さようなら、コレッリ 

<ディーヴォ>で紳士だった人


並外れた声と卓越した容姿
彼はロマンティックなヒーローを体現した


マルケ州出身の偉大なるテノール、フランコ・コレッリが逝った。オペラの最高の表現者であり、パルマの聴衆の真のアイドルだった。
2002年の1月には、テアトロ・レージョで彼の80才を祝って、コレッリに捧げるガラ・コンサートも催されている。

1921年、マルケ州アンコーナに生まれたフランコ・コレッリが歌を始めたのは、オペラ好きの従兄弟に勧められたのと、友人達とテアトロ・デッレ・ムーゼ Teatro delle Muse 内のサロン<カジノ・ドリコ>で集いを持ったことからだった。(1943年の爆撃で破壊されたテアトロ・デッレ・ムーゼは、2001年、60年ぶりに修復・再開された)また、コレッリは1940年代の初め、この劇場で20世紀前半の大テノール、アウレリオ・ペルティーレを聴いたことがあるとも語っていた。
しかしながら、コレッリの歌手としてのキャリアの開始は遅く、30才からだった。勤めをやめたコレッリは、1951年、スポレートのテアトロ・リリコ・スペリメンターレで、オッタヴィオ・ズィーノの指導の下、『カルメン』のドン・ホセを歌い、デビューしたのである。続いて、ローマ歌劇場に進出し、ザンドナイの『ロミオとジュリエット』、『アドリアーナ・ルクヴルール』『ボリス・ゴドゥノフ』などを歌った。

そのリリコ・スピントの声は、並外れた美しさと力強さに溢れていた。
さらにコレッリはその眉目秀麗な容姿でも、聴衆を魅了し、ロマンティックな英雄役を体現したのである。映画スターとみまごうほどの顔立ち、筋肉質で脚は長く、理想的なマンリーコ(その「見よ恐ろしい炎」は、パルマの伝説となっている)ラダメス、カラフ、カヴァラドッシ、アンドレア・シェニエだった。多くのヴェルディ、プッチーニのテノール役をこなし、他にも『フェドーラ』、『ジョコンダ』、それにプロコフィエフ『戦争と平和』やスポンティーニ『ヴェスタの巫女』『ホーヘンシュタウフェンのアニェーゼ』、ベッリーニ『海賊』といった作品にも出演した。

コレッリは世界中の主要な歌劇場に出演し、特にミラノ スカラ座、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で、当時を代表するプリマドンナたち−マリア・カラス、マリア・カニーリア、レナータ・テバルティ、レオンタイン・プライス、ブリギッテ・ニルソン、エリザベート・シュヴァルツコップ、ジョーン・サザーランドら−と共演した。
特筆すべきは、『ヴェスタの巫女』『ノルマ』『フェドーラ』など、二十世紀後半のオペラ上演史で最も重要なものとなった、マリア・カラスとのコンビである。

コレッリは、1960年のローマ歌劇場での有名なカラスの『ノルマ』降板事件にも立ち会っているが、この高名な同僚を擁護する発言をしている。

私生活では有名なバス歌手の娘であるソプラノのロレッタ・ディ・レリーオと結婚したコレッリという男は、極めて完全主義者であった。その声にわずかなかげりを認めただけで、役を慎重に選ぶようになり、イタリアとニューヨークの間を行き来する活動に絞った。彼の思い出の劇場 テアトロ・デッレ・ムーゼで歌うことは遂になかった。

引退の前は、彼の生まれ故郷マルケ州での出演が増え、マチェラータで1970年『トゥーランドット』、1974年『カルメン』に出演。そして1976年のトーレ・デル・ラーゴの『ボエーム』を最後に、1980年のアメリカでの幾つかのコンサート出演を除いて、永久にオペラの舞台から去っていった。

しかし、コレッリの崇拝者たちは、けして彼を忘れなかった。
故郷の彼の友人が、病に倒れたこの大歌手に対するアンコーナ市当局の無関心を非難はするようなことはあったものの、あのテアトロ・デル・ムーゼ再建、再開を祝う日は、コレッリに捧げられた。
そして、パルマのオペラ愛好家たちのコレッリへの想いは途切れず続き、けしてコレッリへの親愛の念が失われることはなかった。また、彼は病に倒れた後のしばらくの期間、パルマの病院に入院していたのである。

Gazzetta di Parma に掲載された追悼記事の要訳)

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