば武士と百姓の割合は当時の世の中の動向を決定する勢力関係を示していると推測されている。

 この見立て表で興味深いのは、「煙管(きせる)五分 墨筆(すみふで)五分」と記述されている点である。江戸時代に庶民は様々な提物を提げていた。印籠や袋物、煙管筒、矢立である。この勘定の正確な意味は謎であるが、もし仮に腰に下げる提物の内容の割合を勘定したものであるならば、当時は、煙管筒と矢立を半々ずつの割合で持っていたこととなる。当時は煙草が流行し、煙管を携帯する人口の方が多いと思っていたが、意外に筆記用の矢立を携帯する人も多かったようである。




『まけずおとらず三ヶ津自慢競』(天保十一年改正新版)

 1840年頃に旧版を改訂して出版された番付表で、江戸、京都、大坂の自慢すべき物をそれぞれ40個ずつ並べている。当時の人々が自分の町の誇りにしていた物が並べられているようだ。例えば、江戸の部のトップは諸大名方と山王祭、京都の部は諸宗本山、祇園舎、大坂の部は天王寺と天神祭が挙げられている。

 提物に関しては、江戸の部でたばこ入れ、大坂の部でたばこ入れきせるが挙げられている。




『国々名物つくし』『諸国産物見立相撲』(発行年:不明(江戸時代後期))

 こちらは日本全国の特産物商品を100個ずつ並べられている。当時の名産特産がどのようにランクされていたのかが分かって面白い。横綱級は、松前の昆布、土佐の鰹節、上野の上州織物、山城の京織物といった現代でも納得の行く、超有名特産がランキングされている。

 提物に関しては、「長門 印籠」がそれぞれの番付表で同じ位置、前頭の2段目に掲載されている。ランキング表全体のちょうど中間のランクに位置する。興味深いことに当時は、印籠といえば”長門の名産”と広く一般に認識されていたらしい。残念なことに、根付や煙管筒、緒締はどこにもランクインされていない。

 長門印籠は、六重・細長型・黒塗りの形の印籠で、江戸で特にもてはやされたという。革製で、黒漆か弁柄漆の一色で、薬の持ちがよいと評判の印籠だった。この諸国名物の番付表を見る限りでは、”長門”は産する地方名を意味するものと解釈できるが、一説では、秋月長門守の屋敷で作られたところからこの名前が付けられた、とする説もある。(「日本の美術 No.195 印籠と根付」、荒川浩和編、至文堂、P.20)




『諸職働人家業見立相撲』(天保十一年改正)

 江戸時代の職人の格式をランキングした番付表と思われるが、150以上の様々な職人家業がランク付けされている。相撲番付のように職業毎にランキングが付けられているのが面白い。当時の庶民が職人に対してどのように重要性や格式、人気を認識していたかが分かる資料となっている。大関や関脇クラスには、刀鍛冶や武具師、目貫、役者、織物師、船頭といった職業が並ぶ。また前頭クラスは、船大工、鋳物師、炭焼、塗師、経師、刀研、畳師、瓦師、鞘師、石切が並んでいる。

 ここでは、150以上の当時の職業が並べられていながら、「根付師」という職業が掲載されていないことに注意したい。当時の根付師は、刀鍛冶や絵師、仏師、蒔絵師、面師、建築工芸師が副業として根付を作製したといわれている。それらに関連する職業は、刀鍛冶、人形、彫物、蒔絵師、鼈甲、ふくろ物、らんま師、きせるとして掲載されている。

 この番付表から考えられるのは、江戸時代では"根付師"として根付製作を専門に家業にする人は居なかったか、または、居たとしても番付表で引用されるほど大勢は居なかったのではないだろうか。職業としてランキングに掲載されるほどに根付師は人々からはあまり尊敬は受けていなかったのだろうか。この考察は後の番付表で詳しく述べたい。




『諸職人大番付』(発行年:不明(江戸時代後期))

 これも140種類以上の職人をランキングしている。江戸は職人の町であったといわれる。この番付表も江戸で作製されたものと思われる。ランキングのトップは、番匠大工、刀鍛冶であり、以下は壁塗左官、たたみ師、乗物屋、橋大工、立具師、船大工、石工、染物師、桶大工、かざり師、指物師、鋳物師、かご細工、ふいご師が続いている。

 根付師に相当する職業は「ねつけほり」として、辛うじてランキングの最後から数えて最下段の12番目に掲載されている。根付師は、意外にも、格式や重要性の低い職人として位置づけられていた。ここでも「ねつけほり」であって「根付師」ではないことに注意したい。(下図参照)

 一方、根付や提物に関連する他の職人としては、袋物師(前頭の2段目に掲載されランクが高い)、木像彫物(前頭の3段目)、蒔絵師(同)が掲載されているが、どれも「ねつけほり」よりもランクが高い。さらに驚くべきことに、ねつけほりは、日用雑貨用品の製作者である篭細工や釘鍛冶、毛抜き師、ぞうりや、うどん、こんぶやよりもずっと低いランクに置かれているのだ。番付表とは当時の一般庶民の共通認識を表にまとめたものである。もし庶民感情と異なるものを出版したならば、直ちにクレームが寄せられ、売れ行きが激減したに違いない。その意味で番付のランキングには、ある程度の信頼が置けると考えている。

 このことからしても、一般庶民が考える江戸時代の根付職人は、相対的に地位が低かったか、または、他の職人が副業として行っており、社会的に認知されるほど専業根付師の職業人口は居なかったのではないだろうか。ちなみに、上田令吉は、本業と副業の関係について、次のように書いている。

"此の時代に於いては、絵師、佛師、蒔絵師、面師、金工、欄間師、鋳物師などの美術工芸家が、夫々自分の専門である佛師、面師などの正業以外に、副業又は余技といった風に根付の製作に精進したものであるが、その流行に連れて副業的製作はついに本業的となり、殆ど専門に根付の製作に没頭するもの出来、暫くして美術工芸的の根付は盛んに世間に現れるようになった。"(p.15)

"宝暦の頃から武士階級を除く他の階級の間では、煙草入れを使用することが大いに流行した関係上、根付の需要が急に増加し、根付製作の専門家が現れるようになった。然し、余技的根付製作のその後長く続いたが、何分美術工芸に相当の理解を有する有識者が、その人の本業の他に余技とし、又趣味として多数に相当立派な根付を作り、又之を同時に専門の根付師が、其の製作に没頭する譯であるから、当時の根付は純然なる職人の手になる他の工芸品とは大にその趣を異にしているのであった。"(p.48)



   
『諸職人大番付』 東京都立中央図書館蔵
(”ねつけほり”は左の列の5段目(最下段)の中央に記載されている。右はその拡大図。)



”根付は江戸庶民の文化だ”は嘘?!

 ここで面白い試算をしたい。上田令吉の根付師人名録には、約1300名の根付師が掲載されている。中堅以上の有名な根付師ばかりが掲載されている。人名録には1781年の装劍奇賞掲載から、明治・大正期の藻スクールまでの根付師が掲載されているから、網羅している年代は約150年間と言える。根付師の平均寿命を65歳と見積もって15歳から本格的に根付を作り始めたと想定すれば、生涯における実働年数は50年間。すなわち、上田令吉は3世代に渡る根付師を掲載していることになり、ある一時期に同時に活動していた根付師は1300人を3世代で除した数の433人ということになる。問題は、この人数でどれだけの根付需要を賄うことができたかである。

 江戸末期の日本の人口は約3200万人であった。そのうち男性が半数として単純計算すると、根付師一人当たり3.7万人分の根付を製作しなければならないこととなる。もちろん国民全員が根付を使用していたわけではないが、一つの根付製作に2,3週間を要することに鑑みれば、有名根付師が全ての根付需要を賄いきることは無理だ。

 ということは、当時の一般庶民は、2,3流以下の”ねつけほり”の根付か又は貝類や木片、石ころなどの材料を用いた原始的な根付を代替的に使用していたことになる。すなわち、番付表の”ねつけほり”とは、単に提物の帯にとどめるに足る簡単な庶民向け根付を製作していた職人のことを指しているのではないか。当時の一般庶民は、普及品の根付を使用していて、それを生産するねつけほり職人の地位は、決して高くは見なしていなかったのではないか。


人名録掲載の根付師は高級職人?

 逆に考えれば、上田令吉の人名録に掲載されているような根付師の根付は、江戸時代においては相当な高級品であったに違いない。現代でいえば、ブレゲの高級時計やルイヴィトンのバック、エルメスのスカーフに相当する高級品である。月に2,3個のペースでしか完成しないのであれば、現代根付と同様、その値段はかなり高額となる。購入することが可能な階層は、上流階級の武家か裕福な商人の一部に限られていたに違いない。しかも、高級な根付は日常生活では滅多に使用せずに、祭礼や式典などの晴れの日にのみ着用されていたとされる。これは、Albert Brockhausの1905年の著書「Netsuke」の中の記述でも説明されている。

"大名、侍、町民は、我々がカフスボタンやペンダントを持っているように多数の根付を所有していた。根付は、当時普及していた着物衣装や習慣に最も適していた。また、質の高い最も素晴らしい根付は、特別な儀式の場合だけ印籠と一緒に着用され使用された。"

 我々が普段目にする彫銘入りのキチンとした古根付は、実は江戸時代の当時でも高級品であったに違いない。一般庶民が果たして目にしていたかどうかも疑わしいくらいに高級品だった。でなければ、200年以上前の古い京都や名古屋の根付が、江戸時代を通じて現代に残されているはずはない。江戸末期においても18世紀の古い根付は珍重され、大事に取り扱われてきたのである。こう考えれば、大量の偽物根付が江戸時代から既に発生していたことは、理解できる。

 書籍によっては根付文化は江戸庶民の文化だと安易に評されているが、果たして本当だろうか。

 江戸庶民は割と単純な根付を使用していて、我々がカタログなどで目にする質の良い根付の大半は、武家か商人のみの所有物であった可能性がある。番付表に現れるように、高級な根付は既にその道の大家である彫物師や佛師達の余技で作製されたのであり、その大半は閉鎖的な個人つながりの特別注文生産であったと思われる。越前の雪齋や藤堂藩の岷江、篠山藩の内藤豊昌のように、藩お抱えのパトロンを得ていた根付師たちもいる。彼らの顧客は大名や豪商であり、一般庶民はほとんど相手にしていなかった。

 豊昌根付を例に取ると、豊昌根付1体の価格は、金貨に換算すると1両1分が通例になっていたという。また、藩主よりの特注品は、代金は約5両との記録もある。当時の下級武士年俸が約3両1分であったことに比較すれば、庶民には手の届かない高価な品物であったことが分かる。(「目の眼」No.212(1994.6)の記事『内藤豊昌と丹波の根付師たち』(渡辺正憲)より)

 もし、当時から精巧でキチンとした根付が店先で一般に陳列販売されていたのであれば、必ずや庶民の目に留まるはずであり、当然、職人番付にも”根付師”として上位ランキングに反映されていたはずである。しかし、番付表に出てくるのは、非常に地位の低い職人としての”ねつけほり”でしかなかった。”師”と称されるには、庶民からの尊敬を集めてこそのものだろう。そういう背景を良く考えてみる必要がある。根付文化は、江戸庶民の文化ではなかった可能性が高い。




『諸職初発』(発行年:不明(江戸時代後期))

 こちらも有名な職人を並べた表である。ここには「出羽式目」という名前の「根付彫」が掲載されている。残念ながら、この出羽式目とは何者なのか分からない。先の職人番付やこの諸職初発は、当時の職人が一般的にどのように呼称されていたかが分かる資料であるが、ここでも「根付師」とは呼ばずに「根付彫、ねつけぼり」としている。我々が使用している「根付師」とは、一般的には明治以降の呼び方なのであろうか。

 番付表の中では、蒔絵師鞘師、塗師、白銀師、鋳物師、彫物師、鉄砲師、畳師など、正業として一定の格式と尊敬が与えられている職人にのみが「○○師」と呼ばれている。しかし、根付に関しては、この番付表でも「根付彫」なのである。1781年の装劍奇賞に掲載された54名の最も有名な根付師は、きちんと”根付工(ネツケシ)”と呼称されているのに、なぜ番付表ではそのように呼ばれないのだろうか。やはり、根付師として専業にしていた者は少なく、副業として"彫ること"を行っていたこと。そして、有名な根付師の名前は、庶民以外の一部の人しか知り得なかったのではないだろうか。

 提物関係では、「印籠師」として「韓志和」が、「面打師」として「近衛出目」が隣り合って上位にランキングされている。韓志和とは、有名な梶川の当て字だろうか。




『當時のはやり物くらべ 大都会流行競』(発行年:不明(幕末))

 当時の江戸の流行をランキング表にまとめたものである。

 横浜の見物、亀井戸の葛餅、紺縮の紋附、紫の丸帯、女の占者、西洋の学者、天麩羅の店、下女のこそで、張替の安傘といった当時の流行が記されている。正確な年代は不明だが、横浜見物や西洋学者のことが書かれているので、開国直前の1850年代の番付表と思われる。

 提物に関しては、「殿中のきせる筒」、「偽四分一のきせる」、「珊瑚珠のねり玉」、「七度焼の煙管」、「丸角の煙草入」が当時の流行として記録されている。殿中は城内の殿中のことを指しているのか、それとも男子用の菅笠か殿中羽織を指しているのか分からない。江戸時代では武家は煙管入れは用いず、いかなる時も携帯することは絶対になかったと言われている。ひょっとしたら、幕末で風紀が乱れてきたときに、武家も煙管筒を提げるようになったという社会現象を捉えているのかもしれない。

 四分一とは、銀1に銅3の合金のことであるが、当時から偽物合金が出回っていたのであろう。七度焼とは、真鍮を錫でメッキして銀に見せかけたものである。最後の丸角(まるがく)とは、日本橋本町2丁目にあった袋物商丸角屋次郎兵衛店のことである。

 この番付では、江戸末期になっても煙草に関する装飾は多様な流行になっていた点がよく分かるが、根付については何ら言及されていない。根付に関する作者や題材について流行(はやり)といったものは、江戸時代には存在しなかったのだろうか。




『目今形勢 興廃競』(発行年:不明(明治初期))

 明治の初期に作られた番付表で、「流行の部」と「不流行の部」とに分けて文明開化前の旧弊と開花後の流行をランキングしている。世の中の激しい移り変わりを示していて面白い。

 文明開化とともに廃れたものとして、鎧兜、伊達道具、鼈甲類、武家の道具屋、碁会所、弓矢、印籠が並んでいる。

 一方、文明開化の流行の部には、皇國学、蒸気の乗合、牛肉の切売、西洋の原書、懐中時計、象牙細工鍍銀煙管(メッキの煙管)といったものが並んでいる。

 印籠は、文明開化と共に廃れつつあるものとして、明治初期には既に社会的な認知をうけていた。根付は、廃れつつある印籠に運命を共にした。明治時代では、その根付に代わり、象牙細工が殖産工業的に奨励生産し、輸出された。番付表は、これらの状況を明快に裏付けているのではないだろうか。




『現今見た處照分』(発行年:不明(明治初期))

 先に紹介した「日本国中見渡勘定 七分三分の見立て」の明治版である。正確な発行年月日は分からないが、明治10年から20年くらいのものと思われる。様々な物の割合が示されていて面白いが、特に興味を持ったのが「洋服三厘 和服九分七厘」と記述されている服装の割合である。

 文明開化とともに洋服文化が突然流入したことが原因で根付が衰退した、とする説が広く信じられている。しかし、この番付が示すとおり、明治に入っても100人のうち97人はまだ和装だった。また、明治時代の中・後期に日本中を観光旅行したイギリス人やフランス人の写真集がいくつか出版されているが、その写真を見る限りでは、当時の一般庶民はまだ和装であった。帯を着て煙草入れや袋物を提げていたのである。洋服文化による衰退説とこの状況とのギャップは、一体どう考えたらよいのだろうか。(当時の写真集については、参考文献を参照のこと。)

 既に説明したように、有名根付師の得意先は、上流階級の武家や裕福な商人であった。実は、明治初期には、そんな階層の彼らが真っ先に洋装文化に染まっていったのである。当時の富豪であった岩崎弥太郎や三井家、住友家は、開国による商機を掴むため、真っ先に洋装文化を取り入れたに違いない。また、鹿鳴館に象徴されるように、政府高官も西洋文化を半ば強制的に上流階級に注入したに違いない。

 よって、明治・大正時代に97人が未だ和装を維持していたとしても、それは一般庶民のことであり、有名根付師のパトロンたる残りの3人がさっさと洋装に切り替えてしまったため、彼らが根付に大金を費やすことがなくなったと考えることが適当だ。それが、結果として、高度な根付製作の伝統を衰退させることになったのであろう。




まとめ

江戸時代は「根付師」という呼称は一般には用いられず、単に彫物師や象牙角彫、”ねつけほり”と称されていた。”根付師”としてのまとまった単位の職人群は、江戸庶民の間ではあまり認知されていなかった可能性がある。(せいぜい友親、龍珪、忠利くらいが有名人だった。)

根付の専業職人は少なく、人形師、彫物師、蒔絵師、欄間師といった職人の余技の産物であった。上田令吉らが指摘している、この根付師副業説は、番付表を通して裏付けられる。

庶民向けの安価で単純な根付の製作者は、職人番付の中で”ねつけほり”と称され、一般庶民からは地位や格式の低い職人と見られていた可能性がある。

一方、人名録に掲載されるレベルの有名根付師の根付は、当時は上流階級の武家や裕福な商人を対象とした高級品であり、一般庶民の目に触れる機会は少なかった可能性がある。だからこそ、一般庶民の番付では、根付(根付師)に関する記述が全体として少なかった。

番付から推測すると、同じ江戸時代の工芸美術である刀剣、刀装具、蒔絵、印籠と比較して、根付は重要な美術品としての扱いを受けていなかった。高級根付に接する機会の少なかった江戸庶民は、根付というものを名物として扱っていなかった可能性がある。すなわち、根付文化は、江戸庶民の文化ではなかった可能性が高い。

結果、文明開化後も根付が軽んじられ、大量に海外流出した遠因となった可能性がある。和装文化は明治末期でも一般庶民の間で存続していた。しかし、明治初期の上流階層の洋装文化の導入は、もの凄い勢いで、高級根付の市場を衰退させた

江戸時代の根付師の姿を知るためには、更なる番付表の調査研究が望まれる。


むすび

 今回は江戸時代と明治の見立番付から当時の根付師の姿を全て拾い出してみた。350枚の番付表の全てに目を通してみたが、見落としてしまった情報があるかもしれない。また、番付表の解釈に誤りがあるかもしれない。とりあえず今回は諸氏の将来研究の一助となるべく、見出し的に情報を拾い集めてきたものである。そのようなものとして取り扱われることを希望する。



(参考文献)
 ・「大江戸番付づくし」、石川英輔、実業之日本社、2001年
 ・「番付集成」、林英夫・芳賀登、人文社・柏書房、昭和48年

 ・「ボンジュール ジャポン フランス青年が活写した1882年」、ウーグ・クラフト、後藤和雄編、朝日新聞社、1998年
 ・「ゴードン・スミスのニッポン仰天日記」、荒俣宏(翻訳・解説)、小学館、1993年
 ・「モースの見た日本(写真編)」、小学館、1983年
 ・「モースの見た日本(日本民具編)」、小学館、1988年

          





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