「イタリア映画祭2003」寸評

Luce dei miei occhi

ぼくの瞳の光

 

2001年

監督 : ジュゼッペ・ピッチョーニ
脚本 : 
ウンベルト・コンタレッロ、リンダ・フェッリ、G.ピッチョーニ
撮影 : アルナルド・カティナーリ
音楽 : ルドヴィコ・エイナウディ


昨年のイタリア映画祭2002で、私が今まで見たイタリア映画の中でも五指の入るほどの感動作『もうひとつの世界』を出品したジュゼッペ・ピッチョーニの最新作ということで、大きな期待をもって見た。
結論から言うと、『ぼくの瞳の光』は、前作を凌ぐものではなかった。物語の求心性にやや欠け、(主人公に対して)甘い展開も目につき、2時間の上映時間がやや長く感じられたのだ。
とはいえ、市井の人々に注ぐピッチョーニの心やさしいまなざし、独特の穏やかな語り口が、現代の映画界において(国際レベルで)優れたものであることは、間違いない。日本でも一般公開すれば、ウディ・アレン、ナンニ・モレッティのように、地味ながら、固定ファンがつくと思うのだが、どうだろうか?

前作は、ミラノを舞台にした尼僧とクリーニング店主の心の交流の物語だったが、今回の舞台はローマ。
運転手のアントニオ(ルイジ・ロ・カーショ)は内気で穏やかな青年で、自分の顧客(会社に委嘱されて顧客の送り迎えをする仕事なので、日本でいうとハイヤーにあたるだろうか)の話にひたすら耳を傾ける毎日である。このあたりは、1970年代のニューヨークを舞台にしたマーティン・スコセッシの名作『タクシー・ドライバー』を思い起こさせはするが、同じ孤独な青年でも、アントニオは現状に大きな不満を持つ様子もなく、淡々と受身の人生を送っている。

そんなアントニオの人生が、深夜、猫を追って道に飛び出してきた少女リーザ(バルバラ・ヴァレンテ)と言葉を交わしたことから一変する。冷凍食品店をひとりで切り盛りしているリーザの母マリア(サンドラ・チェッカレッリ)に、アントニオはたちまち心ひかれたのだ。彼は小さいときから愛読していたSF小説のエイリアンになり切って、マリア母子という「他者」の世界に足を踏み入れていく。孤独な大人たちを媒介するのが、前作では捨て子の赤ん坊、そして本作では10才の少女である。
案外すんなりとマリアに受け入れられたと思いきや、それからのアントニオには、思いもよらない困難と忍苦の日々が待ち構えていた…。

マリアは「なにもかも後悔することばかり。後悔しなかったのは、リーザを産んだことだけ」というような人生を送ってきた女性。「私には愛に似た感情は何もない」という彼女の心を占めるのは、生活、それも金銭的なことと、リーザを元夫の両親に奪われまいとすることばかり。


そしてアントニオは思いもかけず、リーザに金を貸しているサヴェーリオ(シルヴィオ・オルランド)の世界にもかかわることになる。サヴェーリオは金融業だけではなく、不法就労の外国人相手にも商売をしているいかがわしい男だが、けして単なる悪役ではない。サヴェーリオにこき使われ、次第に悪の世界に染まっていくかに見えるアントニオに、我々観客は、はらはらさせられながらも、ふたりの男が魂の奥である部分を共有していることをも認めざるを得ないのだ。
このけして本心からの悪人が出てこないというピッチョーニの世界観は、あるいは賛否両論分かれるところかもしれない。本来の運転手としてのアントニオの雇い主(トニ・ベルトレッリ)ににしても、ほとんどこの世離れしているほどに「いい人」で、そこが甘いといえば、甘い。


物語はそれから二転三転するが、多少冗長になることはあっても、ストーリーテラーとしてのピッチョーニの実力は国際級であろう。脇役に至るまでの、きめの細かい人物描写も見事。
俳優陣の自然な演技もよかったが、特に生活に疲れ果てたマリアを演じきったチェカレッリは特筆に価する。

というわけで、若干の甘さはあっても、リアリズムと詩情の混在したピッチョーニの世界が、今後どのように発展していくか、楽しみである。繰り返しになるが、ぜひ一般公開を!


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2003/05/07

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