”根付師といえば友忠、友忠といえば牛” と言われる。
それくらいに友忠が彫刻した臥せた牛の根付(臥牛(がぎゅう)根付)は非常に有名である。
日本史上初の根付師人名録である稲葉通龍新右衛門著『装剣奇賞』(天明元年(1781年))にも、友忠は「京師人 和泉屋七右衛門と称す、牛を彫事妙に至れり、関東にて特に賞玩す」と紹介されている。しかし、友忠の存命中でも牛根付の偽造が多かったようで、「故に偽造の多き事、百をもってかぞふべし、其物は格別手際なり」と注意が書かれている。
上田令吉著「根附の研究」でも、「和泉屋七右衛門と称し天明前の人にて京都に住す、木又は象牙を以て牛を彫るに妙を得友忠の牛を称せられ当時巳に偽品多かりき、彫法緻密にして活気あり一見して真偽を判別する事を得と伝へられる」というように、装剣奇賞の記述をなぞるように友忠を記している。
友忠以外にも臥牛を彫刻した根付師は存在する。装剣奇賞に掲載された中では、友忠の甥と言われる岡友、正直、我楽らが素晴らしい臥牛根付を残している。さらに、岡友の弟子にあたる岡言らも臥牛根付を残している。彼らは全員が、京都又は大阪の根付師である。
誰が最初に臥牛根付を彫り始めたのは定かでない。しかし、京都スクール(派)又は大阪スクールが臥牛根付の発祥の地だと定義しても差し支えはなさそうである。臥牛根付を数多く残している根付師が特に京都スクールに集中していることを考えれば、京都の根付師達が、臥牛根付に関する手がかりを持つ気がする。
では、なぜ京都で臥牛根付が大々的に製作されるようになったのであろうか。臥牛の起源は何であろうか。友忠と臥牛に何か接点はあったのだろうか。そしてなぜ友忠は関東(江戸)で愛され、また偽造根付が異常に多いのだろうか。
今回は、根付コレクターであれば誰でもが抱くだろうこの疑問、ともすればあまりにも初歩で素通りしてしまいそうな疑問を解き明かしたい。解き明かしは2回(前編・後編)に分けて展開する。
といっても、特段、友忠に関する資料に新発見があったわけではない。調査の仕方は、当時の姿を地道に具体化するのみである。当時の一般庶民の生活を具体的に探求し、情景を目に浮かべてみる。たった2〜300年前の江戸時代でも、日常生活は日々淡々と営まれていた。それは牧歌的で、理想郷のような空想世界ではなく、至極現実的な社会だった。空想するだけで根付鑑賞の楽しみを終わらせてしまっては面白くない。真の姿を求めていく。そんな解題作業を追求したい。
1.江戸時代の"牛"の存在
我々は"友忠の牛"と聞いてどのような牛を想像するだろうか。当時の根付師達は一体どのような牛を眺めていたのだろうか。まず、最初に、江戸時代に生きていた実際の牛のイメージを掴んでみよう。
牛の産地と京都
日本には古くから牛が生息していた。といっても、現代のような外来のホルスタイン種でもジャージー種でもない。純粋な日本の和牛が江戸時代には存在し、根付師達によって目撃されていた。
鎌倉末期(1300年頃)に河東牧童寧直麿によって書かれた『国牛十図』という国産の牛の図説があるが、これには牛車を牽引する良和牛の産地として10カ国を挙げられている。これには、牛は馬の賢さに比べて劣るところがあるが、貴族から庶民まで役に立つ動物で、五畿七道(全国)から京洛(都)へ集められていることが書かれている。当時、牛はとても身近な動物だったのだ。
『国牛十図』によると、牛の肉付や骨格から判別できる産出地域は10あり、具体的には、筑紫牛(福岡県)、御厨牛(長崎県)、淡路牛(兵庫県)、但馬牛(兵庫県)、丹波牛(京都府・兵庫県)、大和牛(奈良県)、河内牛(大阪府)、遠江牛(静岡県)、越前牛(福井県)、越後牛(新潟県)といった牛について、それぞれの特徴が記載されている。
また、元禄13年(1700)の『駿牛絵詞』に書かれている逸物の牛の産地は、筑紫牛、越前牛、丹波牛(京都府・兵庫県)、大和牛、御厨牛、河内牛、出雲牛(島根県)、相良牛(遠江牛、静岡県)、周防牛(山口県)となっている。
ここでは、この『国牛十図』や『駿牛絵詞』には、関東以北に牛の名産地が言及されていない事に注目したい。
昔の日本では、牛の名産地は西国に、馬の名産地は東国に産地が分化していたのである。これは、東北地方では冬が長く農耕適期が短いため、耕作のスピードが速いことが要求されたことや、馬の厩肥が発酵によって地熱を高める効果があるのに対して、牛の排泄物は「冷肥」で、冷地には向いていないからであるとの説がある。一方、西国では牛の名産地が点在し、牛は普通に存在した動物であった。(http://group.lin.go.jp/data/zookan/kototen/nikuusi/n421_3.htm)
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岡言 臥牛 5.6cm 18世紀末〜19世紀初頭 京都 |
また、西国であっても、元禄・享保年間(17世紀〜18世紀)以降になると、近畿・瀬戸内の大都市での牛の使役地帯と、中国山地の生産地帯との地域分化が進んでいたと言われる。昔は、京都自体は牛の有力な産地ではなく、西国から様々な優秀な牛たちが集められていたようだ。
このように京都には、使役のために数多くの牛が西国から流入していたと思われ、自給は農家に限られていたと思われる。江戸時代には既に大きな牛馬市場が大阪に開設されていた。地理的に考えれば、主に京都に近い中国地方の産地から大阪天王寺などの牛市場を通して、牛が京都に流入していたと考えられる。
友忠の牛を想像する場合、我々はどうしても、牧歌的な農村風景の中に牛を置きがちではないだろうか。牛は農村で悠々と生まれ育ち、農耕で使われた、と想像するかもしれない。しかし、実際はちょっと違う。根付師は、絵師や仏師、蒔絵師、面師、建築工芸師が副業として根付を作っていたと言われる。京都の町人街に居住してと推測される。これらの根付師が日常的に眺めていた牛は、牧歌的な農村の牛よりも、むしろ西国から連れてこられ、都市部の街道や工事現場などで一生懸命に働く牛達であった可能性が高い。
江戸時代の牛の利用
江戸時代の牛を理解するためには『岡山県畜産史』(昭和55年(1980年)3月発行)がとても詳しい。
以下、本史も基にして、江戸時代の京都の根付師が眺めたであろう牛の真の姿に迫ることとする。
古代日本では牛は食用に供されていたようだが、奈良朝時代に天武天皇が深く仏教に帰依することによって、仏教の殺生禁断の教えに基づき、詔勅「牛馬犬猿鶏之宍を食うこと莫れ」との肉食禁止令を布告した。これにより、以後、牛は専ら使役牛として存在することになった。(しかし、宮中においては牛乳や乳製品を食用、薬用に供するために牛を飼っていたようである。)
すなわち、農耕や荷役手段のための使役用として用いるほか、農家は牛を飼い「肥」(堆きゅう肥)を得て農耕に利用していた。平安朝時代では、既に牛車が盛んに使用されていた。牛は貴族のスーパーカーだったのだ。時代を下り戦国時代には大規模な土木工事が行われるようになり、運搬用の使役が増えた。実際、豊臣秀吉が大阪城を築城した際には、近隣の但馬牛などが大いに徴発されたそうである。牛はブルドーザーだったのだ。
人間は当時、牛と一緒に荷を運び、田畑を耕し、築城を行っていた。人間の生活は、牛の労働力に助けられていたのである。このことより、現代の太った肉付きの良い食用牛を単純にイメージしてしまっては、友忠の牛は正確には捉えられない。また、牛は人間に身近な動物であった。どこかしら人間からの距離感を感じさせる仙人や空想上の動物の根付とは異なり、牛根付は人間と一体感・親近感のある根付に仕上げなければならなかったはずだ。
さらに、牛は祭礼用にも用いられた。京都の上賀茂神社・下鴨神社の「葵祭」は、 平安時代から盛大に行われ、古来「まつり」と言えば、この葵祭を指したそうである。御所を出発点する500名ほどの衣冠束帯姿の行列は、牛車2台、牛4頭などが従われ、洛中を練り歩くそうである。牛は祭礼の登場者として、庶民から歓迎される愛らしいキャラクターであったに違いない。
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岡言 臥牛 (底面) |
当時の牛の飼われ方
古代では、牛は国家や貴族の所有に属していたが、次第に富裕な農民や地方豪族が所有するようになり、江戸時代では、農民が自弁で購入した牛(自分牛)がほとんどであったそうである。牛は駄載利用のため、雌牛より雄牛が多く飼われ、この傾向は明治中期まで続いたとされる。
当時の牛の価格であるが、元文(1736−40年)から寛政(1789−1800年)の頃の記録として、備中の新見市場における、ある問屋の牛買入れの覚書きから換算して判明している。当時の牡牛の価格は、繁殖用の基礎牝牛の価格は成牛約500匁ぐらいと考えられ、京都の平均米価を1石約70匁とすれば、牝牛1頭はほぼ米7石に相当したことになるとされる。昔から「牛1頭米10俵,牛10頭家1軒」ということで、牛は農家にとって大切な財産であったらしい。
その飼われ方は、中世以前に広く行われていた野外での放牧は後退しており、牛舎(きゅう舎)での舎飼いが多かったようである。白昼であっても、農家の土間に一歩足を踏み入れると、家の中は暗くて暗い中にゴソゴソと牛がうごめき、牛の眼球だけがギョロリと光る光景があったものと思われる。
その土間と連結した居間には囲炉裏があり、寒い冬の間は火を絶やすことなく牛は人とともに暖をとった。正月になると、雑煮を人と共に祝うといった具合で、牛は家族の一員として愛育されていた。この舎飼いにおける牛の飼育管理は、婦女子の担当であったと言われる。これらのことから、牛は農家にとって一財産であり、家族全員で愛育されていた大切な牛が根付の意匠として考案された、との想像は難くない。財力のある農民は、我が家の牛に似せた根付を高価な象牙を用いて特別注文していた可能性がある。
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岡言 臥牛 (右側面) |
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岡言 臥牛 (上面) |
牛の性質と体格
動物としての牛の性質の特徴は、
・力が強いので重荷を運ぶのに適していること
・性質が忍耐強いので長い仕事に耐えること
・粗悪な飼料をもって満足すること
・病気にかかることの少ないこと
が挙げられている。一方、欠点として、馬と比較して、仕事が遅いことや、仕事になかなか馴れにくいことが挙げられる。
この性質に基づけば、馬根付は俊敏なスタイルで理知的な顔が彫られているべきだが、一方、牛根付は、力強いスタイルで安定感があり、忍耐強く、従順な顔つきであることが彫法上の旨とされることとなる。獅子根付のように上を向いて咆吼している姿はあり得ない。また、虎根付のように他を威圧していることもあり得ない。従順な顔つきを表現するために入れる眼の象嵌には、根付師は細心の注意を払っていたはずである。
当時は、痩せていても、体型はがっしりしている和牛が多かったと推測される。使役によって和牛の体格はつくられ、駄載運搬に使われた牛は必然的に背・腰が丈夫になり、肢蹄が強く、安定感のある体格となっていたに違いない。特に、使役用の牛は、前半身は十分に発達し、後半身の発達が劣る比較的脚の長い体格となったと言われる。
友忠が見た牛は小型でがっしり型
ということで、もし「友忠」の銘のある臥牛根付が、現代の食用牛のような太った体型をしていたら、それは要注意である。後世の根付師が、食用を始めた明治期以降の牛を写した可能性がある。
江戸期の石橋孫右衛門の『相牛秘伝』には、「およそ背の高さ3尺2寸(約100cm)内外をよしとす」と当時の牛の平均的な体高について記述されている。江戸時代の牛は、現在のもの(ホルスタイン種で140〜170cm程度)と比較すると小さかったようである。よって、友忠が根付に写した牛は、とても小柄であったはずである。
実際、レイモンド・ブッシェルが著書『Collectors' Netsuke』に唯一写真で掲載した友忠の成牛と思われる臥牛は、頭と体のプロポーションから推測して小柄であったことが分かる。このように、牛のプロポーション(体型)は真贋判定上のポイントになるのではないだろうか。(ブッシェルの友忠の写真は、ロサンジェルス・カウンティ美術館でも電子的に見ることができる。)
このような臥牛根付の観察ポイントは後でまとめたい。
2.北野天満宮の臥牛
それでは、なぜ、友忠は臥牛を彫ったのだろうか。
既に述べたように、江戸時代の牛の姿は、おぼろげながらつかめた。たった2、300年前の江戸時代でも、日常生活は日々淡々と営まれていた。牧歌的な牛ではなく、現実の人間社会の中で牛はともに逞しく生きていた。しかし、日常生活の中のそんな牛を観察して根付にデザインした、という単純な理由だけでは、説得力に欠ける。友忠の牛の起源は、別のところにある。
これから解題の作業は核心に触れていく。ということで、今回は京都・北野天満宮へ取材旅行の旅に出かけた。京都スクールの根付は、やはり実際に現地に赴かないと理解は進まない。
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北野天満宮の入り口 |
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北野天満宮本殿
(天満宮のシンボルの梅が満開の季節) |
北野天満宮の起源は、御祭神・菅原道真公をお祀りするため、1000年以上前に村上天皇天暦元年(西暦947年)6月9日に鎮座された。現在の社殿は、慶長12年豊臣秀頼公の造営によるものである。京都の西北に位置し、京都駅から市バスで30分のところに位置する。都の中心から近すぎず遠すぎずの距離にある。北野天満宮は、豊臣秀吉が天正15年(1587年)10月に開催した大茶会「北野大茶会」の会場にもなったところである。境内には北野大茶会跡という記念の石碑が立てられている。
学問の神様である菅原道真公を祀ってある北野天満宮を訪れた人は多いと思う。訪れた人は誰もが気が付くだろうが、北野天満宮には参道に沿って数多くの臥牛の像が置いてある。ざっと数えたところ、10頭以上の像が祀られている。天満宮と名の付く日本各地の神社には、同じような牛の像が置かれていることが多い。神牛は、梅とともに天満宮のシンボルなのである。
この理由は諸説ある。菅原道真公は、京の都を追われ大宰府に流された直後に亡くなったが、公の遺体を牛車に乗せて運んでいたところ、牛車を引いていた牛が急に止まって動かなくなり、その場に座り込んでしまったという。それが公の天啓ということになり、その場所に道真公の遺体を埋葬し、祀った。その地が九州の大宰府天満宮であり、道ばたで臥せた牛が道真公の使いとして天満宮のシンボルとなったという説。
また、道真公の生年が承和十二年六月二十五日であり、この日は乙丑(きのとうし)に当たるからという説、道真公が亡くなられたのが丑の年、丑の日、丑の刻というところから牛が奉納されたという説がある。いや、道真公との関係は後世のこじつけであるという説もある。そもそも、古来から農耕の際、天神さまに雨乞いの祭りをするときには、牛馬を生け贄として捧げるものであり、犠牲の動物だったから神社に因縁が深いとする主張もある。
(http://www.kcn.ne.jp/~tkia/td/tenjin-01.html)
いずれにしても、天満宮は牛との深い関係があり、そこには数多くの臥牛の像が置かれている。
友忠の牛は北野天満宮が起源?
北野天満宮にはかなり古い時代から臥牛像(神牛)が置かれていた。
まず、銘文で確認できる一番古い臥牛像は、文政二年(1819年)に奉納された金属製の像である。牛のお尻の部分に”京三条釜庄住”の”御鋳物師・藤原政門作”と銘が彫られている。非常にしっかりした姿の臥牛像であり、当時の鋳物師の技術の高さをうかがい知ることができる。残りの臥牛像には明治時代の銘が入れられている物が多い。境内で確認できた12体の臥牛像のうち、鋳物でできたものは3体、残りは石像であった。これらの像は様々な信者から奉納されたようである。
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銘文で確認できる最も古い臥牛像 |
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参拝客が撫で回しているところ |
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”文政二年巳卯九月”
の銘が読める |
さらに詳しい情報について社務所の職員に尋ねてみた。北野天満宮内の一番古い像は、牛舎に祭られている漬物石程度の大きさの臥牛像ではないかとのこと。残念ながら、いつの年代のものなのか正確な記録は残されていない。
写真の通り、長年撫でられてきたことが原因で顔や脚が判別できないほどにすり減っている。長い年月の間の手擦れと、かけらを持ち帰ってしまう信者がいるためにこのような形になったそうである。まるで使いこなれた古根付の慣れのようで面白い。ちなみに、九州の太宰府天満宮にも臥牛像があり、こちらも古い。文化2年(1805年)に奉納されており、今では福岡県の指定文化財となっているそうである。
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北野天満宮内で最も古い牛舎の像 |
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臥牛像(原形をとどめないほどにすり減っている) |
ということで、北野天満宮は、友忠が生きていた時代には既に建立されていた。そして、友忠の生存中には既に牛が天満宮のシンボルとして扱われており、臥牛像も既に置かれていた可能性が大きい。
さらに、京都の代表的な秋祭として知られる北野天満宮の「ずいき祭」では、牛に曳かれた御羽車が祭礼の行列が巡行している。毎年10月に行われるずいき祭は、1600年頃に北野天満宮本社が造営された際、氏子がこれを祝って新鮮な農作物で御輿を作って神前に奉納したのが起源だと言われる。ということは、京都の根付師である友忠が、この臥牛像や祭りの牛車を見ていないはずはない、ということになる。
根付師達が根付を彫る際には、常に意匠に深い意味を求める。一般的にそれぞれの根付は、奥深い題材をデザイン中に内包している。農業繁栄の守り神として、または、道真公の使徒として面白い物語を持つ牛は、根付の意匠として最適であった。もともと牛は、干支のひとつである。動物ものを得意とする京都派の友忠が見逃すはずはないのである。
本来、牛は根付の意匠としては難しい対象である。デザインの中で、牛の角、四肢、尻尾の出っ張りの処理が上手く行われなければ、実用上難が生じる。そんな中、友忠は天満宮境内に横たわる臥牛を"発見"したに違いない。境内の臥牛は、足が折り畳まれており、尻尾も出っ張りがないように体に張り付けられている。根付のデザインに最適だ。角は出っ張りが残っているが、工夫次第で巧くデザインを処理できそうだ。北野天満宮で友忠は、
" 臥牛は根付の意匠として使える "
と思ったはずだ。北野天満宮の臥牛に、友忠臥牛の起源を見いだすことはできないだろうか。
写真で分かるとおり、北野天満宮の臥牛像と友忠の臥牛のデザインは、全く同一である。伏せた格好で前足と後ろ足は相互に折り畳まれている。首はわずかに左右に傾けられている。鼻には鼻輪が付けられて手綱が結ばれている。手綱は背中を這うように置かれている。尻尾は首を曲げた側の後ろ足にへばりついてデザインされている。
友忠の臥牛根付には、親子牛の根付も存在する。親子で臥牛となる像は、実は北野天満宮内にもあるのだ。(臥牛像のサムネイル写真の左上の像がそれである)このように、友忠が北野天満宮の臥牛像を見て臥牛根付を考案した、とする想像があっても許されると思われる。
なお、余談になるが、日本各地には牛が臥せた姿をみたてた「臥牛石(がぎゅういし)」というものがある。古来から日本国内に点在しており、友忠が生きた時代では既に世の中で良く知られていた。今でも、京都妙蓮寺の石庭(秀吉公によって聚楽第から運ばれた臥牛石)や江ノ島の辺津宮、宇和島市の天赦公園、群馬県富士見村の珊瑚寺にも、この福石は見られる。友忠が、天満宮の牛とともに、この臥牛石を意識の中に入れていた可能性も十分にある。臥牛石については更なる調査が必要であると思われる。
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