ふたりのトスカーナ 

Il cielo cade



2000年
イタリア
原作 : ロレンツァ・マッツェラッティ
脚本 : スーゾ・チェッキ・ダミーコ
監督 : アンドレア&アントニオ・フラッツィ
撮影 : フランコ・ディ・ジャーコモ



まず最初に、本作を手がけた偉大なる脚本家、スーゾ・チェッキ・ダミーコに敬意を表したい。つい先ごろ、当「映画の部屋」にレビューを載せたルキノ・ヴィスコンティ監督作品『ベリッシマ』の脚本も、チェッキ・ダミーコの手になるものだった。実に半世紀を経てなお、彼女はイタリアを代表する映画脚本家として活躍しているのである。
現在、90歳近い高齢でローマ在住だというスーゾ・チェッキ・ダミーコは、戦後まもなく映画の脚本を手がけ始め、協力した監督は、ヴィスコンティを筆頭に、ヴィットリオ・デ・シーカ、アレッサンドロ・ブラゼッティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、フランチェスコ・ロージ、マリオ・モニチェッリ、レナート・カステラーニ、ヴァレリオ・ズルリーニ…枚挙に暇がない。まさに彼女は、戦後のイタリア映画史のミューズである。

『ふたりのトスカーナ』は1961年に発表されたロレンツァ・マツェラッティの自伝的小説"Il cielo cade" 「空が落ちる」を映画化したもの。監督は、テレビ界では長いキャリアを積んでいるものの、劇場映画は本作が初演出だという、フィレンツェ出身の双子の兄弟アンドレアとアントニオ・フラッツィ。
トスカーナ地方出身の兄弟監督というと、自ずとタヴィアーニ兄弟の名が浮かんでくる。さらに、第二次世界大戦をトスカーナ地方の田園風景の中で、少女の目を通してとらえたという点でも、『ふたりのトスカーナ』は、タヴィアーニ兄弟の1982年作品『サン☆ロレンツォの夜』と相通ずるものがある。
『サン☆ロレンツォの夜』は、タヴィアーニ兄弟自身の少年時代の体験をリアリズムと寓話的要素を組み合わせて映像化し、一方『ふたりのトスカーナ』は原作者マテラッツィの体験を脚色したもので、叙情的ながら概ねリアリズムの姿勢を崩していない。

物語は第二次大戦中、ムッソリーニの逮捕、ナチスの助けによるその復活、連合軍のイタリア上陸と続いた時代を背景として進む。
ローマ生まれのペニー(ヴェロニカ・ニッコライ)とベビー(ラーラ・カンポリ)の二人姉妹は、両親を相次いで失い、裕福なトスカーナの地主アインシュタイン(イェルーン・クラッベ)に嫁いだ伯母ケッチェン(イザベラ・ロッセリーニ)のもとに引き取られることになった。ファシスト風の制服を着て敬礼をする姉妹を見て、眉をひそめる館の人々。
この館に住んでいるのは、、伯父伯母夫妻と、ペニーたちより少し年上のその娘マリーとアニー、女中のエルサ(ジャンナ・ジャンケッティ)とローザ(バルバラ・エンリキ)、運転手兼執事のコジモ。さらにドイツ語を話す芸術家たちも寄宿している。
けんかをしたり、いたずらをしたり、大人たちを手こずらせながら、ペニーとべビーはどんどん新しい環境になじんでいく。それと同時に二人のしゃべり言葉がトスカーナなまりになっていくのが微笑ましい。

トスカーナの美しい田園と周囲の人々がふたりの孤児を暖かく見守るのだが、中でも伯母の存在が大きい。両親を失った幼いふたりを母の愛で包み込み、夏休みになると同じ年頃の友人が必要だからと、たとえ「悪い言葉を覚えることになっても」と、小作人のこどもたちと遊ばせることも決断する。
イザベラ・ロッセリーニは、母イングリッド・バーグマンを髣髴とさせる毅然とした美しさで、「イタリアの母」を演じきった。思えば、バーグマンも、また父親のロベルト・ロッセリーニも、『ふたりのトスカーナ』の時代の映画界を、同時代人として駆け抜けた人たちだったのだ。

こうして伯母たちの思いやりですくすくと成長していくペニーとベビーを中心として展開される「子どもの時間」の描写が、映画の前半を明るい光で満たしている。小学校の授業の様子、小作人の子どもたちとの自然の中での遊び。カメラが、見るもの聞くもの新鮮な子どもたちの視線に同化しているのが素晴らしい。
そろそろお年頃のペニーが、男の子にそそのかされて、ローザと農民の恋人の逢引を覗き見るというエピソードもあるのだが、それはごく自然な成長のあらわれであり、少しの卑しさも感じられない。
そのような屈託のないエピソードの数々の中にも、やがて物語の後半で重要な鍵となる要素がひそんでいる。
人のよい村の神父さん(ブルーノ・ヴェッティ)は、ペニーとベビーには「成長してから、自分の意思で宗教を選ばせたい」という方針のアインシュタインの方針が気に入らない。そんなこんなでペニーとベビーは、ミサに行かない伯父さんが心配になってくる。大司教が村にやってきたときに、「伯父さんを救ってください!」と大騒ぎを起こしてしまうのも、そのときは喜劇的エピソードとして終わったのだが…。

(ちなみに原題の"Il cielo cade" 「空が落ちる」は、ペニーが作文の中で何気なく書いた一節だったのに、「空が落ちる」とは神の存在を否定することに通ずると、神父さんに怒られたエピソードから来ている。)

平和な村とアインシュタイン邸にも、戦争の惨禍がじわりじわりと迫ってくる。邸に身を寄せていた芸術家たちはスイスに逃亡し、パルチザン側のローザの恋人にも迫害の手が伸びた。やがて村にドイツ軍がやってきて…。

ペニーとベビーの瞳に写ったこと。それはペニーを分身とした原作者が、自らのトラウマを克服するため、また後世に残したいという執念から筆に起し、さらにそれをスーゾ・チェッコ・ダミーコが力強く脚色し、フラッツィ兄弟が美しく映像化した。筆者が書き得るのはここまでである。

最後にあたって、どうしても書いておきたいことは、白い牛である。
かつて故・淀川長治氏が『グッドモーニング・バビロン』の公開時に来日したタヴィアーニ兄弟に、画面に登場する白い牛について質問した。タヴィアーニ兄弟は「白い牛は、聖なるものの象徴です」と答えていた。その白い牛が『ふたりのトスカーナ』にも登場するのだ…。

これは今現在(2003年3月)の筆者の思いなのだが、世界が戦争勃発のおそれに直面しているときに『ふたりのトスカーナ』が公開された意義は、小さくないのではないだろうか。



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2003/03/10

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