「イタリア映画祭2004」寸評

Buongiorno, notte

夜よ、こんにちは

2003年

監督 ・脚本 : マルコ・ベロッキオ
撮    影 : パスクワーレ・マーリ
音    楽 : リッカルド・ジャーニ

第1回(2001年)では格調高い文芸ドラマ『乳母』、第3回(2003年)ではイタリア社会におけるカトリックという問題に大胆に踏み込んだ『母の微笑』と、毎回のように「イタリア映画祭」に上質な問題作を提示するマルコ・ベロッキオ。第4回の今年の出品作『夜よ、こんにちは』は、1978年の「赤い旅団」によるモロ首相誘拐・暗殺事件(注)に真正面から取り組んだ決定的といってよい傑作だった。

今に至るまでも、イタリア国家・国民に暗い影を落としている事件を取り上げながら、映画の流れをけして重くさせないのは、見事としか言いようがない。これほどまでの誠実さ、真摯さを保ちつつ、イデオロギーの問題から逃げることもなく、「見せる作品」を完成させるベロッキオという人の健全なバランス感覚は、素晴らしい。

ベロッキオが「ヒューマニズム」という視点をしっかりと映画の芯に据えたことが、成功の鍵であろう。彼はテロリストの中にひとりの若い女性を配し(実際の事件の誘拐犯の中にも女性がいたが、この映画のヒロイン像はまったくの創作だという)、彼女に「人間性」を託した。
演じるマヤ・サンサは、『乳母』で若く生命力に溢れた「母」を演じデビューしているが、『夜よ、こんにちは』の女性テロリストとしても、まったく母性的な存在である。サンサが扮するキアーラは、モロ首相を監禁したアパートの一室で、他の3人のテロリストたちのために家事をこなし、モロのためにも毎日食事を作り、洗濯する(隠し部屋に閉じ込められ、彼女の姿を見ることのないモロの、テロリストたちに対する「君たちの中に女性が居るのだろう?靴下のたたみ方で分かる」という台詞が感動的)。「誘拐」という一事を除けば、彼女は慎ましやかな若い主婦そのものにしか見えない。
そんな彼女がアパートの内外で観察・内省するうちに、自分たちのテロ行為に疑問を持ってゆく過程こそが、ベロッキオが「人間性」に全幅の信頼を置いている証であろう。そして彼がいかに「母性」を神聖視し、人類の未来を託しうる希望として見ているかということも、ますますはっきりとしてきた。

極めて人間的にあろうとするキアーラに対して、彼女と同世代である仲間の男たちは「思想」「信念」の奴隷となり、非人間化してゆく。中でもリーダーのマリアーノ役のルイジ・ロ・カーショは、彼がそれまで演じてきた役とはまったく違う冷酷な人物を演じ切り、驚かされた。
ジョルジョ・ベロッキオジョヴァンニ・カルカーニョが扮した他のテロリストたちは、マリアーノに比べると、人間的な弱さも垣間見せるが、所詮「組織」に逆らえない。彼らのドラマを見ていると、たとえ理想社会を作ろうという善意で出発したものだとしても、「組織」とはいかなるものか、そしてそれが暴走し歯止めが利かなくなった際の恐ろしさというものがよくわかる。

そしてロベルト・ヘルリツカが寡黙に演じたアルド・モロは、「監禁」という極限状態の中で、政治家ではなく、あくまで「人間」として表現されている。家族や法皇に手紙を書き続けることで、彼の人間性は純度を増してゆき、それに呼応するかのようにキアーラは「自由の幻想」を見るようになる。
一方、随所で挿入される実写フィルムに登場する彼の同僚「キリスト教民主党員」たちが、あくまで「政治家」としての存在に限定されているのは、興味深いところである。

2001年から「イタリア映画祭」において上演されたベロッキオの三作品に共通して感じられるのは、作家の「生真面目さ」である。だが作品が、けして堅苦しく重苦しくならないのは、イタリア映画の伝統のひとつである(と筆者が信じる)ファンタジアの精神が脈々と流れているからではないだろうか。ラスト・シーンを見ながら、そう思った。

(注)1978年3月16日ローマで、元首相でキリスト教民主党党首アルド・モロが、極左集団「赤い旅団」に誘拐され、55日間の監禁・尋問の後、テロリストにより「処刑」された。殺害後、犯人グループは逮捕され、現在も収監中。 (本文に戻る)


当作 "Buongiorno, notte" は、2004年中に劇場で一般公開が予定されているそうです。(『夜よ、こんにちは』という邦題は、変更の可能性あり)
今まで私が見たイタリア映画祭の諸作品の中でも、最高の一本です。機会があったら、ぜひご覧ください。

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2004年5月23日

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