鞄を持った女 

La ragazza con la valigia


1961年
イタリア
脚本 : レオ・ベンヴェヌーティ、エンリーコ・メディオーリ、ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ、ヴァレリオ・ズルリーニ
監督 : ヴァレリオ・ズルリーニ
撮影 : ティノ・サントーニ
音楽 : マリオ・ナシムベーネ


ヴァレリオ・ズルリーニ(1926-1982)は、けして華やかな多作家ではないながら、1950年代後半から1970年代前半にかけて、今なお忘れがたい何本かの佳作を残している。その作風は、叙情的であると同時に、多くの戦後イタリア映画の例にもれず、リアリズムに裏打ちされ、また社会意識にも不足しない。
興味深いのは、ブルジョワジーの未亡人と年下の青年のラブストーリー『激しい季節』(1959年)と、貧しい庶民の兄弟の物語『家族日誌』(1962年)に挟まれた『鞄を持った女』は、二作の橋渡しをするような位置にあることだ。『鞄を持った女』では、ブルジョワの少年と社会の底辺に近いところで生きる若い女の人生が、ひととき接点を持つ。

男の甘言に騙されたキャバレー歌手アイーダ(クラウディア・カルディナーレ)が、まるで犬か猫のように路上に置き去りにされる導入部から、観客は物語の世界に引き込まれる。男の跡を追ったアイーダは、パルマのまるで宮殿のような大邸宅にたどり着く。居留守を使った男の代わりにその弟ロレンツォ(ジャック・ペラン)がアイーダを迎えた時から、兄は物語の世界から消える。これから後は、16歳の少年ロレンツォの目から見た世界がすべてになる。
母は既になく、父は仕事なのか家に不在、厳格な叔母の監視下にあるロレンツォが年上のアイーダに惹かれたのは、あるいは母性を慕う気持ちであり、あるいは軽い反抗心であったようにも見える。確かなことは、16歳にしてはかなり幼げなロレンツォが大人の世界の扉を開くことになったきっかけが、アイーダにあったことだろう。
ロレンツォは、安宿に泊まり困窮しているアイーダを親切心(そしてささやかな冒険心)から留守宅に招き、アイーダにバスルームを使わせてやる。入浴を終えバスローブを身にまとったアイーダが階段を降りてくる時に、ロレンツォがヴェルディのオペラ『アイーダ』のアリア「清きアイーダ」のレコードをかけるシーンは、あらゆる映画の中で引用されたオペラ・アリアのシーンの中でも、もっとも美しいものだろう。アリアの歌詞のとおり女王のように階段を降りてくるアイーダを、憧れに満ちた表情で見上げるロレンツォ。恋心の芽生える瞬間を見事にとらえたショットである。

しかし、初めての恋心は、すぐに初めての嫉妬心をも招くことになる。ロレンツォはかき集めた金で一流ホテルに移してやり、ドレスもプレゼントしたアイーダが、金満紳士たちの誘いに乗っている姿を見ることになる。
そして、元働いていたリミニのキャバレーに戻ろうと画策を始めたアイーダを手放すまいとするロレンツォの重ねる幼い嘘…。今にもリミニに向かう列車に乗ろうとするアイーダを必死で引きとめようとするロレンツォ。二人がパルマの駅の食堂で話し合うシーンが素晴らしい。まだ若かったカルディナーレとペランから見事な演技を引き出した演出力にはうならされる。
この後、ロレンツォの家庭教師である神父(ロモロ・ヴァッリ)が介入してきて、「真実」という名の「大人の事情」をアイーダに突きつけ、身を引かせる展開は、物語の展開として、ややご都合主義か。

しかし、「真実」はロレンツォを成長させる。リミニに帰ったアイーダを追ったロレンツォを待ち受けていたのは、大人の男の手による「暴力」という通過儀礼だった。その後、ロレンツォとアイーダ浜辺で身を寄せ合うシーンは、こよなく美しい。
だが、少年の憧れが大人の男の愛に変わった後に、彼がアイーダに報いた方法が、結局他の男達と変わらなかったという、なんという苦い結末。それが他の男達よりは、はるかに思いやりに満ち、ロレンツォに出来た最良のこと、とはいえ。
初恋の瑞々しさと、人生のほろ苦さを愛情深く見守りながらも、客観的に描ききった、文字通り忘れがたい作品である。



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2006年12月14日

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