裸足の伯爵夫人

The barefoot Contessa



1954年
アメリカ
脚本・監督 :ジョセフ・L・マンキーウィッツ
撮影 : ジャック・カーディフ

音楽 : マリオ・ナシンベーネ

ハンフリー・ボガートとエヴァ・ガードナーという大スターを起用したアメリカ映画であるにもかかわらず、いわゆる「ハリウッド」の枠からいくぶんはずれた作品である。
ジョセフ・L.マンキーウィッツは、他に代表作としてアカデミー賞受賞作『イヴの総て』(筆者未見)などがある脚本家出身の監督であり、『裸足の伯爵夫人』を見る限り、シニカルな語り口を持ち味としていたようだ。
また、本作はほとんど全編イタリアで撮影されたと思しく、明らかに1950年代に流行ったいわゆる「ランナウエイ映画」(強いドルを背景に海外製作されたアメリカ映画)の1本である。あるいは『ローマの休日』がそうであったように、「赤狩り」によるヨーロッパ脱出組の手になるものか…?という憶測は深読みかもしれない。

物語は、イタリア リヴィエラ海岸の風光明媚な町ラパッロの墓地での、マリア・トゥラルド・ファブリーニ伯爵夫人(エヴァ・ガードナー)の埋葬の場面から始まる。ヒロインの死を前提として、関係者の回想で物語られるという構成である。
ふりそぼる雨の中、映画監督ハリー・ドース(ハンフリー・ボガート)と映画会社の宣伝担当者オスカー(エドモンド・オブライエン)が交互にマリアの「発見」から彼女が大スターとなった日々を回想していく。と言っても、一介のスペインの踊り子マリア・バルガスからマリア・ダマンタという芸名でハリウッドにデビューした彼女の「女優」として演技する姿はいっさい見られず、いわば映画界の裏舞台を暴露するかのような場面でつながれていくのだ。
マリアがデビューするにあたって、映画界への進出を図っているカークというウォール街の寵児がからんでくる(ハワード・ヒューズがモデルか?)。このプライドの高い男が自分の思うとおりにならないマリアを潰しにかかるのではないかと危惧したドースが、先手を打ってマリア売り出しに一種の「保険」をかけるところなど、実に生々しい。

そして大スターとなったマリアに新たに近づいてきたのは、南米の大富豪ブラバーノ(マリウス・ゴーリング)。彼は豪華ヨットにマリアを招待するが(このあたりはオナシスを思わせる)、彼もまたマリアに拒絶され、せめて自分はマリアの愛人だと世間に思わせることで満足するしかなかった。
スペインでの踊り子時代の愛人はともかくとして、マリアは「誰のものにもならない女」として輝きを増す。スペインに残してきた両親の不祥事によるスキャンダルにみまわれたときも、マリアはそのことを逆手に取り(彼女としては、自分の気持ちに正直にふるまっただけだろうが)、その盛名は上がるばかりだった。

そんな彼女の繊細な内面を知っているのは、彼女を女優として育てたドースだけ。だがマリアとドースは、恋愛関係にはけして足を踏み入れようとしない。大スター同士の共演でありながら、男と女の友情を描いたという点でも、この映画は異色なのではないだろうか。

豪華ヨット、そしてコートダジュールのカジノ。一見「大スター」らしく歓楽の世界を渡り歩いていたマリアは、ついにイタリアの貴族ファブリーニ伯爵(ロッサノ・ブラッツィ)と運命的な出会いをする。
ここで初めて、ドースとオスカーではない第三の人物−ファブリーニ伯爵がマリアとの出会いについて回想を始める。このとき、マリアは虚飾をかなぐり捨て、ジプシーに加わって裸足で踊っていたのだ。マリアのテーマともいえる「ボレロ」にのって踊るエヴァ・ガードナーの野性的な美しさは、この映画の白眉であろう。
また、既にオスカーの回想で語られていた、ファブリーニとマリアがカジノで再会する場面が、ファブリーニの回想として異なるアングルのカメラを使って語り直されるのが面白い趣向。

ファブリーニと出会ってからのマリアには、大理石の彫像のモデルとなったり、ラパッロの海岸で波とたわむれるなど、エヴァ・ガードナーの魅力をこれまで以上に強調するシーンが用意され、さながら「ヴィーナス誕生」の趣がある。
だが生命力に溢れたマリアを見ながら、語り合うファブリーニ伯爵とその妹(ヴァレンティナ・コルテーゼ)の会話は、「滅び」の予感に満ちている。いささか上滑りの感のある台詞の数々ながら、たとえばヴィスコンティの映画に見られるようなヨーロッパの貴族階級の「滅びの美学」を、アメリカの映画人も自らの作品で取り上げていた事実は、興味深い。
そして、そんな「斜陽」の世界にとびこんでしまった「裸足」のマリアの運命は…。

最後に、この作品のちょっとした隠し味についてふれておこう。それはマリアの弟役としてヴィットリオ・デ・シーカ監督の『靴磨き』に主演したフランコ・インテルレギが起用され、またマドリードの酒場でマリアに憧れの視線を注ぐ少年給仕役として、同じくデ・シーカ監督の『自転車泥棒』の子役エンツォ・スタイオーラが成長した姿を見せていること。なんというか、当時のアメリカ映画人のイタリアのネオ・レアリズモ映画への目配せであるかのようだ。

撮影はテクニカラーの名手といわれたジャック・カーディフ。確かにこの映画に映し出されたイタリアは、人工的な色彩美に彩られたイタリアと言えるかもしれない。


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2003/03/23

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