場を変えて、道場。
いつもは兵の、はたまた自己の訓練を行う者が常連であるこの場所に彼女はいた。
カスミ。それが彼女の名。
はぁ、と何度繰り返したかわからないため息を今一度吐く彼女の表情は、暗かった。
今しがた兵の教練を終えたばかりの彼女は、自身の部屋へ帰り行く。
部屋のドアを開けたところで、ため息。
空気の入れ替えをするために窓を開けて、ため息。
机の上に置いてあったいくつかのチョコを見て、また。
こんなことではいけないと思いつつも、胸の奥からにじみ出る何かがため息となって外に出てしまう。
机には普段世話になっている人へのお礼の印として、簡素ではあるが手作りのチョコが並べられていた。
ただひとつ、他のものとは明らかに違う立派なものもあったのだが、彼女はそれ以外のチョコを手にとって再び道場へと赴いた。
「サスケ、はいこれ」
「……!!」
サスケと呼ばれた少年忍者はカスミの手の内にあるものと彼女の顔を交互に見合わせ、ぱっと顔を輝かせた。
「…ふ、ふん!!別にわざわざ用意してくれなくたってよかったのにさ」
ただそれはごく一瞬のことで、表情をぶっきらぼうなものに変えて、こう言った。
それを聞いた壮年の忍者、モンドがサスケの頭に手を乗せていつものようにからかう。
「はっはっは。嬉しいときは嬉しいと素直に言ったほうが、相手にもその気持ちが伝わるぞ」
「なっ!?だ、だれが嬉しがってんだよ!!」
言うが早いか、ぱっとその姿を消す少年忍者。
事の顛末をよく理解していないらしいカスミに、モンドは彼もそういう年頃なのだと告げていた。
他にも幾人かにチョコを手渡し、そして最後の一個を今、渡し終えた。
いや、実際には最後ではない。まだ一つ、部屋に残っていた。
先ほどまで渡していたものとは違い、その一個には特別な感情が盛り込まれている。
しかし、その感情を向けた本人に渡すことは叶わないだろう。
渡そうと思ってもきっと自分は緊張してまともに話すことさえできないだろうし、なにより自分のこの気持ちは彼にとって迷惑だろうと思っていたから。
その場で壁に寄りかかって何度かため息をついていると、奇怪な衣装を纏った男(?)がカスミを見て向かってくる。
「ご機嫌麗しゅう。紅の君よ」
「あ、どうも……」
彼、ヴァンサンの特徴ある言い回しに苦笑しつつ、カスミは会釈した。
「おぉ、日頃から清廉さを漂わせるあなたがそのような表情では、わたしも心苦しくなってしまう。どうかなされたのですか?」
「あ、いえ……何でもないんです。ただ、ちょっと疲れてしまって」
「そうですか、それならよいのですが…そうだ、本日が何の日か、知っておいでですか?」
「はぁ、ばれんたいんでー、ですよね」
たどたどしい言い方で返答するカスミ。あまり言い馴れてはいないようだ。
「そう、戦争中のここも一斉に活気づく素晴らしい日です。あなたはもう、誰かにチョコはお渡ししたのですか?」
「え?まぁ、一応は」
「それはいいことです。ではランゼット殿もさぞかし喜ばれていることでしょう」
急に自分の想い人の名が出たことで、カスミはその表情を強張らせた。ヴァンサンもそれを見てとって、慌てて謝罪の意を述べる。
「わたしとしたことが、これはとんだ非礼を…」
「いえ……」
俯き加減のカスミ。そんな彼女を慈しむように、ヴァンサンは再度口を開いた。
「再度非礼を承知で伺いますが…彼に、チョコは渡さないのですか?」
「………はい」
「なぜです?レディの前でこう言ってしまうのは気が引けますが、あなたが彼をどれだけ強く想っているかを、わたしはあなたの心の友としてよく判っているつもりです」
その言葉は、彼らしからぬ穏やかな口調だった。
「詮索するような言い方になってしまいますが、よろしければお聞かせ願えますか…?」
表情は変えず、しかし視線を少しだけ上げてカスミはヴァンサンを見た。彼の表情は、いつに無く優しさを感じさせる。
彼の普段見ることのない優しさに触れ、カスミはゆっくりだがその問いに答え始めた。
「……最初は、渡すつもりだったんです。受け取ってもらえるかどうかを考えると不安でした。でももしかしたらあの方と、その、恋仲になれるかもしれないって、変な期待もしてしまって…」
やや自嘲気味な笑みを浮かべる。ヴァンサンはただ黙って彼女の言うことに耳を傾けていた。
「でも、次第に不安が大きくなっていって……私ったら、あの方の前だとうまく喋れなくなっちゃうんです。だからきっと、私のことだからうまく渡せるわけないって、自分で決め付けて…臆病なんです、私」
「それは恥じることではありませんよ。恋をするとは、そういうことなのです」
ヴァンサンの物言いにくすっと笑いながら、カスミはさらに続けた。
「…他にも、あの方は…私が知ることの出来ない苦しみを背負って、それでも前に歩いていらっしゃいます。そんなあの方に、私などでは不釣合いだと思って……それに」
「それに………何ですか?」
「………それに、私のこの気持ちは、あの方にはきっと迷惑なものだから…」
そこでカスミは話すのを止め、再び目を伏せた。
沈黙が流れる。それを破ったのはヴァンサンの一言だった。
「…迷惑だと、彼が言ったのですか?」
「え?」
カスミが顔を上げた。ヴァンサンはふぅ、と一息つくと、彼女をまっすぐに見つめて言った。
「あなたの、相手のことを考えるその思慮深さは美徳です。しかしそれが行き過ぎてはいけない。彼が迷惑に感じていると、本当にそう思うのですか?」
「…ですが」
反論しようとしたカスミを制して、ヴァンサンはなおも言葉を発し続ける。
「ランゼット殿はああいう性格ですから何も言いませんが、彼はその目で常にあなたの姿を追っている。あなたと会話するとき、いつもは無表情な彼の顔が確かに色づいている」
本来ならわたしが言うべきことではありませんが、と彼は付け加えた。
カスミは呆然と彼の言葉を聞いていた。その表情からは、多大な意外性とほんの少しの期待感が見て取れる。
「彼の気持ち云々を別にして、あなたが彼にもっと近づきたいのであれば今のままではいけません。一歩先へ進むためには、あなたから積極的にならなくては。違いますか?」
「…でも、私には…」
「無理、ではありませんよ。そこからほんの少し勇気を出して、無理かもしれない、と思えばよいのです。無理かもしれない、しかし無理ではないかもしれない」
つい、と顔を上げて、カスミはヴァンサンに問いかける。ため息を吐いていたときのあの暗さが、和らいでいた。
「私にも、できるでしょうか…」
「出来ますとも。あなたは彼を愛している、それだけで充分なのですよ」
彼の言葉を聞いたカスミは、ふっと息をはいた。それはため息とは違う、気持ちのいいもの。
「私……がんばってみます」
それが聞きたかったと言わんばかりに、ヴァンサンは微笑んだ。
即座に部屋に戻ったカスミは、机上に置いてあるであろうチョコに視線を向け…
ぱりぽりぱりぽりぱりぽりぱりぽり……(×10)
「ああああぁぁぁぁ〜〜〜〜!!!!!!!」
叫んだ。
「どうかなさいましたか!?」
すぐさまヴァンサンが駆けて来る。彼が見たのは、力なく立ち尽くすカスミと、机の上で小気味良い音を立てる毛むくじゃらの「何か」。
「ム?」
赤いマントを羽織った「それ」は、無邪気な瞳を二人に向けた後、ばつが悪そうに開いた窓から外へ飛び出した。
チョコが食い散らかされた机によろよろと歩き出すカスミ。今から新しいチョコを作ろうとしても、ランゼットが帰るまでに出来るとは思えない。
この世の終わりみたいな顔をしているカスミを、ヴァンサンは見ていられなかった。そこで一つ、彼女のために案を授けることにする。
「紅の君よ、気を落とすのはまだ早いですよ。わたしに名案がありますので…」
ぼそぼそと、カスミにその名案とやらを耳打ちした……。
――――時は経って、庭園。
「………ん?」
どうも肌寒くなってきたと思ったら、既に日が落ちかけている。かなり長い間寝ていたらしい。
「目を覚まされましたかな?」
彼にそう声をかけたのは、普段このテーブルセットを陣取る二人の片割れ・シモーヌ。
「…起こしてくれればいいのに」
「きみのあまりに純真無垢な寝顔を見ていると、起こすのがどうしても躊躇われてしまってね」
カップを手に取り、音も無く紅茶を口に入れた。数瞬後、おもむろにポットに手を伸ばす。
「これを飲んで体を温めるといい」
いつの間にかわざわざランゼットのために用意したカップがテーブルに置かれており、それに対して随分手のこんだやり方で紅茶を注ぐ。
ランゼットは目で感謝の意を示し、同じく音を立てずにカップに口をつけた。
「ヴァンサンはどうした?」
「ちょっとした所用で席を外しているよ。ヴァンサンが戻ってくるまで、ぼくと共にステキな時間を共有しようじゃないか」
「そうしたいところだが、もう太陽が暮れる。日を改めることにするよ」
立ち上がろうとしたランゼットを、シモーヌは引き止める。
「まぁ待っておくれ。今日はきみにぜひ見せたいものがあるんだ」
「…何を?」
「今は言うことができないんだ。しかし今宵まで待ってくれれば、ぼくはきみにすばらしい贈り物ができる。どうかここはぼくに免じて、思いとどまってくれないだろうか」
ランゼットは少し考えたが、シモーヌの言う贈り物とやらに興味が湧き、無言でイスに座りなおした。ありがとう、とシモーヌは笑う。
しばらくの間、二人は会話を勤しんだ。貴族らしい話題だったり、互いの趣味のことだったり、色々。
食事もシモーヌが用意した軽食で済ませた。暖かい紅茶があったから、寒さにも耐えられる。
バレンタインだからとささくれ立っていたランゼットだったが、いつの間にかそんなことは忘れていた。しかし。
「時に、今日はバレンタインというステキな日。きみはもうチョコは貰ったのかい?」
シモーヌが持ちかけたその話題で、思い出してしまったようだ。顔色が少し無粋なものになる。
シモーヌは察して、自分の言ったことをフォローするように語った。
「言ってしまえば、きみは客人だからね。無理もないことかもしれない」
「………少しは期待していたのだがね」
ふっ、と鼻で笑い、空を見上げる。雲ひとつ無い、いい夜空だった。
「おや、誰から受け取りたかったのかな?」
「それを言わせる気か?」
「おっと、これは失礼……」
二人はおどけたように言葉を交わし、笑いあった。
「そろそろいいだろう」
おもむろに立ち上がり、シモーヌは花壇のほうへ歩み寄る。そしてテーブルから近い場所にあるその花壇の、とある花の群れの手前で立ち止まった。群れにすっと手を差し入れ、一輪抜き取る。
「見せたかったものというのは、これだよ」
その一輪の花をランゼットに渡した。
「これは……?」
「ぼくが交配したものであるよ。この花は少し特殊で、月光を浴びたときにその特徴を発揮するのだよ。香りを嗅いでみたまえ」
その花からは、やわらかく優しい匂いが感じられた。決して強い匂いでは無いのだが、これが一輪あるだけで周囲にその香りが振りまかれる。
「いい匂いだ」
率直に感想を述べた。満足そうに微笑みながら、シモーヌは席には座らずに紅茶のポットを手に取る。
「花は、その花瓶に入れておいておくれ。なんなら持ち帰ってもいい。ぼくは紅茶のおかわりを持ってくるよ」
自分も行こうと立ち上がりかけたランゼットに対し、客人にそんなことはさせられないとしてさっさと行ってしまった。どことなく含み笑いをしているように見えたのは気のせいか。
仕方なしに花を花瓶に挿し、夜空を見上げながらため息を吐く。三日月と一面の星が、空を彩っていた。
(…結局、今回ももらえそうには無いな)
思いながら、自嘲気味な笑い。
彼は他人と同じ時間を生きられない。皆は時間という流れのなかでそれに逆らうことなく生きているが、彼は違う。
だから他人との深い関係を求めてはいけない。お互いが辛いだけだから。
…そうは思いながらも。
期待していた。「彼女」からチョコがもらえることを、心の中の、どこかで。
「彼女」との深い関係を望む自分が、確かにいた。
だがその期待も、どうやら満たされることはないらしい。
そもそも自分が「彼女」を想うように、「彼女」も自分を想ってくれているとは限らないし、それどころかこの想いは、自分の一方通行のものであるとしか考え付かないと、彼は結論する。
(……期待するほうが間違い、かな)
いっそうその笑みを深くする。
口は笑っていたが、目は、涙を流さないで泣いているような、悲しいものだった。
「ランゼットさま……」
不意に女性の声がして、振り向いた。声の主が今しがた想いを馳せていた少女であることに気付き、動揺する。
いや、「少女」と呼ぶといささか表現違いだろうか。彼女…カスミはこの三年で、一人の「女性」としてしっかりと成長していた。
……自分とは、違う。
「何か用か?」
動揺を表には出さず、できるだけ素っ気無さを装って答えた。……そういう自分が、嫌になる。
「あ、えと……」
言いよどんでいる彼女を見ると、カップを乗せた盆を持っていた。
「こ、このような夜更けに外へ出られては、その、お寒いでしょう?」
「まぁ少しは。でもいいさ、今はこうしていたいから」
「そ、それでしたら、あの、これをお飲みになってくださいませ」
そう言って彼女は、ランゼットにカップを差し出す。茶色の液体が波打つそのカップからは、ほのかな甘い香りが漂ってきた。
「これは?」
「あ、ホットチョコレートです。そ、その、今日は、ば、ばれんたいんでー、なので…」
「え?」
再びカップに目を移す。湯気を上げるそれを、彼女はチョコレートと言った。
チョコレート。
これはつまり、そういうことなのだろうか。
……くれるのかい?
あ、その、ご、ご迷惑であれば今すぐ下げますが……
迷惑などではない…………………ありがとう
あ、いえ、こちらこそ………
カスミは、直接その想いを彼に伝えることはなかった。
今、自分の隣には彼がいる。自分の作ったものを、笑いながらおいしそうに飲んでいる彼がいる。
今はただ、こうして彼を見つめていたい。
焦ることは無い。
だが、いつか彼の横に立てるように自分は頑張るのだと、彼女はそう決意した。
「いい夜だ」
おもむろに彼女に語りかける。
「空を見るといい。今夜は月も星もよく見える。心が洗われる様だ」
「……本当ですね………とてもきれい…」
彼女も自分と同じように空を見上げて、つぶやいた。
今日は本当にいい夜だった。
空は、月がその光で星を制することも無く、互いに調和して輝いている。
花の香りが自分たちを優しく包み、手元のホットチョコレートは自分の身も心も暖めてくれていた。
そして何よりも、愛している女性が隣にいるこの夜。
「本当にいい夜だ…」
「えぇ……いい夜ですね…」
(もう自分をごまかすのは止めにするか……)
彼女と共に歩みたい。その気持ちにウソをつくのは今日限りだ。彼はそう決意した。
二人はそのまま、夜空というキャンパスを鑑賞し続けた。
すでに暦上での日は変わっている。
一日遅れのバレンタインは、二人を祝福するように始まっていた。
…おまけ。
夜空を見上げて幸福を堪能する二人を、庭園の出入り口からそっと覗くヴァンサンとシモーヌ。
「あぁ、素晴らしい。二人の時間は、今このとき始まるのですね」
「そぉうだとも。二人は今ごろきっと、恋人たちのするように愛を語らっているに違いない」
恍惚とした表情で話すこの二人は、正直気持ち悪い。
「しかしホットチョコレートとは、きみは相変わらずステキなことを考えるね」
「シモーヌこそ、よくランゼット殿を引き止めてくれました。あの花も演出に一役買っていますし」
お互いを賞賛しあうこの二人、やっぱり気持ち悪い。
その後も何度か言葉を交しあったようだが、こちらが吐き気をもよおしてきたので、ここらでこの二人から目を反らすことにする。
何はともあれ、今回の件に関してこの二人はずいぶん貢献した。
その辺は、感謝しようじゃないか。
そして。
フリックは三年前のランゼットのように生活習慣病の危機に見まわれ、ビクトールは再び動けるようになるまでしばらくかかったとさ。
ま、めでたしめでたし!
〜了〜
あとがき
そんなわけでバレンタイン小説でした。えぇ、ナルシーズ出張ってます。
まぁ本作は、「書こう」と思い立ったのが2月14日の正午ですから、随分急ピッチで書けたなぁ、と驚いております。
その分、話の展開やキャラの口調に不自然さが残っていますが。
ちなみに、判りづらかったでしょうが、シモーヌの言った「ステキな贈り物」はあの花のことではなく、カスミからのチョコプレゼントのことでした。
ヴァンサンと二人で画策していたってことですね。ホットチョコレートができるまでの時間を稼ぐのも、シモーヌの役割でした。
そんなわけで、見返すとまだまだ修行不足という感が否めない本作ですが、少しでも暇つぶしになれば本望です。
では、またの機会まで。
梨でした。
2/15 23:02 梨