angel's cheek
1st night
大晦日。21時45分。 どこか居心地の悪い空気が漂っていた。 手伝うといったけれど、隣にいたほうが微妙に邪魔になっているような気がして、 所在無く、台所とリビングをうろうろしていた。 そんな俺とは対照的に慣れた仕草で、ガスの前に立つ不二。 濃いブラックのリーバイスにオレンジのネルシャツの袖を折り畳んだ、その腕、その先に握られているのはラケットでも何でもない。 その手に握られているのはシルバーの杓子だった。 なんて似合わないような、似合うような…。まさしく意外な光景だった。 もともと俺は自宅の台所すら、あまり立たない。 うちは母が基本的にてきぱきと処してしまうため、俺や父の出番はない。せいぜいビンや缶をあけるときくらいしか呼ばれない。男なんて未だそんなモンだろう、と思っていた。 だが、不二の家はちょっと違ったらしい。 今、不二の目の前でガスにかけられているのは、ティファールの鍋。 中身はそばつゆ、になるものらしい。そばつゆって、こうやって作るんだな。 砂糖をあめ色になるまで焦がしたあと、不二は湯を一気に注ぎ込んだ。そこに鰹節と煮干をばさばさといれる。 まるでオガクズのようにみえる荒削りの鰹節が湯の中に舞い落ちていく。 「手塚、そっちの宗玄酒とってくれる?」 振り向きもせずに、不二の左手がちょいちょいと左手奥のワインセラーをさしている。 正直いって、ワインセラーも生まれてはじめてみた。 ガラスケースの中にはさまざまなラベルのワインが綺麗に陳列されていて、ちょっとしたディスプレイのようだった。 たくさんのワインの中に、いくつかの日本酒ラベルがならんでいる。 「これか?」 「違う、その3つ隣、緑の…そう、それ」 達筆な文字で書かれたラベルからかろうじて「宗」の字がみてとれる瓶の、その金色の栓を抜き、渡すと、不二は高そうなその日本酒を鍋に惜しみなく注ぎこんだ。 酒の中にはキラキラとした金粉がこぼれている。金粉入りだ。 そして、それを気にすることもなく、くるくると杓子で鍋の中を金ごと混ぜている。随分と高いつくそばだな。 「本当なら先にダシだけをとるんだけどねー。面倒だから、具にしちゃって食べちゃおうよ」 「あ、ああ」 実際、何を言われてるのか、よくわからないまま返事をしてしまうと、それを察した不二が俺を見上げて笑う。 いい遊び道具を見つけちゃったよ、って顔だ。 「はい、味見してみて」 差し出された小皿に漂う汁を口に含む。 醤油と、ほんのり飛んだ甘いアルコールの香り。そして、焦げたカラメルの苦味。 どれもが微妙に、うちで食べる味よりも濃い感じがした。でも、うまい。 「濃いかな?」 「あ、そうだな。少しだけ…」 「んー手塚んちはおじいちゃんがいるから多分薄味にしてるんだよね」 少しずつ、湯をさして調整している。うまいもんだ。 「これくらいかな。後からそばがはいるとまた少し味が薄まるからね」 「不二はいつも料理の手伝いとかするのか?」 「頼まれれば、するよ。でも簡単なことくらいしかできないけどね」 簡単、なのか?? これ。 ぐらぐらと湯立つ鍋を覗き込む。鍋の上に顔を翳した途端に、もやあ〜っと湯気が一気に立ちこめてきて眼鏡を真っ白に曇らせた。くい、と左腕をつかまれ、引き離される。 「なにしてるの」 「いや、すごいな…と思ってな。俺には到底できない」 「手塚だってインスタントラーメンくらい作れるだろ?」 「そりゃ…それくらいは…」 「なら平気だよ。料理は化学みたいなものだもん。手塚だったら、少しやればあっというまに覚えそう」 そんなことをいいながら、不二が差し出してきたのは直径8センチくらいの小さな網杓だった。 平たい、金魚掬いでもするような、網杓。これで何をするんだ? 「鰹節だけ掬って捨てちゃって」 「煮干は残していいのか?」 「うん。やっぱり鰹節が汁に浮いてるとなんか見た目がよくないや」 「見た目?」 「だってオガクズが浮いてるみたいじゃない」 やっぱりそうだよな。鰹節ってオガクズみたいにみえてて正解らしい。 自分の感性になんとなくホッとしつつも、言われたとおりに湯立つ水面に斜め45度から、そっと網杓を差し込む。 そのまま、踊るまわる鰹節を救い上げようとした途端、ぐらぐらと沸騰した湯の泡にせっかく救いあげたはずの鰹が汁の中に流されていく。 これは…へたにラケットを扱うよりずっと難しいぞ…。あまり深く差し込みすぎると沸騰した気泡に採られる。 何度か挑戦しているうちに、だんだんとコツをつかんできた。これはさっと杓を入れたら、間髪いれずに拾い上げないと駄目ってことだな。 「そんなに神経質に綺麗に拾わなくてもいいからね。目立たなくなる程度でいいから」 台所に2人並び。 隣で不二がさくさくと、ゆっくりとした音を立てながら浅葱を刻んでいる。 うちでみる薬味よりも、ずっと大きく刻まれた浅葱のかけらが床にぱらぱらと転がり落ちる。 「細かく均等に切るのって、案外むずかしい !」 トン、トン、トン…と遅いながも着実に、少しずつ少しずつ切っては5ミリずつ、野菜を押さえる指先をずらしていく。 本来ならもう少し細かいほうがいいのだろうが、これが不二の精一杯らしい。真剣な顔付で、浅葱に立ち向かう不二の姿なんて、なかなかみれるものではない。 これくらい真剣に試合もやってくれれば、俺の苛立ちも半減するんだが…。 どうにも不二には試合に全神経を集中できない、どこか醒めた気まぐれさがある。 それは本人も重々承知していて、なおかつそれを直したいと思ってもいない節がある。 それは俺の今後の部長としてやっていくであろうことを考えると、ある意味ひとつの悩みどころだった。 「なに?」 「それくらい真剣にやってくれたらな…と思ってただけだ」 「君の腕とかがきちんとなおってくれたら、少しは楽しめるんだけどね。早く直してくれないと退屈で死にそう」 こぼれた浅葱を拾いながら、不二の背中が笑い揺れる。 ある意味じゃ、不二以外にはいえない台詞にため息すらつけない。 「あ、煮干はのこしておいてよ。カルシウムになるんだから」 「はい」 目ざとく網にひっかかったままの煮干をチェックされる。みてないうちに、捨てておこうと思ったんだが…。 無理だったか。 「英二たちは僕たちがこんなことしてるなんて思ってもいないだろうね〜。ましてや手塚が料理の手伝いしてるなんてさ」 「まさか自分でそばを作るなんて考えてもいなかったからな」 「えー年越しそばを食べなきゃ大晦日な気分が半減だよ」 「そんなものか?」 「そんなものだよ ! 」 正直いって、インスタントでもよかったんだがな。 気分の問題で、どうしてもつくりたかったらしい不二は包丁だけは慣れない手つきのまま、肩に力を入れ、 俺より細い背中を丸めて、こつこつと、きり続けている。 蒸せるカラメルの匂い。立ち込める湯気のぬくもり。 こんな穏やかな夜。 特別な夜。 誰もいない夜。 ひとつひとつがとびきりのスパイスのようなものだろう。 みたことのないいろいろな姿を、こうしてひとつずつ、知って、確かめていくのもいい。 気ばかりが逸る年の瀬に2人で、こうして静かに。 ふたりきり。 top |