明治から昭和初期の川和をひも解く
非公開の中山恒三郎家見学参加

2025年4月20日

横浜シティガイド協会主催の「明治から昭和初期の川和をひも解く 非公開の中山恒三郎家見学」に参加して 都筑ふれあいの丘駅から川和町駅まで歩きました。
都筑ふれあいの丘駅から出発です。
駅前から遊歩道(自転車も含む)を歩きます。八重桜がきれいでした。
ゆうばえの道を進みます。
川和富士公園です。もともと川和村と池辺村境の争いの終結を祈念して築かれた 富士山信仰のための富士塚を、港北ニュータウン計画により、移されて造られました。遠く、ランドマークも 見渡せます。
都田公園です。横浜市水道局の上水道施設である港北配水池の上部を利用して 整備された公園で、野球やサッカーグランド、 テニスコート等があります。レストハウスで休憩しました。
月出松公園です。一帯の台地上は加賀原遺跡と呼ばれ、縄文時代中期の 集落跡を中心とした遺構や土器が発掘されました。現在は埋め戻されて公園になっています。
貝の坂旧道を通ります。 中原街道と大山街道に挟まれた日野往還に川和行政府が置かれ、能見堂から中山恒三郎、 旧中山浩二郎邸の前に出る約200mの山越え道でした。開港後は、横浜港に生糸を運ぶ重要な道でした。 明治29年に改修されるまでは貝の坂旧街道が日野往還の一部でした。
中山家恒三郎家を見学します。川和の豪商「中山家恒三郎商店は、 酒問屋、煙草や塩の販売、醤油製造、生糸製糸場などの多くの商売を営んでいました。また「松林甫」という 菊園も営んでいました。
書院は、本邸(主屋、現存せず)に付随する接客施設として建てられました。
書院内では、当時の写真、取り扱っていた大関・白鹿などの酒造メーカーの徳利、 そして栽培していた菊の資料(「男山」3代目恒三郎の代表作)などが展示されていました。
恒三郎商店の店蔵(本店)です。主に酒卸売りを取り扱っていました。
醤油のもととなる諸味を保存するための諸味蔵です。現在は、各種遺産の 貯蔵と整理に使われています。
麹室です。原料を収めた麹蓋と呼ばれる木箱を積み上げて 醤油麹を作ります。内部は温湿度を一定に保つための工夫がされていたとのこと。
山恒三郎家の庭園と築山は「松林圃」と称され、約5千坪を有し、 「川和の菊」の中心地でした。品種改良と新種の育成に努めていて、栽培された菊は主に中菊(正菊、江戸菊とも)でした。 また当時、一帯は各所に多くの神様を祭祀していましたが、 周辺一帯を整備するにあたり、現在は松林社として合祀しています。
都筑区唯一の日蓮宗寺院・妙蓮寺です。明治12年川和に群役所が移転した時の 仮長庁舎になりました。
マンションの一角にあるヨコハマタケとその碑がありました。 1912年(明治45年)に西区の西戸部町池の坂で発見され、牧野富太郎により新種として発表されたものです。
首都ワシントンポトマック河畔の桜から里帰りした桜の穂木を採って成長したシドモア桜 がここ駅前にもありました。一帯には菜の花が植えられていて、少し前には黄色の菜の花とのコントラストが 素晴らしかったとのこと。道路をまたいた反対側には、菜の花の中に八重桜が咲いていました。
川和町駅から帰りました。当日は見えませんでしたが、富士山が見える地下鉄の駅だそうです。
センター南駅を経由して帰りました。 。
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