マレーナ

Male'na

2000年
イタリア、アメリカ
監督・脚本 : ジュゼッペ・トルナトーレ
原作 : ルチアーノ・ヴィンセンツォーニ
撮影 : ラホス・コルタイ
音楽 : エンニオ・モリコーネ

美術 : フランチェスコ・フリジェリ
衣装 : マウリツィオ・ミレノッティ


デビュー以来、故郷シチリアにこだわり続けているジュゼッペ・トルナトーレの最新作『マレーナ』は、やはりシチリアの小さな町を舞台にした物語である。
時代は第二次大戦のさなか。12歳の少年レナート(ジュゼッペ・スルファーロ)は、町で評判の美女マレーナ(モニカ・ベルッチ)を一目見るや、初めての恋心を覚える。以後、異性という未知なる存在へのレナートの視線を通して、時代と人々の悪意に翻弄されるひとりの女の悲劇が描かれる。

それにしても、いつもながらトルナトーレ描くシチリアの映像は美しい。海の色、町の色、一度もシチリアに行ったことのない人間にまで懐かしい気持ちを起こさせる。今回はイタリア人ではない撮影監督のようだが、この豊かな「イタリアの色」とそれにふさわしいエンニオ・モリコーネの音楽が、何よりもトルナトーレ作品の財産である。

この小さな海辺の町をひとり歩くマレーナが歩く姿が何度も描かれる。マレーナに台詞は少ない。マレーナの人格は掘り下げられない(これが不満に感じられなくもないのだが)。マレーナはただ人々に見つめられる存在なのだから。男達の欲望と女達の嫉妬、そしてレナートの純粋な憧れを受けるために。
レナートはひたすらマレーナの姿を追う。けして打ち明けることのない、しかしそれだからこそ募る少年の想いは、ほとんどストーカー行為の域にまで達する。しかし、この少年の「覗き」という形を取った「視線」は、マレーナの行く末を追うために必要なものだったのだろう。

夫の戦死により、マレーナはさらに男達の欲望の的となり、実際多くの男達が彼女に近づく。しかしその誠意のなさ、そして町の女達の悪意により、マレーナは窮地に追い込まれていく。さらに戦況の悪化による生活苦も、彼女の転落を加速させるのだ。
この過程での町の人々の描写の戯画的なタッチと、言葉少ないマレーナの悲劇の同居が、なんともアンバランスになってしまったのが、この作品の瑕疵かもしれない。それに加えて、レナートの思春期がフェリーニの『アマルコルド』ばりに展開されるので、トルナトーレ監督はかなり欲張ってしまったようだ。

やがて終戦となり、アメリカ軍が町に進駐してくる。様々なイタリア映画でお馴染みの、市民が戦車やトラックでパレードする米兵を熱烈歓迎する光景がこの映画でも鮮やかに再現されるが、マレーナにとってこの「解放」の持つ意味は…。
それまでは美しく哀れではあっても、無個性にすら見えていたモニカ・ベルッチがここですさまじいばかりの体当たり演技を見せる、とだけにとどめておこう。おそらくハリウッド映画では、ここまでは許されないであろう、とも。
また、「迫害」というものが、どのような人間を標的にしてどのように行われるか、そして、いかに人々が自ら手を下したことに対して口をぬぐうかということを、ここまで冷徹に描いた映画も少ないだろう。

正直なところ、私は『ニュー・シネマ・パラダイス』の大成功以降のトルナトーレの諸作に満足ではなく、『マレーナ』も例外ではなかった。もちろん、『海の上のピアニスト』以外は、どの作品も充分に見る価値のある佳作ではあったが、彼の才能はこんなものではないという期待があるからこそ、苦言を呈したいのだ。
だが、たとえ大成功作でないにせよ、心よりの共感を覚えさせないにせよ、観客のエモーションをここまで掻き立て得るトルナトーレは、やはりただ者ではない。そして『ニュー・シネマ・パラダイス』と同じく惨い現実を描きながらも、最期にささやかな救いを提示もしているのも、この監督らしい。

追記 : 「マレーナ」とは「マッダレーナ」の愛称であるようだが、この作品では、娼婦から聖女になったキリストの弟子マグダラのマリア(イタリア語でマリア・マッダレーナ)を暗示しているものとも思われる。

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2003/09/28

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