2006年春 イタリア旅行記


4月27日(木)晴れ時々曇り
トリノ→クールマイヨール




前夜、エールフランス機で、パリ経由トリノ着。
トリノ滞在中は、友人から実家とは別にあるアパートを、私一人で使わせて頂くという有難い申し出を受け、ご好意に甘えました。アパートの建物は、築110年ということで、いい感じに味わいが出ていましたが、友人の部屋の内装はリフォームしたばかりで、まことに快適に過ごさせて頂きました。この場を借りて、お礼申し上げます。

まず、旅行の実質初日にあたる4月27日は、午前中にトリノを発ち、列車でアオスタに出て、そこから長距離バス(プルマン)でクールマイヨールに向かいました。
昨夜、母に無事到着の連絡をかけたところ(ヨーロッパでも使えるローミングサービスの携帯を持参)、旅行代理店から一旦OKの出ていたクールマイヨールのホテルから断りの連絡が入り、代わりにHotel Berthodというホテルをおさえたとの報を聞いていました。いずれにせよ、スキー・シーズンと夏のヴァカンス・シーズンの谷間の4〜5月は、イタリアン・アルプスのクールマイヨールは、オフシーズンでほとんどのホテルが閉まっているとのこと、いささか不安を抱えての出発でした。

トリノ→アオスタ間の車中で、日本人のご夫婦と偶然隣り合わせの席になりました。年金生活に入り個人旅行をしているご夫妻で、やはりクールマイヨールに向かわれているとのこと。現地までご一緒することになりました。
プルマンの乗り換え待ちで、アオスタのカフェで一服していたら、テレビからイラクのナッシリヤでイタリア軍が襲われ、死者が出たというニュースが…。

プルマンに乗り、クールマイヨールまで1時間。車窓が次第に山岳地の景色となって行きました。山が迫ってき、いたるところに川や滝、そして集落には、かなりの歴史を経てきていると思える塔が見られました。塔のある建物は、教会だけでなく、小規模ながら城のようでしたが、こんなにたくさん残っている地方は、イタリアでも珍しいように思われました。しか、プルマンはスクールバスのように今どきの子供たちが乗り降りして、現在も生活が営々と続いていることが窺えます。

クールマイヨールのバスターミナルに着いて、インフォーメーションの前の看板のホテルの一覧を示した看板でHotel Berthod(http://www.hotelberthod.com)を見つけ、電話したところ、確かに私の名前で、予約が入っているとのこと。ご一緒したご夫妻もこちらに宿を取ることになり、坂を昇って2,3分無事宿に着きました。 バス・朝食付で70ユーロで、地下には無料のサウナがあります。しかし、宿泊する部屋備え付けのタオルはサウナに持ち込めないので、トリノにスーツケースを残して最低限の荷物しか持ってこなかった私は、今回はサウナは断念。


夕方、街を散策してみました。チェントロ(中心街)といっても、山の中腹にあるVia Romaなるメインストリートが一本のみ、という感じでした。かなりの高級品を扱うお店が軒を連ね、ウインドウショッピングも楽しかったのですが、なんといっても街の中から、ごく普通にアルプスの山々が臨めてしまう、ということが素晴らしい。広場が展望台のようになっていて、写真やテレビで見知っていたアルプスの風景が当たり前のように目の前に広がっているのです。

ただし、モンブラン(イタリア名:Monte Bianco)は、これらの近くの山々に隠れて、街からは見えません。


街の一番の中心と思われる広場には、プルマンの車窓から見たのとと同じように、塔のある古い教会が建っています。この広場は山々に向かって展望台のようになっていて、お年寄りや子供たちががベンチで夕刻のひとときをベンチに坐って過ごしていました。広場の側の建物の壁には、高度1,200mと記されたプレートや時代物の日時計が刻まれています。また、1900年の日付のある遭難者慰霊碑(こちらの写真の右下の十字架がそれです。その左の白いプレートが日時計)やアルプスガイド協会の本部の入っている建物に、この土地らしさを感じさせられました。

夕食は、Via RomaのLa Pizzettaというピッツェリアで摂りましたが、ただでさえ巨大なピザな上に、疲れが出てきたかはたまた高山病か(1,200ぐらいでは、起こらないかな?)、気分がすぐれなくなってきたので、半分ほど残してしまいました。カメリエーレのおじさんに謝ったら、"Giapponese!"と一言。日本人には量が多いということが分かっているということは、スキー・シーズンなどには、日本人観光客が珍しくないのでしょう。

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2006年7月15日

→4月28日(その1)に続く

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