「イタリア映画祭2005」寸評

Ballo a tre passi

スリー・ステップ・ダンス

2003年
監督 ・脚本 : サルヴァトーレ・メレウ
撮    影 : レナート・ベルタ、パオロ・ブラーヴィ、ニコラス・フラニク、トンマーゾ・ボルグストローム
美    術 : ジャーダ・カラブリア

今回の映画祭の収穫といえる若い映像作家の登場だ。1965年生まれサルデーニャ島出身のサルヴァトーレ・メレウの、これが長編映画デビューという。

物語は、春・夏・秋・冬の四編から成るオムニバスで、各々が人生の四段階に対応している。簡単に記すと以下のとおり。登場人物たちは、他の季節のパートにも、さりげなく姿を見せる。

初めて海を見る少年
羊飼いの青年とフランス人観光客女性の恋
姪の結婚式に参列するため、帰郷する中年の修道女
都会で年金暮らしする孤独な老人

まず、「春」の一見起伏の少ない、しかし瑞々しい悪童達のやり取りから、「サルディーニャ島」を舞台とした物語世界に引き込まれる。仕事に赴く仲間の父のトラックの荷台に乗り、少年達は生まれて初めて海に向かう(海に囲まれた島なのに、と我々の感覚ではちょっと不思議ではあるのだが)。粗野な会話に加われないお坊ちゃんもいて、さりげない人間描写が巧み。
思えば、「海」とはこれから人生に足を踏み出す少年達にとって、胸躍る未知の世界なのだろう。

「夏」。その海で、青年は決定的に「他者」と出会う。ミケーレ(ミケーレ・カルボーニ)は、これはほんとうに現代なのか?と訝しく思えるくらいの、昔ながらの羊飼いの生活を山中で送っている−彼は、サルディーニャを舞台にしたしたタヴィアーニ兄弟の名画『父 パードレ・パドローネ』の羊飼いの青年ガヴィーノの弟のようだー。そんなミケーレがリゾート地となっている海辺で、フランス人観光客の女性ソルヴェーグ(カロリーヌ・ドゥセイ)と出会う。ソルヴェーグは、プロペラ機を操縦する現代的な女性。言葉さえ通じず、何ひとつ共通点がないように見える二人の間に、アダムとイヴのような感情が芽生えてゆく様が正攻法で捉えられる。
ミケーレにとって、ソルヴェーグは初めての「異性」であり、また彼がそれまでは知ろうとすらしなかった「他者」であった点が、強い印象を残す。

「秋」。戒律の厳しい修道院で勤めを果たしていたフランチェスカ(ヤエル・アベカシス)は、姪の結婚式のため、久しぶりに故郷の村に帰って来る。
明らかに世俗に染まっていないフランチェスカは、とても純で愛らしい顔をしているので、最初のうちは彼女はまだ年若い修道女なのかとさえ思われる。しかし、結婚式やパーティで昔馴染みの村人達と触れ合い、また若い花嫁を見るうち、次第にフランチェスカは、祈りの日々の中では振り返ることのないであろう「自己」を意識し始める…。節度は保ちながらも、彼女に興味津々の村の男達の描き方が巧みで、フランチェスカの心の小さな動揺が浮き彫りにされてゆく。
そして、なんといってもこのエピソードで素晴らしいのは、天気雨の中での披露宴のシーン。天気と共に微妙に変化してゆくフランチェスカと花嫁の表情は、映像芸術ならではの、美しさだ。「人生は美しい」という言葉は、このショットの為にあるかのようだ。

「冬」。カメラは初めて、都会に入る。一人暮らしの老人ジョルジョ(ジャンパオロ・ロッド)の、絵に描いたような孤独な生活が描かれる。年金を受け取る日、ジョルジョは娼婦バッラ(ロセッラ・ベルゴ)をアパートに招きいれるのが、毎月の習慣のようだ。だがそこで行われるバッラの仕事は、アコーディオンを弾き陽気に歌うこと…。
やがて今までのエピソードがひとつに集約し、人生の四季が完結する素晴らしいラスト・シーンが訪れる。それはまるでフェリーニのように祝祭的な大団円であり、これは「イタリア映画」なのだと、幸福に実感させてくれるものだった。

イタリア映画の過去の巨匠達のリアリズムと詩情という伝統を踏まえ、しかも故郷サルデーニャに根ざした処女作を発表したメレウ監督に、これから大きく期待できるのではないだろうか。しかも、けして前人の轍を繰り返すだけではなく、現代的なオリジナリティある感性も発揮してくれているのがうれしい。今後、国際的にも成功し、日本でもメレウ監督の新作が見られるようになることを切に祈りたい。

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2005年6月19日

「イタリア映画祭2005」公式サイト

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