「イタリア映画大回顧」寸評

危険分子たち

Sovversivi

1969年
監督 : パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ

まず、筆者が1960年代のイタリアの政治・社会や、トリアッティについての知識に乏しいことを、あらかじめお断りしておきたい。或いは、それはこの映画を評する資格がないことを、意味するものかもしれない。にもかかわらず、私はこのタヴィアーニ兄弟の長編デビュー作に感動させられたものであり、ここはひとつ非イデオロギー人間の感想として、読んでいただきたい。

1964年、8月。イタリア共産党の指導者トリアッティの葬儀が執り行われるローマに集った4人の党員たちを描いた一種の群像劇。両親や仕事のパートナーとの確執に悩むカメラマンのエルマンノ。妻がレズビアンであることに気づかされる党の中堅幹部セバスティアーノ。撮影中に発作を起こし、不治の病であることを告知される映画監督ルドヴィーコ。恋人と別れ、軍政下の祖国ベネズエラに帰ろうとしているエットレ。

タヴィアーニ兄弟はドキュメンタリー映画的なテクニック−ネオレアリズモ的手法と呼んでもよいかもしれない−を巧みに駆使し、労働者や知識人が葬儀のために集結し、異様な緊張感が漲るローマの街、1960年代半ばの時代の空気を再現してみせる。しかも、後年の兄弟監督の円熟期を思わせる象徴性、映像と音楽の見事な融合といった要素も既に織り込まれている。

特に前者に関しては、ルドヴィーコが撮影しているレオナルド・ダ・ヴィンチに関する映画がその役割を果たしていて、興味深い。映画内映画でのレオナルドの芸術家としての苦悩は、自らが余命幾ばくもないことを知ったルドヴィーコの生への執着とないまざり、ひいては長編劇映画の監督としての道を歩み始めたタヴィアーニ兄弟自身の、決意表明のようにもとれるのだ。

群像劇としては、すっきりと整理されているとは言いがたい。だが、この混沌とした要素が、若書の作品としての魅力にもなっていて、また激動の時代の空気を伝えるものとなっているようだ。

実は、「イタリア映画大回顧」のカタログでのインタビューで、タヴィアーニ兄弟はこのデビュー作に関して一言で語り尽くしてくれているのだ。「ネオレアリズムという父を殺す必要があったんだね。」実際、カリスマ的指導者であったトリアッティの棺が埋葬される瞬間で映画はラストシーンを迎える。飛行機に乗り込もうとするエットレの「チャオ!」という別れの一言とともに。

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