「イタリア映画祭2003」寸評

L'ora di religione

母の微笑

 

2002年

監督 ・脚本 : マルコ・ベロッキオ
撮    影 : パスクワーレ・マーリ
音    楽 : リッカルド・ジャーニ

絶対的な唯一神を持たない風土に育った筆者には、苦手な主題の映画である。『母の微笑』は、ロッセリーニ、フェリーニ、パゾリーニ、あるいはスペインのルイス・ブニュエルといった作家たちもこだわり続けた−反発しながらも生涯逃れられなかったと言い換えられるかも知れない−カトリック信仰の深遠を突きつけてくる作品である。
(なお、ベロッキオの処女作『ポケットの中の握りこぶし』も、同じく無心論者による母親殺しというテーマを扱っているとのことだが、筆者は未見)

冒頭、小学生の男の子が「ぼくの頭の中から出て行け」などと独り言を言っているシーンから始まる。いぶかしく思った母親が誰と話しているのかと尋ねると、男の子は「ぼくに命令する神様と」と答える。
この子の父親が、物語の主人公であるイラストレーターでビデオ映像作家のエルネスト(セルジョ・カステリット)。妻子と別居していて、兄弟姉妹たちとも普段疎遠にしていたらしいエルネストは、自分の知らないうちに、亡き母がカトリック教会により「聖女」と認定される計画が進んでいるのを突然知らされる。母親は、エルネストの兄エジディオ(ドナート・プラチド)が神を冒涜する言葉を口にするのをたしなめて、息子に刺殺されたのだった。「無心論者」だというエルネストの戸惑いに、このテーマにぴんとこない我々日本人と合い通じるものはあるのだろうか?おそらくイタリアで無心論者であるということは、我々とは比べ物にならないほどの重みがあるのだろうが…。
妻も含めて親族は皆、「一家から聖人が出るのは、世間的に有利なこと」と、母の「列聖」を歓迎している。カトリックの総本山ローマを舞台にした物語でありながら、人々の宗教に対する対応は、なんとも現代的な乾いたものである。その姿勢は、聖職者たちにすらあてはまる。「聖人」「奇跡」という神秘を一方で残していながら。

ベロッキオはほとんど無表情とも受け取れるタッチで、エルネストが経験する一連の出来事を綴ってゆく。
エルネストの母の名を唱えて病が癒えたと名乗り出てきた男もいれば、息子の学校の「宗教の時間」(原題"L'ora di religione"がこの意味)の先生を名乗ってエルネストに近づいてきた若い女性ディアーナ(キアーラ・コンティ)もいる。そして、母を殺害後、精神病院に収監されている兄エジディオ。彼は相変わらず神を罵り続けているが、エルネストとだけは、情が通い合っているようである。
もう一人、不思議な存在は、エルネストの顔に浮かぶ微笑に侮辱されたと言い出し、決闘を申し込んでくるブッラ伯爵(トニ・ベルトレッリ)であろう。エルネストはあまり動じる様子もなくそれを受け、なんとも時代錯誤な「決闘」は決行される。

筆者にとって最大の謎は、この決闘の原因にまでなったエルネストの曖昧な微笑だ。母親譲りだというその微笑には、ブッラ伯爵だけでなく、何人もの人物が苛立ちを隠さない。
上映前、この作品のプロデューサーが「皆さんのお母様の微笑を思い出しながら、見てください」と語っていたが、一体、それは何を象徴しているのだろう?(イタリア以外での本作品の題名は、「母の微笑」で統一されるとのこと。)

様々な(筆者にとって)不可解なエピソードを羅列させた作品であるが、「列聖」という問題から切り込んで、カトリック信仰が、未だにイタリアにおいて極めて現代的なテーマとなりうることを知らしめていることは、確かである。


Copyright & copy ; 2003 Natsu All right reserved.


2003/05/20

「映画の部屋」に戻る