angel's cheek
1st midnight


九段下から、もみちゃになって帰宅したとき、僕たちはひどく緊張していたと思う。
それはもう僕だけじゃなかったと思いたい。

昨日までの年の瀬とはまったく違う、奇妙なほどに静まり返った近所の雰囲気。
確かに毎日歩く場所なのに、こんなにも誰もいなくなるものなの?
それくらいに誰一人もいない夜だった。
水のようなとろける雪の歩道に、伸びる影がふたつしかなくて…。

めずらしく、東京に雪が降った大晦日にふたりで足跡を残しながら帰る道。
ただほんのりとぼんやりと滲む月を雪影にみつめてた。
ただふたりきりで、手をつないで歩く帰り道。風が出てきて、頬をなでる。
心から冷える気温を感じながらも、すがりきれない矜持もあった。
どこかに逃げ出したくなるような気持ち半分。それはもう否定できない。
ただ、逃げたくない気持ちにもなっていた。
こんな風に思うような日がくるなんて、考えたこともなかった。
霞む空をみれば、明けの月が淡く暮れる。
夜が終わる。

夜遅くに華やかに開催されているnew year コンサートの中継を見ながら、2人寄り添って、ぼんやりとしていた。
電気を消してしまった室内をほのかに照らすのは、テレビから射すデジタルな明かりだけ。
まるで夜の水槽のように漂ってる。
着飾った紳士淑女の群れ。巻き起こる拍手。喝采。
すべてが今、地球のかなたで同じ時間に繰り広げられている光景だっていうのに。
なんだか実感がない。
ウィーンフィルの奏でるヨハン・シュトラウス。
華やかなワルツ。重なるメロディ。
2人して、ただ安らかにほどの鼓動を背中に感じて、体温がどちらともわからなくなるくらいに。
背中から抱きしめる腕に、何も答えることなく、ただ身を寄せている。
実感があるのは、ただこの温もりだけだなんて。
大切そうに触れてくれる指先を感じる。
丁寧にもう乾いた髪をなでてくれる。
伸びた髪をいつまでもずっと梳いてくれる指先。
それはくすぐったいほどにやさしくて、目を閉じて、このまま、何も考えたくなくなる。
もう、できれば何も考えなくてもいいくらいにしてほしい。
そうだね。
そろそろ、君と近づく時間だとおもう。
2人で寄り添って、新しい年の始まりを感じる。
ただ、君をすきだとおもう。
僕はほんのわすかしか生きていないのかもしれないけれど、こんな日々がずっと続いてくれれば…と祈ってること。
それは認めるしかない現実なんだから。

「こうして、この指が触れてるのが本当に正しいことなのか不安になるな」
「正しくなくてもやめる気なんてないくせに…」
「そうだな」

暖かい掌を頬に感じて、身がすくむ。仕方ないじゃない。このおびえは僕だけじゃない。
ちゃんと聞こえる鼓動。ほら、どちらも早いだろう?
隠し事なんて出来ない距離にいて、2人でいつまで戸惑ってるつもり?
さらわれるままに、慣れた香りのするベッドに転がる。
今からふたりで落ちていこう。
震えているのは僕のほうなのか?それとも…
風が窓を揺らす。カタ、とほんの少し鳴っただけの音にすら跳ねる。
無意識の怯えを振り払うように軽く口付けられるのは幸いで…。
少し高めに設定したエアコンに晒される喉に濡れた唇の伝う熱を感じる。
自然と背中に緊張が走るのを宥められるように摩られ、支えられて、倒れこむと天地が逆になる。

「手塚って案外手が早いんだよね」
「そうかな」
「そうだよ」
「お前をみているとおかしくなるんだろ?」
「ひどい、僕のせい?」
「俺が悪い」

いつもなら、嵐のように抱き込まれ、慌ててしまうのに。
なぜか今日の手塚は違ってた。
きちんと着込んでいたはずのパジャマが乱れてくる。かき寄せたくよるのは無意味な抗いというか、条件反射だ。
手塚が着ていたタートルのセーターを脱ぐ姿を見上げながら、なぜだろう…やっぱり君を好きだと思う。
おかしいね。
ほんとうに、ぼくたちはおかしい。
おかしくなるくらいにお互いのことしか見てない。
じっと視線をあせて、逃げることもなく、まるでみせつけるように僕の手をとり、自分の手と重ねる。
つい震えて腕を引くけど、それはもうやわらかく握られた手塚の手にさえぎられた。
綺麗に重ねられた手に手をそっと頭の横に畳まれるともう僕じゃ抵抗できない。
手塚の瞳には覚悟したつもりでいた癖に困惑気味の顔の僕が映っている。
そっと眼鏡に手を伸ばすと、照れたように笑う。
そんな顔、きっと僕しか知らない。
抱きしめて、もう一度。その腕にすべてすてて縋ってみる。
手塚はいつも丁寧に触れてくれる。溢れる思いを自制してくれているのはわかってる。
どきどきと打つ胸の鼓動はなにより正直だ。

「なんだか恥ずかしいかな」
「俺もだ」
「そうかなぁ?」

胸元に感じる、その髪の感触がくすぐったくて、ついぐずると許されない痛みがチリと感じる。
感じる痛みは痛みで。ただそんなことすら僕たちはふたりで知った。
享受する唇と何度となく、触れ合う。
繰り返し、触れて。
乾いた皮膚が濡れるまま、手塚の左肩に寄せる。
傷ついた欠片を癒すように、何度かキスでついばむ。それでなにが癒されるわけでもないけれど。
それだけで彼の鼓動が早くなる。
それを確かめて、聞いて…。
耳を閉じて、目を閉じる。それは甘美な誘惑の音。
ただ君を好きだとおもう。
心から。
長く少しだけ硬い指先が遠慮がちに僕の夜を暴き立てようとする。
摺れる指先を口に含むと、手塚が震えた。
その無意識に戸惑う背中を両手で抱きしめる。
ああ、何も隠すことなく、もうお互い何もかも分け渡そうよ。
今年最初の夜をふたりですごそう。
素直にそう思ってるよ。
どきどきと打つ胸の鼓動はなにより正直だ。
ほら、聞いて。
耳を閉じて、目を閉じて。ただそっと…
それは甘美な誘惑の音。
君がいたずらに戸惑う掌で僕をやわらかくするんだ。
戸惑いは触れ合った瞬間の体温の違いだけで、もうこのまま、混ぜあってしまえば、いずれ何がなんだかわからなくなる。
すべての神経がなにもかも過敏になってるようで、いちいち反応してしまう。
誰もいないのに。
隙間なく抱き合う皮膚に差し込まれる掌に当たり前に慌てるけど、当然、許されるはずもない。
焼けるように背中があつい。それはもうどこもかしこもが熱を放っているみたいだった。
なんとか声をあげないように、といつもなら結ぶ唇も、つい解けてしまう。

あぁ。

つい耳元で溶けた吐息に、急に驚かれてしまう。
一度解けた声は抑えられなくて。
指先が僕の快感の底を探る程に零れた。
これはいつものぼくじゃないよ。
手塚。
信じて。

言い訳めいた弁解も出来ずにもう5センチも離れていない瞳をみつめた。
いつのまにか流れていた涙で歪んだ視界。
いつもの余裕なんて何処にもない、紅潮した頬に、わずかに刺す笑み。それだけでもういっぱいになる。
手塚の両手が、頬が触れて、耳元に口付けられると堪えられない震えが走った。
それよりもすぐ近く伝うような低い声で囁かれる。

「今から俺しかみないでくれ」

耳朶につう、と射す針のような痛み。振り払うと飽きることなく差し込まれる触手に翻弄される。
心が乱れるまま、わけもなく何度もうなずく。
もう、離されることなく結ばれた左手にかかる重みに頬が埋もれる。
寄せられた頬と、やわらかい髪。
はっきりと答えたつもりの声は隠せない悦びにみちてしまう。
いいよ。一緒にもうなにも考えられなくなるほどに君しか感じない。
君に恋してから、僕はもう僕じゃなくなっている。
本当の自分なんて何処にいるだろう?
これが自分だっていうなら僕はきっとふたりいるんだよ。
今はもう君しかみえないから。
言葉ではもうごまかしたりしない。何も隠せない。この瞬間なんて、ほしいものなんて何もない。
ただここでずっと君の情熱を感じるまま、受け止めていよう。
ほら、流れる調べも乱れる。
触れるまま、に。


こんな風に思うような日がくるなんて、考えたこともなかった。
きっと窓の外には、明けの月が淡く暮れる。
夜がおわるよ。
ただ君とずっとこのまま一緒にいたい。

これからも。
ずっと。






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