声の奉仕による極上のテクニック

彼は沈黙のうちに、「ディーヴォ」として、82才でこの世を去った。それが彼の宿命だったのだ。
フランコ・コレッリは永遠に舞台を降りたが、幸運にも彼を生で聞くことの出来たすべての崇拝者の心の中では、生きている。
カルロ・ベルゴンツィのように、親しく接した同僚たちのことも忘れてはならない。
「最も偉大なテノールが亡くなった」とベルゴンツィは吐露した。「乗り越えがたい声の持ち主であり、洗練された潔癖な人物だった。現状に甘んじることができず、常に進歩しようとする、人々の模範となる人だった。よく互いにアドヴァイスし合ったものだ。彼はテクニックについて話し続けた。けして満足することなく、最大の努力を払っていたよ。
あの頃のオペラ界で、名を成すのは大変だった。多くの大歌手がいた時代だったからね。だが、コレッリの資質は、その中でも最高の部類に入っていた。
彼が引退を決めた時に、私は彼の家にあるスタジオを訪ねたのだが、彼は信じがたいくらいにやすやすと"誰も寝てはならぬ"を歌ってのけた。まるで小唄かなんぞを歌うかのようにね。そこで私は言ったものだ "なんで君はやめようとしているんだい?"」

バイオグラフィーと「コレッリのレパートリー」を出版し、テノールと大変親しい関係にあった編集者のジュゼッペ・アザッリは、コレッリの没後、ヨーロッパ全土から訃報は真実なのかという熱心な問い合わせの電話をひっきりなしに受けている。
「私は1976年のトーレ・デル・ラーゴの『ボエーム』も観に行ったのだが」と彼は感動した様子で続けた。「ほんとうに素晴らしい一夜だった。オペラは9時から始まり、真夜中の3時に終わった。聴衆は一向に彼が舞台を降りることを許さなかった」

「ただ尊敬というだけではない」とテアトロ・レージョ財団の監督ジャン・ピエトロ・ルビコーニは語る。
「我々の劇場の舞台に立った多くの偉大なアーティストの中でも、とりわけ彼に愛情の念を抱いています。コレッリ氏の死を心から痛むのは、オペラ愛好者としてでなく、ひとりの人間としての気持ちからもきているのです。テアトロ・レージョは彼の80歳を祝って、ウバルディ市長の手から市の印章を手渡し、高名な「ヴェルディ27人の会」は Il Cavalierato(注1) の称号を彼に授けました」

「パルマ・リリカ」の総裁パオロ・アンポリッーニもまた、パルマの市民のコレッリへの尊敬の念を次のように回想した。
「二十世紀最大のテノールの一人でした。コレッリはその筆舌につくしがたいパフォーマンスによって、パルマの人々に忘れることの出来ない思い出を残してくれました。私はあの素晴らしい『ノルマ』やその他の上演を思い出しています。コレッリ氏は我々のテアトロ・レージョに敬意を払ってくれていました。監督のネーリがキャンセルなどの緊急事態が起こったときに彼を呼んだ時も、いつもかけつけてくれたものです。私は彼の死を知った時にこう思いました "あんな素晴らしい歌手に今後出会うことは難しいだろう" と」

1956年から1978年までテアトロ・レージョの監督を務めていたペッピーノ・ネーリは感動を隠し切れずに語る。
「私はコレッリ氏に関して色々なことを思い出します。彼は親友でした。彼とは1966年に知り合ったのですが、常に彼と我々の劇場はコンタクトを取っていました。
彼が入院していたこの1年程会っていなかったのですが、よく電話で話してはいました。
気安い人ではありませんでしたが、友人のためには身を粉にする紳士でした。パルマ、そしてとりわけ私にはとても寛大な方でした。」

「私は幸運にも彼をよく知ることができました」と写真家のジャンルーカ・モンタッキーニが付け加える。
「私が彼を始めて聴いたのは1967年の『トスカ』でした。私は呆然としたものです。最終幕の下りた後、喝采は10分も鳴り止まず、遂に聴衆は外に出ることを忘れたほどでした。それでマエストロ・エウジェニオ・フルロッティが舞台にピアノを運んできて、コレッリは『カタリ』を歌いました。平土間の聴衆はそれから20分間も喝采を続けたのです。
コレッリはとても内気な人で、甘いものとスポーツカーが好きでした。
彼がキャリアに終止符を打ったとき、コルティナで親しく話す機会を持てました。彼は、舞台に上るときいつも極度に緊張していたことを打ち明けてくれたのです。たぶんこれがまだ素晴らしいフォームを保っていたにもかかわらず、引退に至った理由だったのでしょう」

ジュゼッペ・バレストリエリとクラウディオ・ダル・レのような「コラーレ・ヴェルディ」の合唱団員のメンバー多くも、コレッリとの親交があった。
「これは大きな喪失です」と「コラーレ・ヴェルディ」の指揮者クラウディア・メンドーニは強調する。「コレッリ氏はコラーレ・ヴェルディが主宰する若手歌手のコンクールの総裁でもあり、礼儀正しい紳士でした。彼の80才を祝って、我々の総裁ルーカ・アンバネッリがヴェルディ黄金賞(注2)を授与しました」

アルトゥーロ・トスカニーニ財団の監督ジャンニ・バラッタが次にように締めくくった。
「フランコ・コレッリと会うと、我々の話題は常に若い世代に関するものとなりました。つまりオペラの将来は、次世代のアーティスト育成の分野に長期的な責任がかかっているのですから。彼は若者たちに大きな関心を抱いていました。コレッリが教育者としても大いなる責任を持って、教えていたことを忘れてはなりません。アーティストとしての活動だけでなく、人格形成という面での音楽教育に関心を持ってトスカニーニ財団の活動と発展に従事していました。彼は高名な教師としても、ヴェルディ-トスカニーニ・アカデミアのこのような点での可能性について、熱心に私と話し合ったものでした。

さらにバラッタは回想する。「コレッリの死は、単に偉大なテノールとしてだけではなく、無限の感受性を持って挑戦し、悩み、真の芸術家としてのジレンマと戦ったひとりの人間としても惜しまれるものです。彼は劇場の中での生命の具現者でした。それによって彼は、神話として語り継がれるでしょう」

Gazzetta di Parma に掲載されたMara Varoliの追悼記事の要訳)

注1:「ヴェルディ27人の会」が授与する Il Cavalierato の正式な日本語訳を、ご教示いただけましたら幸いです。。
注1:原文では il Verdi d'oro con l'attestato di stima となっていますが、具体的にどのようなものか筆者には不明です。勲章のようなものと思われますが、こちらもご存知の方がいらっしゃいましたら、よろしくご教示の程お願いいたします。


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