エボリ

Cristo si e' fermato a Eboli


1979年
イタリア・フランス
監督 : フランチェスコ・ロージ
製作 : フランコ・クリスタルディ
脚本 : フランチェスコ・ロージ、トニーノ・グエッラ、ラッファエーレ・ラ・カプリア
原作 : カルロ・レーヴィ
撮影 : パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽 : ピエロ・ピッチョーニ
美術 : アンドレア・クリサンティ
編集 : ルッジェロ・マストロヤンニ


ネオレアリズモの最も正統な継承者と思われるフランチェスコ・ロージの70年代末の佳作である。
テーマも、ヴィスコンティの「揺れる大地」、ピエトロ・ジェルミの「越境者」などのネオレアリズモの初期の諸傑作の系譜を引いて、「南北問題」である。

物語は、瀟洒なアトリエにいる老画家カルロ・レーヴィ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)注1 の回想から始まる。(アトリエの雰囲気と隔り、土の臭いのする農民を描いた油絵の数々は、原作者レーヴィ自身の作品であろう)
1935年。レーヴィは「エボリ」というひなびた駅に到着する。ホームで捨て犬を拾ったり(このバローネ=男爵という名の犬が実に名演技で、ともすれば重くなりがちな物語の雰囲気を随所で和らげてくれた)、ごく普通の旅行者に見えたレーヴィが、実は政治犯として南イタリアに流刑となった身だということが次第に明らかになる。(レーヴィの流刑の直接の原因は「マリオ・ソルダーティ注2 の小説に挿絵を描いた」とだけ、軽く触れられる)

島流しならともかく、イタリア半島内で「流刑」とは、現代の日本人の感覚からは理解しにくいのだが、南イタリアとは「流刑」に値するほどの僻地ということらしい。 "Cristo e' fermato a Eboli" 「キリストはエボリで留まりぬ」という原題も、比喩的とはいえ、エボリという町から奥は、キリスト教の支配・慈悲すら届かぬほどの見捨てられた(あるいは太古から変わらぬ)土地だということを表す。
この映画では、ファシスト政権下のイタリアの「流刑」というものが具体的にどのようなものか描写しているだけでも、興味深い。
エボリの駅からバスと町で1台だけだというタクシーを乗り継いでたどり着いた山の上の町ガリアーノに、若者の姿は少ない。彼らの多くはアメリカに移民に出て、閉鎖的な町の中で比較的外の世界に通じているのは、いくばくかの金を手にしてアメリカから帰ってきた男たちである。
流刑者のレーヴィの生活は、行動範囲に制限はあるものの、外出はできるし、滞在先も貧しいとはいえ、ごく普通の下宿のようである。ただ、毎朝、村長(パオロ・ボナチェッリ)の元に出頭し、サインせねばならず、手紙は検閲される。このファシズムの時代に迎合している村長の言動から推すと、どうやらこのような南部の貧しい町は「流刑者」を受け入れることで、中央から助成金でも得ているようだ。
町の人々は貧しく無知で因習的ながら、けしてレーヴィを避けず、むしろ「ドン・カルロ」と呼び、敬意すら払う。前述のアメリカ帰りたちも、知識人のレーヴィに好意的だ。

こうして穏やかにすら過ぎてゆく流刑生活は、徹底的にレーヴィの視線を通して描かれる。することもないレーヴィは毎日、町を散歩する。彼の目に映るのは貧しく慎ましく、そして荒廃も進んでいる町の光景(山の頂上の立派な聖堂は、地すべりの被害にあってから放置されている)。

映画の後半に入ると、レーヴィはアトリエも構え、またいつのまにやら画業以外の「技術」も買われて、土地に根付いていく。
その頃には、土地の地霊のような女ジュリア(イレーネ・パパス)が女中としてレーヴィの生活に入ってきている。徹底的に女性を束縛しているこの保守的な土地では、彼女のような「身持ちの悪い女」しか男所帯に手伝いにこられないというのだ。
村長や、インテリでありながら村人たちに蔑まされている神父(フランソワ・シモン)らを除いて、町の住人の多くが素人俳優−これまたネオレアリズムの伝統だ−を使っていると思しいこの映画で、ジュリア役にギリシャ出身の国際女優パパスを使ったということは、この女が極めて単純かつ極めて複雑な役どころだからだろう。

ムッソリーニのエチオピア侵攻という時代を背景にしながら、「歴史と国家とは無縁な土地」を淡々と見つめたこの映画、2時間半という上映時間が少しも長く感じられない。
はっきり言って、監督のロージには、師ヴィスコンティのような深い芸術性や才気のひらめきはない。だが、いわば「速球投手」の潔さがある。監督自身の過剰な自己顕示欲を出すこともなく、カルロ・レーヴィの原作の映像化を通して、必要最低限な要素で創造する彼の真摯な姿勢に、好感がもてる。
余談ながら、この『エボリ』の後、80年代に撮ったビゼーのオペラ映画『カルメン』や、ガルシア=マルケスの原作を映画化した『予告された殺人の記録」も、そのようなロージの持ち味によって、映画化に成功したといえるだろう。

注1 : カルロ・レーヴィ 1902(トリノ)−1975(ローマ)

画家にして戦後イタリアのレアリズモ文学の代表的作家。1935年の南イタリア流刑を小説化した「キリストはエボリに留まりぬ」を1945年に発表。1963年からは上院議員も務めた。
作品 「モラヴィアの肖像」 
この 母子像 はもしかしたら、映画に出てくるジュリアとその息子でしょうか?

注2 : マリオ・ソルダーティ 1906(トリノ)−1999(ラ・スペツィア)
作家、映画監督、俳優。
日本公開された監督作品でおそらく最も知られているのは、ソフィア・ローレン主演の『河の女』(1955)。2001〜2002年国立近代美術館フィルム・センターの「イタリア映画大回顧」では『マロンブラ』(1942)が上映された。
ちなみにこの映画 原作者としてクレジットされています>ステファニア・サンドレッリ、ハーヴェイ・カイテル、ドミニク・サンダ!

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2004年3月13日

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