タイタス

TITUS

以下の感想文を書くにあたって、
筆者がウイリアム・シェークスピアの原作戯曲を未読であること、
またその戯曲の元となった史実に関しても知識のないことを、
あらかじめお断りしておきます

1999年
アメリカ
監督・脚本 : ジュリー・テイモア

現代のキッチンで少年がテーブルの上に並べたフィギュアで戦争ごっこをしているシーンから映画は始まる。次第に興奮してきた少年がテーブルをめちゃくちゃにしていると、ローマ時代の戦士が現われ、少年を抱き上げて古代ローマ劇場に誘う…。
そこでは、今しもゴート族との戦争を終えた兵士たちが凱旋したところではあるが、場面は夜、勝利への歓喜の様子はかけらも見られない。
凱旋将軍のタイタス・アンドロニカス(アンソニー・ホプキンス)は戦いで息子の大半を失い、死者の魂を慰めるため、と称して捕らえたゴート族の女王タモラ(ジェシカ・ラング)の長男を殺し、神に捧げた。
この後の物語は、新皇帝サターナイナス(アラン・カミング)に見初められて皇妃にとりたてられたタモラの執拗・残虐なタイタス一族への復讐譚が延々と続くことになる。タモラの秘かな愛人であるムーア人アーロン(ハリー・レニックス)の計略やタイタス自身の頑迷さもあり、タイタスの息子たちが一人また一人と粛清され死に追い込まれてゆく。さらにタモラの次男・三男の手により、タイタスの一人娘ラヴィニア(ローラ・フレイザー)は見るも無残な姿となり、タイタス自身の肉体もアーロンの陰謀で…。このあたりの残虐性は、古代ローマ風の退廃というより、もともと残酷嗜好のあったという英国演劇の伝統のようにも思われる。
興味深いのは、復讐の一念に捕らわれているタモラを巧みにあやつって、悲惨な状況を生み出すことに喜びを感じるアーロンの存在。自分を差別する世の中を冷笑的に見、確信をもって悪を実行するアーロンは、「オセロ」のヤーゴ像に重なる。しかもただの悪役ではなく、ひとりの人間としてきちんと描かれているので、原作者あるいは監督のアーロンへのある種の「共感」が感じられるほどである。
このアーロンの悪の哲学を前にしては、タイタスですら、リア王まがいの血迷った哀れな老人にしか見えなくなってくる。ただし、タイタスのリベンジが始まってからは、生き返ったかのようにアンソニー・ホプキンスの面目躍如、「ハンニバル・レクター」のパロディ演技まであり。
対するタモラ役のジェシカ・ラングは毛皮をまとったゴート族の女王のときは母性の塊のようだったが、ローマ皇妃になってからは往年のシルヴァーナ・マンガノやイングリット・チューリン風の退廃美を見せ、悪女演技全開で、ホプキンスと互角以上に渡り合っていた。

舞台出身で、これが映画初演出だという女性監督ジュリー・テイモアの腕のふるいどころと思われるのは、古代ローマ風のセット・衣装も用いながら、現代的な要素も随所に取り入れているところ。最初に現代から連れてこられた少年はその後もずっと目撃者としてとどまり(さらに彼は、いつしかタイタスの孫として物語にも加わるようになる)、また現代のローマ(ムッソリーニが建設した都市エウルEURを多用)をそのままの背景に現代風の衣装・車・戦車等も登場。
特に前皇帝の死後、新皇帝に立候補したサターナイナスとその弟バシアヌスが車に乗って選挙運動するところが、面白い。選挙演説の際には、「S.P.Q.R.News」と記されたマイクロフォンを使っているのだ。

S.P.Q.R

Senatusu Populusque Romanus
元老院とローマ市民

を意味するラテン語の頭文字で、古代ローマのモットー。

サターナイナスの宮殿での酒池肉林風景は、明らかにフェリーニ風。というより、ここにかぎると、フェリーニの「サテリコン」そのまま。若干現代風味付けをしてはいるが。
ちなみにこの映画の美術を担当したのは、フェリーニ、パゾリーニにも起用されていたダンテ・フェレッティ。この分野(?)でのフェリーニの構築した退廃美のイメージは、絶対的なものとなっているようだ。

とにかくここでは、古代ローマもシェークスピアも、新人監督テイモアが自分のイマジネーションを披露する材料として料理したものであることは確かだ。アイデア先行気味で、イタリア語でいうesagerato「やりすぎ」の感は免れないが(全盛期のフェリーニは、esageratoになる手前で、見事に遊んでいたものだった)、次回作はメキシコの女流画家フリーダ・カーロの伝記映画とのこと。テイモアの才気がどのように発展するか、もう少し見守ってみよう。

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