ローマの恋

Un amore a Roma

1960年
イタリア、フランス、西ドイツ
監督: ディーノ・リージ

2物語は深夜のローマの街角での男と女の会話から始まる。「ある感情の終焉さ。」と男が別れ話を持ち出し、女は怒り逆らいながらも不承々々立ち去る。白黒の硬質な画面に、恋人の束縛から逃れて解放感を味わう男の心情を語る声が流れる。(ストーリーの要所々々で流れるこの一人称のナレーションは、タイトルに”エルコレ・パルティの小説に基づく”とある原作そのままの文章なのだろうか。)

男は伯爵家の子息マルチェッロ(ピーター・ボールドウィン)。没落貴族ではあるようだが、生活には困らず、文学の論文で教授資格を目座すインテリでもある。彼は、恋人と別れたその足で、早速行きずりのブロンド娘アンナ(ミレーヌ・ドモンジョ)と一夜をともにする。トレヴィーゾからローマに出てきたばかりの駆け出しの女優と名乗ったアンナの自由奔放ながら垣間見せる繊細さが、マルチェッロの気を引いたようだ。
マルチェッロは最初は一夜限りの関係のつもりでいたのが、軽い気持ちでアンナの働いている撮影所を訪れ、ふたりは恋愛関係を続けることになる。この撮影スタジオのシーンで、ヴィットリオ・デ・シーカが映画監督役で特別出演。ただし、そこで撮影されている映画は、B級の史劇スペクタルで、明らかにデ・シーカ自身が撮る作品ではないのが、ご愛敬。

以後、主にローマを舞台にしてふたりの関係が展開するが、1960年当時のローマの町の様子、享楽的な雰囲気がリアルに描写され、同じ頃に制作されたフェリーニの「甘い生活」と相通ずる雰囲気がある。インテリで志がありながらも、今は刹那的な生き方をしている主人公という点でも似ているかもしれない。
ところがひとときの恋のはずだったのに、いつしかマルチッロはアンナにのめりこんでいく。そして次第に明らかになっていく無邪気に見えていたアンナの正体…。いや、無邪気であるからこそ、アンナは「人生をあるがままに受け入れる」女なのだろう。
あれほどまでにクールにふるまっていたマルチェッロは、嫉妬・屈辱そしてアンナへの未練に苦しみ、女に暴力をふるい涙を流すまでに感情を顕わにするようになってしまう。

そして別れ。マルチェッロはアンナへの想いを断ち切り、裕福な上流階級の娘エレオノーラと婚約する。
すっかり自分を取り戻していたはずのマルチェッロだったが、ある雨の日、街角でずぶぬれになって路頭に迷っていたアンナを見かけ…。

ディーノ・リージはいつもながらの乾いた語り口で、一組の男女の関係を感情過多に陥ることなく詳細に描ききっている。マルチェッロとアンナの間には、身分の隔たりという小さからぬ問題もあったのだが、それにはあまり重点を置かず、あくまでも男の視点で恋愛の始まりから終焉までを心理的に追っているのだ。
婚約者エレオノーラはあまり個性的な存在ではないが、物語の冒頭でマルチェッロと別れたフルヴィアがその後も時折姿を見せ、映画の要所にアクセントを与えている。彼女のマルチェッロへの態度から垣間見える女心の妙が実にリアル。彼女に比べると、ヒロインでありながらアンナの内面は、なかなか計り知れない。それはあくまでもマルチェッロから見て理解できる理解できないというものなのだろうか。
また、マルチェッロと妙な因縁をもつ中年紳士を演じるのが50〜60年代に脇役としてリージやジェルミの作品に登場していたクラウディオ・ゴーラ。世間的な顔と裏の顔を使い分ける狡猾かつ間抜けな男を演じさせると絶品である。
心理的であると同時に、高度成長期のローマの風俗がリアル(に見える)に描かれ、この手法がやがて傑作『追い越し野郎』へと結実したのだろう。

なお、音楽はピエトロ・ジェルミ作品で名高いカルロ・ルスティケッリ、ローマの町の表情を生き生きととらえた撮影はマリオ・モントゥオーリ、往年のファッションを楽しませてくれる衣装はピエロ・トージが担当している。


この感想文は、フジテレビの深夜枠で字幕で放送された版によります。


02/10/14

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