オリンピックの話題(1)◇
〜プロ化するオリンピック〜
3/27/2004

第1回の近代オリンピックは1896年のアテネで開催されました。
その後4年おきに世界各地で開催され、今年2004年、108年ぶりにオリンピックが再びアテネに戻ってきます。
というわけで、今回はオリンピックにちなんだ話題を少し。

日本人のオリンピックへのいちばんの関心事といえば、やっぱり女子マラソンでしょうね。
選手選考については、もはや世論を巻き込んだ一大ムーブメントです。
でももちろん、それだけじゃない。
今年は水泳の北島康介、柔道の井上康生、陸上の室伏広治など、日本で金メダルを狙えるアスリートがたくさんいます。
そしてサッカーですね。山本ジャパンに活躍を期待。
さらに女子ソフトボール。4年前のシドニーでは惜しくも銀メダル...今年リベンジに燃えてるようです。

もうひとつ、金を狙える種目は、野球。
今年はすべての選手をプロ選手で固め、万全の体制でアテネに臨みます。

オリンピックといえば、かつては「アマチュア競技スポーツの祭典」でした。
今でこそ完全に解禁されたわけではありませんが、つい最近までプロ選手は出場できなかったんです。


プロ選手のオリンピック出場解禁は、実はだいぶん前から論議されており、
1974年に国際オリンピック委員会(IOC)が、オリンピック憲章からすべての「アマチュア」の文字を削除したことで、
すべてのプロ選手はオリンピックへの出場への道が開かれた...。

...かに思えたが。

実際にプロ選手が「世界のスポーツの祭典」オリンピックの舞台に立てるまでに、実に14年の歳月を要したわけで。

1988年、ソウル。
はじめてプロ選手がオリンピックに出場したのは男女テニス。
女子テニスで西ドイツのシュテフィ・グラフが出場し、金メダルを獲得。

1992年、バルセロナ。
アメリカがNBAの選手で構成した「ドリームチーム」が話題に。
もちろん圧倒的な強さで相手チームをまったく寄せつけず、当然のごとく金メダルを獲得し、
試合後に対戦チームがドリームチームの選手と写真撮影していたシーンは記憶に残るところ。

1996年、アトランタ。
自転車競技でプロ解禁。
これまでツールドフランスに出ていた選手や競輪の賞金王がオリンピックを駆け抜けた。

2000年、シドニー。
日本は野球でプロ選手を代表チームに編入。
松坂大輔の活躍が記憶に残るが、このプロアマ混合チームはメダルという結果を残せなかった。

各競技においてどのようにしてプロ選手がオリンピックに出場できるようになったかについてはここでは割愛するが、
オリンピックは今やプロ・アマの垣根を完全に取り払われつつあり、
まさに「世界最高の競技スポーツの祭典」となってきているのだ。

これは、時代の流れかもしれない。

「オリンピックは世界最大の競技スポーツの祭典」としながらも、
「オリンピック代表チームは最強チームではない」
「オリンピックで勝っても世界最強ではない」
という世論の批判的なコメントも多く、
これは種目ごとで見てみると、よりわかりやすい。

たとえばサッカーの最高の大会はワールドカップであり、
オリンピック以上の大会であることは世界中に認知されている。
テニスは全英・全仏・全豪にウィンブルドンを含めた「世界4大大会」がメインで、
オリンピックへの関心は比較的高くない。
野球はアメリカのメジャーリーガーがまったく関心を示さない以上、
金メダル=世界一とは結びつかないといえる。

これについて私はまったく反対意見はないが、
これらのスポーツは他のスポーツが進んで行っている流れに乗らず、
独特かつ孤高な道を歩んでいるいうのは事実だ。


ところで、なぜプロが参加するようになったのか。


社会主義国に代表されるような「スポーツ全体主義国家」は、
世界最大のスポーツ行事であるオリンピックに、国の威信を懸けて代表選手を送り込む。
かつてのソ連や東ドイツ、中国では、素質を持った幼い選手に「スポーツ英才教育」が施され、
言葉は悪いかもしれないが「サイボーグ」のごとく圧倒的な競技力を獲得した彼らは、
言うなれば国家発揚のために育成された、その国、そのものなのだ。
国に見込まれ大事に育て上げられる競技者は、一切の生活を国に保護されており、彼らはプロではない。
金メダルを獲得しようものなら、以後の生活は極めて安泰である。
そのシステム、社会主義国家の崩壊で最近ではあまり見かけなくなったが、
考えようによっては、合理的で一理ある。
国の威信がかかっている以上、国が誇る高い競技力は維持されるかもしれないからだ。

資本主義国では対照的に、選手たちはすべて民間の企業に取り込まれている。
多くの社会人競技者は企業が運営するチームに所属し、成績をもって査定され給料を受け取っている。
アマチュアやノンプロといわれる競技者は、競技で生計を立てているわけではない競技者たちで、
ほかに生活のためのメインの収入源を持っている。
もちろん企業側からの選手待遇や特別手当はあるが、決してそれがすべてではない。
プロと呼ばれる競技者は、企業または組織に属している点で似ているが、
彼らは競技そのもので生活している「フルタイム競技者」で、仕事はスポーツ場面でのパフォーマンスである。
プロとアマの決定的な違いはそこであって、プロ選手にとって競技は仕事そのものである。
極めて業務実績重視の世界でもあるので、
パフォーマンスが落ちてくれば給料は減るし、一般企業と同じように解雇される。
このように、まぁ金の面だけ比較強調されがちではあるが、
それゆえに競技の質、レベル、競技者およびプロスポーツ界が持つ競技観など、プロ独特のものが存在する。

これらの競技者たち、バックグラウンドに確かな差があるが、
ひとつ共通点がある。
それは、

「みな、いち競技者である」

という、なんとも単純なこと。

世界最大の競技スポーツの祭典であるオリンピックをすべての競技者に、という世界の機運が、
プロ選手の出場解禁という流れを生み出した。


というのが、一般的な見解としたとらえかたによる論評。


でもこれは、ある意味「建前」ともとれる論評かもしれない。
それよりも、テレビをはじめとした映像メディアが、
よりレベルの高い・より話題性の高い・よりドラマチックな・よりエキサイティングな映像を求め、
それにIOCが応えた
と考えるほうが、今においては説得力があると思う。

次回のコラムでは、テレビがオリンピックスポーツに与えてきた影響を、
少し話していきます。
今回はここまで☆


(おことわり)
この文章に参考文献はありません。
大学での講義や新聞・ニュースなどを通して私が得てきた情報・知識を、
私が私の言葉で独自にまとめたものです。
いくつか本を読んで得た内容もありますが、公開することを前提に読んだわけではなかったので、
そのすべてのリファレンスが不明で、今となってはそれを検索する手段もありません。
だから、説得力に疑問があるかもしれません。
こうやって文章にして公開する以上、
ほんとは、こんなことではいけないんだけどね。
失礼します。

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