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神夢[K-Dreams]の歴史  −1995年(平成7年)−

1995年の冬。

当時、あるチームのコーチだった中本に、

このままコーチ業で終わらせたくない!選手としてバレーボールがしたい!

という気持ちが芽生えた。

そして神奈川には男子バレーボール部が無い事を知った中本は

神奈川ろうあ男子バレーボール部の旗揚げを決心し、

自らバレー部を設立しようという運動を始めた。

こうして神奈川ろうあ男子バレーボール部の旗揚げを目指し、メンバー集めの苦労の日々が始まった。

しかし、バレーボール経験者が見つからず、バレーボールを愛する同志も身近には少なかった。

その頃はサッカーや野球ブームであり、バレーボールに興味を持つ人々は皆無であった。

バレーボールというスポーツはまだまだマイナー的なものであった。

中本は神奈川に引っ越して来てまだ2年目。友人関係などが少なかった事が大きな問題でもあった。

色々と悩んだ結果、まずは身近な友達に積極的に声を掛け回った。

「バレーボール、興味ある?」、

「バレーボールをやりそうな友人がいたら紹介して下さい」

友人関係を広げていくためにもあって、色々な活動にも積極的に関わっていった。

声をかけた人数は20人以上は越えた。が、バレーボールに興味を示してくれたのはわずか4人だった。

その時のメンバーが、中本西川古川脇園であった。

その人数だけでスタートすることになり、バレーボール経験が無い人にバレーボ^−ルの楽しさを理解してもらうために練習日を設けたり色々な工夫をした。 しかし、二人しか集まらないこともあり、「我々は一体、何をやろうとしているのか?」と自分自身に問いかけることが幾度もあった。

そんな日々が流れ、神奈川県に男子バレーボール部を設立しようという噂が広まり、自分から見学したいという人が増えてきていた。

浅香田中らであった。

見学者のほとんどはバレーボール経験がなく、バレーボールってどんなスポーツなのか好奇心から来てくれた人が多かった。

1年間、駆け回った中本の執念の説得は無駄にならず、実になった。

その結果、バレーボールをやってみようという人たちが入ってくれ、何とかメンバー12人集まり、

奇跡的にも神奈川ろうあ男子バレーボール部の旗揚げをあげた!!


神夢[K-Dreams]の歴史  −1996年(平成8年)−

1996年。

入部したメンバーのほとんどがバレーボール経験が無い人だった為、ほとんど基礎練習をやる事が多かった。

練習日は週末の土曜日・日曜日に、時間は9時から17時までとかなりハードな練習であった。

練習も順調に進むなか、大会の経験を積む事も考え、関東ろうあ大会に出場する事に決定した。

いよいよ関東ろうあ大会が迫ってきた矢先、

メンバーの一人、加藤がバイクを運転中、左折ランプなしで左折した車と接触事故を起こし、病院に運ばれた!!

一命はとりとめたもの、しかし加藤の関東ろうあ大会への出場は絶望となり、大会当時は事故を知る主将らは大会初めてでもある何も知らないメンバーに本当の事情を隠したままで出場した。

当時、加藤は神奈川男子バレー部の中では一番最大の身長であり、センターとして、攻撃の軸になるチームの武器になる人でもあった。

このチームの中で最年長でもあり、若いメンバーからはお兄さんのように慕っていた加藤と一緒にプレーをする事が出来なくなった悲しみを耐え、事情を知っていたメンバーは加藤のためにも奮い立たせることを約束した。

関東ろうあ大会の初出場で、メンバーらは緊張のためか、栃木チームに1セット目を奪われてしまうが、ここで若さを発揮し、2セット目を取る!しかし、3セット目はスタミナ切れで惜しくも敗れてしまった。

そして、大会終了後、加藤がバイク接触事故により、もう二度とバレーボールが出来なくなったことを初めて知らされたメンバーはショックを隠しきれなかった。

(バレーボールをしたいのに出来ない加藤への想いを込めて加藤が持っていた背番号””は神奈川ろうあ男子バレーボール部の永久欠番とした。)

これを機にメンバーらの絆は強まり、猛練習をし、全国ろうあ大会では神奈川ろうあ男子バレーボール部設立以来、初めての1勝を挙げ、2回戦進出を果たした。が、強豪・神戸チームにあっさり負けてしまう。

その悔しさをバネに来年に向けて、よりハードな練習が始まった!!


神夢[K-Dreams]の歴史  −1997年(平成9年)−

1997年。

 前年度メンバーだった脇園・高橋・荻野・加藤が事情により退部し、メンバー減少の危機に陥るも、

パワフルな新人田原!中本・西川の母校でもある筑波技術短期大学のOBである新人が大勢加入!

更に元東京都チームメンバーであった浅富と品川が我がチームに手伝いに来てもらいながら、その熱い!本格的な指導でメンバーは浅富に監督を要望

こうして浅富監督が誕生した!

浅富監督のもとで厳しい練習にも耐え、その成果もあって、関東ろうあ大会では東京都チームはベストメンバーではなかったにしても我がチームはまだ設立2年目。接戦の末、東京都チームを倒し、

初優勝!!

更に西川がMVP賞、成恒がスパイク賞を受賞!!

その夜の祝勝会で、皆でわいわいと優勝カップの回し飲みで美酒に酔いしれた。

関東ろうあ大会で自信をつけた神奈川男子バレー部は、この勢いで全国ろうあ大会でも上位を目指して猛練習するが、

全国ろうあ大会の3日前にアクシデントが起きた!

ベストメンバーの一人であった古川が足を怪我しギプスをはめることになったため、全国ろうあ大会に出場出来なくなった。

そのためチーム戦力ダウンは免れない厳しい状況になった。 去年の悪夢が再びチームを襲う・・・。

全国ろうあ大会では常勝チームの大阪チームと当たり、1回戦で敗退した。


神夢[K-Dreams]の歴史  −1998年(平成10年)−

1998年。

前年度監督だった浅富は品川と共に東京都チームの選手に復帰したため、西川を主将に迎え、中心にやっていくことになる。

前年度メンバー星・田原が事情により退部、そして田中が今年は身障国体チームに専念したいと休部。

入れ替わりに村木・中森・平田の大物新人が加入。

村木・中森は長身を生かしたブロックを武器とし、平田は速攻タイプでトス廻しを武器とする頼もしい新人であった。

装いも気負いも新たにするために”神奈川ろうあ男子バレーボール部”の名称を[K-Dreams]に統一することにした。

ここにK-Dreamsが誕生する!!

今年で初めて身障国体に出たいとメンバーのもあり、我がチームは神奈川県統一チームで参戦したかったが、

協会等の意向により県内で県・川崎市・横浜市と三つに分ける事になり断念

メンバーはそれぞれ川崎市チーム、横浜市チームに参加し出場。(県にはメンバーの都合で不参加。)

横浜市チームは1回戦で敗退するも、川崎市チームは古川主将の戦略的な指示でチームをまとめ、見事国体3位に導いた。

しかし、この時期はほとんどのメンバーがK-Dreamsと国体チームとの掛け持ちだったため、練習方法などのトラブルや考えのすれ違いが生じてチームワーク的に苦しい状態だった。そんな状態のまま、関東ろうあ大会に臨む形になる。

関東ろうあ大会では東京都チームは前監督だった浅富・品川が選手に戻ったため、ベストメンバーで参戦。

その相手に1セット取るも惜しくも敗退、準優勝となる。ちなみに中本がサーブ賞を受賞

この大会でベストメンバーの東京都チームから1セット取った事が自信となり、その気持ちで全国ろうあ大会に臨むも・・・魔物がいたのか!? まさかの1回戦敗退。

いろいろ敗因を語り合い、初心に戻り、来年に向けて雪辱する事を誓い合った。


神夢[K-Dreams]の歴史  −1999年(平成11年)−

1999年。

 前年度監督的存在だった西川主将、永野・村木は都合により退部。

また神奈川男子バレーボール部の創設者・中本も身体の都合により休部となった。

それと入れ違いに前年休部だった田中が復帰!そしてこの後新しく若手のエースになる伊藤が加入!!

 当時、後継者なる若手が少なく、若手を育てる事もあった為、皆で支えてやっていく事にして当時一番年下のを推薦して主将に据える。

しかし、色々なコミュニケーションのずれが度々発生し、チームワークがなかなかまとまらず、人間関係も次第に悪影響が拡がりつつあった

この年の身障国体はどうしても統一チームで出たい気持ちが強く、それを皆で支え合い、色々頑張った結果、

K-Dreams全員が川崎市チームとして参戦出来た!

しかし、精神的な脆さが出て初戦敗退、前年の全国ろうあ大会の悪夢が再びK-Dreamsをどん底に落とす。

その頃、身体の都合の為、休部していた中本はバレー部員の熱い気迫と声援、激励と、

自分はバレーボールがすごい好き!!

という気持ちがだんだんと強くなり、奇跡的にも身体の方もみるみる回復し、身障国体予選後、休部を解け、K-Dreamsに復帰した!!

その後の関東ろうあ大会では参加チームが我がチームと東京都チームの2チームのみ。

初戦が決勝戦となり、1セット取るも惜しくも敗退、準優勝

ちなみに古川がサーブ賞、田中がレシーブ賞を受賞。

しかし前年度全国ろうあ大会からずっと負け続けている・・・

勝ちたい!連敗から脱出したい!

そんな気持ちがいつの間にかチーム全体の精神的不安要素になり、全国ろうあ大会でも予選リーグで再三、東京都チームと対戦し負け、次に兵庫にも負けてしまう。

これで前年度全国ろうあ大会で愛知チームに負けてから5連敗

戦力は十分に有りながらもバレー部設立以来、初めて一年間の公式戦で一勝も出来なかった予想だにしなかった最悪の結果で終わってしまった・・・。


神夢[K-Dreams]の歴史  −2000年(平成12年)−

2000年。

前年度主将だった泉は都合により退部、当時攻撃の要でエースであった成恒も自分のバレーボールをもっと生かせる居場所を求めて、K-Dreamsを退部し、ライバルの東京都チームに入る。

そして前年度退部した西川がK-Dreamsに復帰。そして身障国体の元川崎市バレーボール部だった守田が加入。

”去年と同じ過ちを繰り返したくない”

”今までにないやり方を投入したい”

と宣言していた平田が主将になる。

その頃のバレー部員も平田と同じ、”同じ過ちを繰り返したくない””もっとよりよいチームにしたい”という気持ちがメンバー全員の考えを一致させたのか、今までにないチームのまとまりが強くなった

また新生K-Dreamsとして別ネームとして”K-Dreams”を日本語に訳して”K”奈川””Dreams”という事で”神夢”というチームネームが誕生!!

この頃は、日本ろうあバレーボール協会主催で初めてのランキング大会なるもの”Japan deaf volleybaii cup”が開催され、我が”神夢”も出場した。しかし、レギュラーのほとんどが都合で参加出来ず、本大会では7位という結果を残し、上位グループに食い込めなかった。

4月以降、練習は滞る事なくスムーズに進行し、練習試合もほとんどが負け無しの戦果を挙げ、技術面や精神面等、チームワークも成長していった。しかし!

身障国体関東予選前に平田主将が足を大怪我するアクシデントが発生!!

チーム全体に動揺と不安が生じる。が、身障国体元川崎市バレーボール部の主将の経験もある古川主将代理として持ち前のリーダーシップを発揮し、皆をまとめ、チームを引導し、身障国体関東予選を迎えた。

そして関東ろうあ大会では、ライバル東京都チームと健闘するも、最後のつめの甘さで逆転負けを喫してしまう。

あと2点でもう少しのところで東京都チームを制しての優勝を逃してしまった為、メンバー皆は悔しさで胸一杯だった。

ちなみに西川がレシーブ賞、古川が2年連続サーブ賞を受賞。

本大会で東京都チームを苦しませた戦果が自信となった新生K-Dreamsは全国ろうあ大会での上位を目指して練習に励んだ。

全国ろうあ大会では予選リーグで前年に引き続きまたも東京都チームと当たり、関東ろうあ大会の借りを返そうとしたが、1対2で負けてしまう。続き、三重チームと対戦、ストレート勝ち

バレー部創設以来、初めて全国ろうあ大会の決勝トーナメントに出場。

相手は愛知チームで接戦で健闘、3セットまでにもつれたが1対2で敗れてしまう。

我がチーム”神夢”はストレート負けは無かったが、3セット目には弱いという弱点が露出してしまった・・・。


神夢[K-Dreams]の歴史  −2001年(平成13年)−

2001年。

神夢にとって最大の危機が訪れる。
中森、守田、平田、伊藤が都合により辞めることになり、
残ったのは5人だった
(当時5人 中本、田中、浅香、古川、西川)

残った5人はデフカップまでにメンバーが集まらなければ、解散する話までした。
そこまで話し合ったメンバーは必死に新メンバーを探したが、思う通りには見つからなかった・・・。

しかし時間が全てを解決してくれるかのように、

平田が突然の復帰、新人安井、五十嵐、秋山加入により一気に9人まで増えた。
なんとか廃部にならなくなった事により、当初の5人はほっとしたのだった・・・。

デフカップではメンバーが少ない割にはそれぞれの持ち味を生かし、持てる力を発揮し健闘した。
デフカップ終了後、突然、秋山が休部したいと言い、消えてしまったが、その代わり、

守田が復帰!また新たに内藤・渡辺・工藤が入部して来た。

一気に12人まで増えてそのまま順調にいくと思われたが、神様は見てくれなかった。

新たに入部した内藤は家庭の都合により短い期間で退部(もともと国体のみ参加だった)。

それを機に色々な事情も絡み合い、少し混乱も有った状態で関東ろう大会に出場。しかし、思うように力を発揮できず東京チームにあっさり負けてしまったが、我がチームのメンバー、守田がエースとして大活躍しそれを評価されてスパイク賞を受賞。また平田もサーブ賞を受賞した。

このままチーム全体の技術を磨けば全国大会上位は夢ではないと確認しあったメンバーだったが、関東大会終了後、守田が家庭を優先したい事で、全国大会に参加できないという事になり、またチーム内は混乱してしまう。しかし、新人の若手・渡辺が技術など急激に伸びたおかげで、至急ポジション変更を行い、全国大会まで練習を積みに積み重ね、万全の状態で大会に臨む事が出来た。

話しはずれるが、今回の全国大会でまず最初に泊まったホテルはバレー部設立して初めての史上最悪のホテルだった!!(笑)

しかも宿泊者は我がチームのみで全室消灯、いや我がチームが泊まる部屋を除いて全館消灯の状態だったのだ。(汗)つまり夜なのに真っ暗なのだった!

従業員も居なく、管理人一人だけ居る。また全館掃除もしていないようなほこりまみれで壊れ掛けのホテルのようで客のもてなし等サービスがすごい悪かった為、泊まったメンバー達は当然不満の声が噴出し、連泊の予約を取り消し、翌日、緊急別のホテルを探し宿泊したハプニングもあった。

そのおがけかどうかは謎だが(笑)、全国大会では、健闘に次ぐ健闘で今までにない実績を残せた。あと1歩メダルに届く距離までいったが、その壁は厚く高く跳ね返させられた。

しかし最終的には全国大会でベスト4というバレー部設立後最高の実績を残せた事がチームとしては嬉しい出来事になった。


神夢[K-Dreams]の歴史  −2002年(平成14年)−

2002年。

執筆中

序 章 −プロローグ編−

 神夢王朝の創始者ヘロが家臣・ポチケンは前記述官ピカに代わりて、ここに記す。

 時は、西暦2002年(神夢歴7年) ヘロ陛下の治世・・・。
昨年の全国大会で4位という成績を収め、さらなる富国強兵を進めて天下に覇を唱えんとしていたが、人材不作、後継者育成の遅れ、又、個々の能力のばらつき等により戦力は去年より低下していると言わざるを得なかった。そんな中で、この一年どのように戦略を進めていくのかが重要であった。

第1章 −デフカップ編−

2002年2月8日(金)〜10日(日)
第3回 Japan Deaf Volleyball Cap in広島 

大会1日目
大阪MAX戦では見事に完敗・・・。
愛知安城戦の時、2セット目で田中が故障。急遽代わりに平田がセッターを務める。しかし、リズムが崩れ、敗北の二文字を見ることになる。落としてはならない試合だったのに・・・。負けた為下位リーグに回る。

大会2日目
鳥取戦でも黒星を喫す・・・。
これで1勝も無し。あっというまにデフカップが終わった・・・。


 敗因としては、レギュラー不足でその上に怪我人続出で新人二人(渡辺・工藤)を出さなければならない状況になったことにある。
新人に向かって、「君らがあるのは、まさにこの時の為ぞ」と思い切って試合未経験者の選手を試合に出させた。
 しかし、若手は緊張のため思うようなプレーが出来ずミス連続。やはり、荷が重すぎたようだ。新人2人にとっては貴重な経験となり、今後の糧となるのであろう。後に、新人の一人はこの日を境に人が変わったように鍛錬し、着々と力を蓄えていくのであった。

 そして、こたびの全戦全敗のA級戦犯は新人二人にあらず。むしろ、この時期に怪我しでかした者達であると斬って捨てた。当然のことながら、怪我もなく、スタミナをしっかりした上で出場することが強いチームへの条件である。


 自己管理の重要性を再認識し、そして、次の舞台は国体予選編に続く・・・

第2章 −国体予選編−

2002年6月2日(日)
第?回 全国障害者スポーツ大会 関東予選
    In東板橋体育館(東京都板橋区)

Bコートにて第3試合 茨城vs川崎、第4試合 東京vs埼玉。

  初戦は我が神夢(川崎)と新興勢力の筑波技短(茨城)の対決。
2−1(24−26、30−28、25−18)で神夢が辛勝。

決勝の東京戦はあっさり敗北を喫す・・・。またしても東京といふ名の嘆きの壁の前に屈した・・・。 すべてにおいて完敗であった。

結局、今年の関東代表は男女とも東京と相成った。



 今年の国体予選は開始前からいろいろ問題あった。我ら、神夢は川崎市として出たのは良いが、主将田中が横浜市在住だった為、どっかの上層部からクレームがあり。規則は規則だそうで・・・。急遽、工藤を代理として主将に立てる。他の選手も千葉在住とか静岡在住とかいろいろあったが、浅香部長の奔走により解決す。

 新興勢力の筑波技短・・・。それは、ヘロ・マサ・トン・カメそして吾輩の母校でもある。いわば、OBと現役の技短対決でもある。この対決はOBとしての威信があり、敗北の二文字は絶対許されぬことである。しかし、事前に技短はワンマンチームであり、チームの大半は素人衆であるという情報があった。若いチームであり、多少は手こずることになろうが、戦略で我が神夢の勝ちは火を見るより明らかなりという空気があった。しかし、その余裕も点を重ねるごとに失っていくことになる・・・。



信じられぬ・・・。


こんな展開があってたまるか・・・。


我ら神夢がおされているのではないか・・・。



24−26・・・。このスコアは神夢にとっては信じがたい現実であった・・・。

技短の新星 W選手一人に翻弄された・・・。いや、素人と評されていた選手達が奮戦をしている・・・。彼ら素人衆は本当にこれが初陣なのかと思うぐらいに・・・。

誰だ?!技短はワンマンチームで弱小勢力と言ったのは。



2セット目も、W選手が前衛の時、W選手の強烈なスパイクに我が神夢は翻弄され、なすすべなし。吾輩のブロックなど無きに等しい・・・。当ててスパイクの勢いを殺すだけでも精一杯だった。

恐ろしい・・・。これほどの選手が何故、技短に・・・。誰も彼もが畏怖の念を抱いたであろう・・・。

そこで、神夢は戦術を切り替えて対抗する。23−24から辛くも逆転し、30−28で神夢がかろうじて勝ちとった。

技短にしてみれば、落としてはならない場面であり、痛恨のミスといえよう・・・。これが素人衆にかなり影響与えたのは間違いなし。

3セット目は、すでに神夢は押せ押せムードであった。前セットにて23−24で切り返し、勢いに乗った神夢と勝利目前でまさかの逆転をされ、動揺が広がる技短では当然だったかもしれない。さすがにセット間の休憩時間に動揺の沈静化ができなかったようで、試合中に内紛勃発し、技短は崩れていく・・・。これを神夢が見逃す道理は無し。そのまま押し切り、神夢に軍配が上がる。

この試合は、多くのものを後輩達から教えられたようなものだ。若く躍動あふるる技短のバレーを肌で感じ取ることができて、さすがの吾輩も感慨無量である。

この戦いは後に神夢にとって大きな糧となったのである。




決勝 東京戦

完敗


以上


東京戦はポジションミスというやってはならないことをしでかしてしまった。再発防止対策の一つとしてマネージャーにサーブ順の番号を指示して頂くことにした。今大会もスタミナ切れ等の課題を多く残した。


国体予選終了後、工藤が諸々の事情により神夢を去る。


そして、次の舞台は関東大会編に続く・・・

第3章 −関東大会編−

2002年6月29日(土)〜30日(日)
第31回 関東ろうあ者体育大会 In栃木
     西那須野体育センター(栃木県西那須野町)

5月12日の監督・主将組合せ抽選があり、その時の組み合わせは、

埼玉vs栃木 茨城vs東京 神夢シード

であった。茨城は試験と重なる為、不参加と事前に分かっていた。しかし、直前で東京が人数不足により不参加表明す。よって、埼玉・栃木・神奈川の総当たり戦に変更。こんな事あって、盛り上がり度がかなり減ったのは言うまでもないだろう・・・。
関東大会における聾のバレーはこんなものかと、しらけムードが早くも漂ってきた・・・。しかし、そんなシラケムードを払拭してくれる出来事があった。

開会式にて、毎年毎年、その県のお偉方が開催挨拶する。これ自体は別に珍しくもない。その中で栃木の副知事が特に印象に残った。なんと、開催挨拶の最初から最後まで手話でやってのけた。過去の関東大会で冒頭の挨拶とか名前程度はあっても終始これだけやってのけた人は吾輩は記憶にない。
この御仁を副知事にもつ栃木在住の聾者は誇らしく思ったのであろう。うらやましいかぎりである。続いて次のお偉方の挨拶だが、これも珍事件だった。前の人が余りにも見事な演出をやらされるといざ自分の番になると極度に緊張したのか、冒頭の挨拶の手話がぎこちなかった。これが会場の爆笑を誘った。

さて、爆笑を誘ってしまった本人はどうしたのかというと・・・。
さすがは県の政を預かる者、切り替えが早く無事に挨拶を済ませたでし。そして、この後、バレー会場へ移動。


今大会では、ヘロ監督の方針により、西川と田中がセッターとリベロを交換。安井はセンターから初めてレフトにコンバート、渡辺と対角とした。かくして、この陣容で大会に臨んだ。

第1試合目
栃木戦では元全日本代表のセッター、K選手の2アタック等に苦しめられるも、25−16、25−15で神夢が2セットを連取。

第2試合目
埼玉戦では終始神夢のペースで、25−8、25−7で2セット連取。埼玉は今年復活したばかりの上に十分な練習時間が無かったのが響いたようだ。

この瞬間、5年ぶりの2度目の優勝を決める・・・。


第31回関東ろうあ者体育大会


優勝 神奈川

準優勝 栃木

3位 埼玉


サーブ賞 古川

スパイク賞 安井

MVP賞 安井

古川が3度目の受賞、そして神夢はサーブ賞が5連覇となる。
おめでとう古川殿!!

MVP賞&スパイク賞のW受賞の安井氏はT・H氏から「のび太のくせに!!(ポチのくせに!!)」といわゆるジャイアイズムでチーン・・・



こうして、2002年度の関東大会は終わった。

その夜は宇都宮駅付近の居酒屋で祝勝会、優勝カップにビールを入れて皆で回し飲みし、次の日は餃子の街、宇都宮で餃子を食べる傍ら、街の散策。


そして、次は最後の舞台である全国大会編・・・

第4章 −全国大会編−

2002年9月14日(土)〜16日(月←振替日)
第36回 全国ろうあ者体育大会 In宮城
     グランディ21 県総合体育館(宮城県利府町)

 2002年度神夢の最終決戦の地は 伊達な国 宮城 である。
今年の全国大会は珍しくも休日に開会式を行う為、メンバーは全員自分の好きな時間に宮城へ直行。
ここで、今大会の流れを簡単に説明すると、

14日(土): 9:30〜12:00 監督・主将会議(シルバーセンター)
       14:00〜16:00 開会式(仙台市体育館)
15日(日):予選リーグ
16日(月):決勝トーナメント

であった。
14日監督・主将会議で、主将セラがクジを引く。対戦相手は山形、そして3年連続の三重であった。
余談だが、吾輩が大学3年の時、茨城技短チームとして最後の対戦相手も三重であった。
ちなみに、今年の男子参加チームは、


青森 山形 福島 茨城 栃木 埼玉 東京

神奈川 愛知 三重 大阪 兵庫 鳥取 高知



以上、14チームであった。
さて、当のメンバは、明日の戦に備え、昼夜牛タンを喰らって英気を養った。


予選リーグ

初戦 三重戦では1セット目神夢が先取。勢いに乗った神夢はストレート勝ちを狙ったが、ここで油断という失態をやらかしてしまった。その結果、2セット目は三重に持っていかれた。次試合の為に体力温存などという慢心が生じ、これがかえって仇となった。
過去の戦歴から見て、3セット目まで持っていかれると神夢は崩れていくと悪しきジンクスが、チーム内の皆が脳裏に浮かぶ。

だが、休憩時間の間、この動揺を沈静化できた。皆、気持ちの切り替えができた。国体予選で盟友 茨城筑技短との対戦の糧がここで生きた。流れと勢いは三重の方にあったが、勝利への執念は神夢が強かったようだ。三重は、一気に3セット目を制したかったようだが、一向に崩れない神夢に動揺し始めたようだ。動揺の連鎖反応で三重は自滅していく。かくして、3セット目は神夢圧勝。2−1で初戦を飾る。


山形戦では、序盤で山形はどういうバレーをやるのかを見極めるため、無理に勝負を仕掛けず手堅く点を重ねる戦法をとった。どうやら、背番号「7」の選手が攻守共に起点としているようだ。長身を生かした攻めも神夢にとって厄介であった。とすれば、7番の選手にプレーさせないことにした。
その結果、山形はサーブレシーブで乱れ、7番が思い切り打てず、崩れていった。神夢はチャンスボールを正確に処理して、攻撃パターンを組み立てるだけだった。かくして、この試合は神夢のストレート勝ち。

この時点でベスト8に決定。


決勝トーナメント

鳥取戦 この試合は雪辱のチャンスでもあった。賢明な閲覧者諸君はお気づきであろう。今年のデフカップで古豪鳥取によって敗北の二文字を拝まされている。
鳥取は試合開始早々に大量点を取りに行く傾向にある。前の試合でも試合開始直後に大量点取って、ゆっくりした展開を広げ難なく勝ちを収めている。その鳥取がスタートダッシュに失敗した。サーブレシーブが乱れ、上げられない、打てないで混乱し始めた。それでもボールは最後まで落とさず、とにかく返してくる。結局、1セット目は鳥取のミスは少なく、神夢の失敗で得点与えた展開であった。要するに攻撃的なバレーを展開して成功失敗の差で神夢に軍配が上がったようなものだ。

2セット目で神夢はここで、一気にストレート勝ちしなければならないのに、鳥取の粘りでフルセットに持ち込まれる。鳥取はブロックポイント、無難なスパイクで試合運びをした。神夢側としては油断したわけでもなく、内容は悪くない。流れはまだ神夢にある。

鳥取の粘りは2セットまでのようだった。スタミナ切れだなと誰が見てもわかるぐらいに肩が上がっていた。

ここで念には念を入れて、吾輩は相手に心理的ダメージを与えるため、セット間の休憩時間にブロックの練習をしてみたり滑り込みしてみたりして、「こっちはまだまだ体力あるな」と無理してアピールしておいた。鳥取の2〜3人が「ギョ!?」としてたようだが、果たして効果はあったのだろうか・・・。謎


3セット目は神夢のペース(フェイント、コンビを駆使した)で点を重ねつづけた。かくして、2−1で神夢の勝ち。

この時点でベスト4が決定。


去年と同じく神戸戦。神戸と神夢・・・。ある意味で技短対決でもある。また神戸は聴者のようなバレーが出来るチームであり、学ぶべきところが沢山あるであろう。序盤では粘りを見せるなど均衡を保っていたが、鳥取戦で体力をかなり使っており、その上、連戦の為思うように動けず乱れ始める・・・。3セット戦える体力はあっても2戦連続戦える体力が不十分であった。自分自身の不甲斐なさに腹立ってきた。聴者の世界ではフルセット(5セット)で2戦連続は珍しくもない。またしても、これが神夢の脆さであることを晒け出してしまった・・・。


中盤で、N選手のジャンプサーブによって神夢は完全崩壊・・・。日頃の練習の中で、あんな強烈なサーブを受けたことなどないから当然の結果であろう。なんとかボールを当てることが出来ても上がらない。上げてもスパイクが決められない。しまいは、ジャンプサーブ失敗を期待する空気が漂ってきた。だが、コントロールがかなりよく、サービスエースを取られぱなしになる・・・。その焦りから、スパイクフォーム、ブロック着地を崩して怪我する人続発する始末・・・。その後も、サーブレシーブが出来ない、スパイクが決められない等で持ち直せないままあっという間に2セットを取られる・・・。

神夢のバレーはとうとう最後まで展開できなかった。バレーをさせてもらえなかったというのが本音である。逆に言えば、神戸は相手にバレーをさせず、自分達のバレーを展開する老練ぶりを持っているといえる。

この試合は、いいとこなしでかなりショックだった。特に大きな敗因としては相手センターの速攻攻撃を止められなかったことであろう。神戸と我らのチーム力の差を痛いほど感じた・・・。まるで、高校生と小学生の試合かと思うぐらいに・・・。
サーブレシーブの強化の他に、センターからの攻撃に弱いという課題をクリアしなければならない・・・。


この時点で、3位決定戦へ。


3位決定戦 東京戦

敗北


以上


この3位決定戦も去年と同じく東京・・・。そして、我が神夢をストレートに下す。「神夢は連戦でボロボロだから仕方ない。」と慰めの言葉をかけられたが、それは東京も同じである。東京は人数ギリギリの上に怪我人も多く、大阪戦でボロボロの状態で条件は同じ。ボロボロでも自分のバレーの仕事はきっきりやる、バックアタックを果敢に仕掛けるで技術面においても精神面においても相手が上だった。


優勝:大阪

準優勝:兵庫

3位:東京

4位:神奈川

こんちくしょー!!去年と順位変わらねぇじゃん・・・

今年度は関東ろうあ者体育大会優勝、全国ろうあ者体育大会2年連続ベスト4と神夢創立以来最高の成績で終わる。

だが、1〜3位の実力は伯仲しても、3位と4位の差は大きく開いていることをメンバ全員はわかっている・・・。目標はあくまでも日の本一である。これからは、新しいバレーを、また違ったバレーを自分達で開いていかなければならない・・・・。

次の大会に向けて、飽くなきフロンティア精神で今も神夢は戦場を駆け巡る・・・・。

最終章 −円卓会議編−

来年のデフカップは茨城技短と共同戦線を敷き、参戦することにした。


神夢[K-Dreams]の歴史  −2003年(平成15年)−

2003年。

執筆中

序 章 −プロローグ編−

 神夢王朝の創始者ヘロが家臣・ポチケンはここに記す。

 時は、西暦2003年(神夢歴8年) ヘロ陛下の治世・・・。
昨年も全国大会で4位という成績に終わった。次の標的は3月22日〜23日のデフカップである。

第1章 −デフカップ編−

2003年3月22日(土)〜23日(日)
第4回 Japan Deaf Volleyball Cap in千葉浦安市 

大会1日目
雷神(神奈川2) VS KOBE(兵庫)
雷神(神奈川2) VS G.T.V(愛知2)
風神(神奈川1) VS W.D.V(大阪1)
風神(神奈川1) VS 高田組(富山)

大会2日目
風神(神奈川1) VS HDVC(広島)←11位決定
雷神(神奈川2) VS TDV(東京)←準決勝戦
雷神(神奈川2) VS KOBE(兵庫)←三位決定戦


1日目 雷神風神同時に試合開始。

雷神はかつて風神として共に戦った盟友であるH選手を擁する蒲郡と対峙す。結果は雷神がストレート勝ち。
続くKOBE戦でもストレートで下す。早くも予選1位で決勝トーナメントへ

風神は、大阪1にストレート負け。続く富山戦でもストレート負け・・・。富山戦では吾輩のサーブミスで終る・・・・。
無念にも予選3位で11位決定戦へ。


そして、一日目の最後にエキシビションで日本代表がなんと早稲田大学と対戦する。
さすがは聴者の世界で名を馳せた名門大学だけあって日本代表を完膚なきまで叩き潰す。その光景を目のあたりした各県の聾バレー選手はどう感じただろうか。ちなみに筑波大とかはその早稲田よりさらに上のレベルである。

聾バレーチームは聾バレー大会のみならず聴者主催の市民大会にも積極的に参加して視野を広めていこう。東京や神戸や愛知などはこのような活動を前からすでに展開している。神夢ももっともっと視野を広めなければならないであろう。

2日目 決勝トーナメント 準々決勝 雷神がまさかの敗退かと思われるとこまで追い詰められる。老獪なバレー戦術を見せる鳥取に苦戦する。鳥取のジャンプサーブに雷神の守備が終始乱れる。主導権は誰が見ても明らかに鳥取が握っていた。先に王手をかけたのは鳥取。ここから雷神はよく耐えた。耐えに耐えてついには鳥取を2−1で下す。最終セットの12−14からの逆転勝ちは見事といいようがない。かくして、雷神は準決勝へ駒を進める。

しかし、雷神の快進撃はここまでだった。東京に0−2で敗れ去る・・・。両チームの力は拮抗していたが、東京の方が要所要所で決めていた。まさに”天使のように細心に、悪魔のように大胆に”だった。

そして、3位決定戦へ。

3位決定戦で、KOBEと再び対戦。2度目の対戦でもストレートで下す。


一方、富山戦後も吾輩は審判をやった。よく考えてみれば、聾バレー界初の聾審判だった。(神奈川は鬼と吾輩が担当)
それだけにミスジャッジだけは避けたいところだ。幸い、難しい判断を要することもなく無事に任務を全うする。
しかし、この後雲行きが怪しくなる。審判員ギリギリのため、また審判要請があった。結局、昼飯食べられず、休憩時間が極端に減り、アップ不足に陥る・・・。これはちょっと誤算だった。もう少し審判員がいればと痛感した。


風神は9位決定戦で広島と対戦。1セット目は風神がよく繋げていた。広島の攻撃パターンが単調だったことに救われたようなものもあった。

2セット目、広島は、セッターをH選手に変えて攻撃パターンを増やしてきた。ここにきて吾輩がエンスト起こす。連鎖反応で風神の組織機能が止まる。結果、2セット目を落としてしまった。

3セット目は、風神全体の気持ちの切り替えができず、風神のバレー展開ができず終始広島に主導権を奪われた格好。かくして風神は1ー2で広島に敗れる。この時点で11位タイ決定。敗れはしたが、収穫のある敗北であった。


デフカップの結果

優勝:TDV

準優勝:WDV

3位:雷神

ベスト6に雷神の殿が選ばれる。



そして、次の舞台は国体予選編に続く・・・

第2章 −国体予選編−

2003年?月?日(?)
第?回 全国障害者スポーツ大会 関東予選
    In宇都宮

我が神夢は諸々の事情により不参戦とした。トンは千葉チームを率いて国体への切符を賭けて戦いを挑むもの無念にも「東京」という名の嘆きの壁に屈する・・・。

関東予選 優勝 男子 東京チーム
        女子 神奈川チーム

第3章 −関東大会編−

2003年6月28日(土)
第32回 関東ろうあ者体育大会 In川崎アリーナ


参加チーム 神夢・埼玉の2チームのみ
男子バレーにおける関東大会はなんとも寂しいものである・・・。
来年こそは賑やかにやりたいものだ。

大会結果
神夢が埼玉にストレート勝ち。

この時点であっという間に

優勝 神夢 

準優勝 埼玉

と相成った。


これで我々の03年度の関東大会は終わったのである。



次の舞台は全国大会へと続く

第4章 −全国大会編−

2003年9月12日(金)〜15日(月)
第37回 全国ろうあ者体育大会 In長野

最終章 −円卓会議編−

ロボ・セラ・ポチら個人事情により休部となる。
また、来年のデフカップは神夢は不参戦となった。



神夢[K-Dreams]の歴史  −2004年(平成16年)−

2004年。

執筆中

今年はメンバー不足に悩まされた。
若手のなべは仕事に集中のため休部。
中堅のポチは静岡にレンタル移籍?

デフカップ
不参加。残念!斬り!

関東ろう大会
人数不足のため不参加。残念!斬り!

全国ろう大会
 人数不足で不参加予定だったが、何とか6人の戦士を集めて全国大会に参戦!
しかし、全国大会に向けての練習がまともにできず、ポジションも大会3日前にやっときまった。
合言葉は「怪我しないように。」だった!
1人でも怪我をすると棄権扱いになるから、メンバーは「怪我しないように」しか頭(?)になかった。
そんな不安を抱え全国大会に・・・。
後で気づいたけど、6人メンバーの中で1人は全国大会初登場、もう一人は全国大会で初めてのレギュラー。
全国大会の予選リーグ相手が決まった。
ポチケンが率いる静岡チーム。鳥取チーム。

予選リーグ戦
初戦は静岡!
気がついたら静岡にストレート勝ち!
しかし、広島種は緊張で、ちと不調、千葉種が原因不明の不調!彼にとってありえないミス連発!汗
次の相手は鳥取。
相手のミス連発でストレート勝ち。
そこで予選通過一位決定!パチパチ。

決勝トーナメント
相手は神戸チーム!誰がもここで負けることを覚悟していた。
1セット目 あっさりと取られた。神夢バレーをさせてくれなかった。
2セット目 神戸チームのリズムが崩れ、何とか波にのった神夢チームが2セットを奪った!
これで3セット目へ
そこでありあえない光景が・・相手のミスに救われ、神夢もサーブ順ミスなどがあったが
くだらないミスをしないように!なんとか粘った。
気づいたら3セットも神夢が奪った!
これでベスト4確定!!
(はっきりいって意外な結果だった。)

次は優勝候補の大阪!
1セット目は一度神夢がリードしながらも、ストレート負け。
内容としては神夢も悪くなかった。
(神夢は自分のバレーをすることができたが、相手が上だっただけのこと)

三位決定戦
地元の岐阜!
岐阜のエースをとめればなんとかなる!
神夢バレーをしっかり出せばいい!
1セット目は大阪戦の疲れが出てちょっと調子がでなくあやふやな流れだったが、何とか勝った。
2セット目は神夢バレーをしっかりとだし、ストレート勝ち!

これで全国大会初の三位!!!
めでたしめでたし。

6人の戦士がMPV級の活躍をし、一つにまとまったチームだった。
このまま終わらず、来年はもう一つ上へ目指そうじゃないかと誓い合った。
それよりも来年メンバー集まるかな?汗
そっちの方が大事だ・・・笑


=番外編=
後日、神夢のエース K選手はこう語る。

題名:「広島種の感動」
初めての全国大会でした。想像と違って残念でした。国体と同じかと思いました。
それに、神夢としての試合も初めてでした。
初回戦が静岡で一セット目は緊張で不調し、二セットは本気じゃないけど、自分なりにやりました。
鳥取は何回も試合した経験をいかし、ようやく勝てました。初全国初三位で、すごくいい体験しました。

全国大会の試合の後、みんなから、よくいわれました。
『広島じゃなかったのか?ズル〜』と
『強いね。』『神奈川のルーキー?』とか言われたや。

以上、K選手のコメントでした。
「俺を取材してくれ」と言わんばかりで、かなりご満悦の様子でした。

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