星降る夜のリストランテ  

La Cena

1998年
イタリア/フランス
監督: エットレ・スコラ


思えばエットレ・スコラとの付き合いも長くなった。筆者が最初に見たスコラ作品は、怪作「パッション・ダモーレ」だったので、その後長年に渡って、楽しませてなごませてくれる監督になるとは、当時は想像だにつかなかった。

「パッション・ダモーレ」
格調高いコステューム・プレイではあったが、
ある種のホラー映画というか、ストーカー映画のはしりだったともいえる。
Chiara(輝くような)とFosca(陰気な)という名のふたりのヒロインが出てくる。。

スコラはけして「巨匠」と呼ばれるタイプの作家ではないが、見事なまでに「はずれ」がない。見て損のない良質な作品を作り続ける、信頼のおける監督である。
さて、日本では2001年に公開された本作「星降る夜のリストランテ」は、80年代の「ラ・ファミリア」などで既におなじみの、限られた空間内で繰り広げられる群像劇。個性的で達者な俳優たちが顔をそろえ、饒舌な台詞がとびかう、手慣れた手法ではあるが、その演出手腕は老いてなお衰えることを知らないようだ。

舞台はローマ市内のリストランテ「アルトゥーロの店」。カメラが映し出すのは食堂、テラス、厨房、冷凍室、それに店の前の小路内にとどまり、さらに今回は物語の進行が上映時間とリアル・タイムでもある。
というと、舞台劇のように思われるかもしれないが、そこはスコラ、映画ならではの手法で、複数の人物たちの各々の物語を平行して語ってみせた。

リストランテの主人で初老のアルトゥーロは病み上がりで、店を仕切っているのは、美人でしっかり者の妻・フローラ(ファニー・アルダン)。
"La cena"「晩餐」という原題の通り、ある晩の「アルトゥーロの店」の営業時間内での、店で働く人々と客たちの人間ドラマが描かれる。
際限なく世の中に文句を言い続けながら、次々と美味しい料理を作り上げてゆくシェフ、お調子者のトスカーナ出身のカメリエーレ(給仕)、それを苦々しく見る古参のカメリエーレ。テーブルでその料理に舌鼓を打つのは、不倫カップルやトラブルを抱えた親子、あるいは孤独で冴えない男やキャッチ・セールスの自称「魔術師」。
彼らはあるときは主役となり、あるときは単なる背景の人物となるのだが、カメラのフォーカスが自分に合ってないときでも、どの俳優もちゃんと役になり切っている。たとえ「国際的スター」であっても、そのように徹しているのだ。

中でも、肝心要でこの空間を仕切っているのが、大ヴェテランの名優ヴィットリオ・ガスマンである。店の常連の、引退した学者と思しき老インテリを演じ、その円熟味、ユーモア、そしてほのかな色気は絶品としか言いようがない。既に人生の表舞台から退いているからこその、余裕綽々たる人生の達人ぶりを見ていると、「老い」とはなんと素晴らしいのだろうと思えてくる。
残念ながら、ガスマンは、この作品の後、2000年にこの世を去ってしまった。、もしイタリアにも「人間国宝」があるとしたら、彼より少し前に逝ったマルチェロ・マストロヤンニと並んで、ガスマンこそふさわしかったに違いない。
また、不倫相手の教え子の女子学生に手を焼いていた初老の哲学教授(ジャンカルロ・ジャンニーニ)とガスマン翁が「男の論理」を展開するのが、ふたりともなんとも可愛かった。その前に、ジャンニーニ教授が小娘の前で切れてから、おもむろにパイプを取り出してくわえるところも、いい味だった。

そしてもうひとり登場するイタリア映画界のヴェテラン・スターは、ステファニア・サンドレッリ。彼女は見るからに下品で派手な母親役で、対照的に化粧ッ気ひとつない内気そうな娘と食事の席を設けている。別れた夫に育てられている娘に、あけすけな質問をして、わが子の眉をひそめさせるような母親だ。
それが、娘の思いがけない将来の進路を聞くと、彼女は激しく動揺して打ちひしがれる。安っぽい中年女が、一転して「悲しみの母」になるのだ。名演だった。

有名スターの役についてばかり挙げてしまったが、彼らはけっして突出していない。ほかの客・従業員にも「主役」の番がちゃんとまわってきて、それぞれ人生のおかしさと悲哀をたっぷりと演じてくれるのだ。
またそんなときに背景に退いたサンドレッリがぼんやりとしていたり(もちろん演技で)、ガスマン翁が、冴えない男と「魔術師」のやりとりに聞き耳を立てていたりするのが、また楽しい。

そのほか、実は女主人フローラにも心の秘密があり、彼女の妹とその十代の娘の確執まで盛り込まれ…etc.etc.となると、いささか詰め込みすぎの感もあったが、これも一晩という設定内で様々な人生を語りつくしてしまおうというスコラの貪欲さというか、サービス精神のあらわれだろう。
ほんのひととき、モーツァルトの音楽が流れているときだけ、その場に居合わせた人々が安らぎと連帯感を見出すシーンでの、長まわしのカメラ(ワンショットで店をひとまわり)も、スコラならでは。

ひとつ、気になったのは、客の中に「日本人一家」がいて、ケチャップを注文したり、何かと写真を撮ったり、そして子供はゲームに熱中して、というステレオタイプの描かれ方で、まるでエイリアン扱いだったこと。しかもこの「日本人一家」は中国語を話していた!
もっとも、最後の最後でこの子供が洒落た役割を担うので、ちょっと救われた思いだったが。

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2003/02/08

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