横浜の偉人伝①苅部清兵衛
保土ヶ谷宿の散策

2025年4月15日

緑風荘主催の「横浜の偉人伝①苅部清兵衛」で、天王町駅から保土ヶ谷駅まで、保土ヶ谷宿の関連施設を見て廻りました。
天王町駅前から出発です。
橘樹神社に立ち寄ります。 本殿の裏手にある庚申塔のうち、真ん中にあるものが「寛文九年」の横浜市内の最古の青面金剛像だ7そうです。
水道橋から見た今井川と帷子川の合流点です。苅部清兵衛悦甫の陣頭指揮で、今井川の川筋が変更され、 帷子川にここで合流しました。
神明社にちょっと立ち寄りました。
天徳院前あたりからみた旧今井川の川筋跡です。
日蓮宗の大蓮寺です。日蓮上人が21歳ころ、幽学途上に民家に宿泊し、 玩具の中に釈迦牟尼物を見つけ、過ちを諭したことから、反省した家主が自宅を法華堂に 海舟したのが縁起とのこと。
大蓮寺本堂前には、徳川家康側室の「お万の方」お手植えの柘榴の木があります。ただし2代目です。
中ノ橋跡の碑です。東海道を通すため川の流れを強引に変え、街道に架けた橋が中の橋です。 川筋の急変で氾濫が繰り返されましたが、苅部清兵衛悦甫の才覚で、その後250年後に今井川の川筋を変えて修復されました。
八幡橋まで出て、苅部清兵衛悦甫が開削した今井川(掘割)を見ます。 まっすぐ作られていることが分かります。
いつもの金沢横丁で休憩です。道案内の道標4基が立っています。
本陣跡です。10代苅部清兵衛悦甫は、横浜町総年寄に任ぜられました。
上方見附・一里塚跡です。いろいろ復元されています。
外川神社です。幕末の頃に、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請し、祀ったのが始まりで、 外川仙人大権現と称していたが、明治2年(1869年)の神仏分離令により、日本武尊を祭神と定め、 社名を外川神社と改めているとのこと。
苅部家の菩提寺・大仙寺です。保土ヶ谷宿内で最も古い寺です。 東海道の道中安全祈願の場所でもありました。
本堂裏手ににある「新玉屋」という米屋の墓地には、女中「おでん」 の墓があります。米俵3俵を持ちあがて力持ちの因んで、墓石は俵型になっています。
墓地内にある、軽部家の墓地で、歴代の苅部家当主の墓が並んでいます。
その後、保土ヶ谷駅まで出て帰りました。 。
―以上―