昼食の時間も終わり午後の授業が始まろうとしていた。確か四時間目の授業は国語のはずだ。相変わらずの日差しが続く真夏ともいえる七月の中旬のこの暑さで、ほとんど全員がノートやら下敷きやらをうちわ代わりにしているのが見渡せる。まあ、生徒にとってはこの暑さで授業どころじゃないということになるが、一方の教師にとってはこの暑さと同様にうちわ(まあ代わりのものであってうちわなんて誰も持っていないんだけどね)のひらひらが気になってしようがないに違いない。それなのに額に汗でハンカチを片手に必死に何やら喋っている教師たちに、同情すら覚える。

 この時期になるとみんなが言い出す言葉ナンバーワン、『なんでこの学校にはエアコンがついていないんだよ?』もしくは、『ついてないの?』 誰かがそう言い出すと、他の誰やらがそれに呼応してどんどん騒ぎが大きくなっていく。それが始まったのが先ほどの昼休みの終わりあたりから、これらの言葉が今もなお、教室内に響いている。最後には校長室に押しかけようという、声まで聞こえてきた。そんなにエアコンが必要なら私立の学校にでも行くか、エアコンを買えるほどの授業料を払うかしろ! と第三者から見れば言いたくなるかもしれない。それほどその話題ばかりが飛び交っていたのだ。そのくせ最近では学校は勉強するところというより、遊ぶところになってしまっている。もっぱら勉強は塾でというのが世間一般の常識と化していたのだ。

 そんな学校では、みんなが好き勝手に座り、席なんて決まっていない(いや、決まってはいるのだけど、自分が好きなときに勝手に椅子だけでも移動して仲のよい仲間同士でなにやらやっているのだ)。教卓はもちろん一番前に所在無げにぽつんとあり、一番前の机でさえ、その教卓から二メートル離れている。もちろんそうなると後ろが狭くなるのだけど、一番後ろの列にはいわば、不良と呼ばれるような連中が占領しており、もちろん学校にはほとんど出てこない、出てきたとしても、教室になどいることはほとんど無いと言っていいので少々狭くたって問題ないということなのだろう。その不良グループにメンバーには、黒木久信(男子十番)を筆頭にして秋山洋二(男子二番)と古賀龍時(男子十二番)それと女の前田友里(女子十九番)がいる。今日は、古賀龍時の姿を体育倉庫の前で見かけたので、ほかの三人も学校には来ているとは思う。恐らく体育館の裏辺りで煙草でもふかしているのかもしれない。

 真ん中の列の前方の席では今話題の週刊誌を読んでいる前原尚継(男子十六番)の姿が見えた。本当は学校にはそういったものは持ってきてはいけないことになっているので先生が来たらすぐに隠せるためにだろう、椅子を幾分机から離し、本を膝の上に置いて、背中を猫のように丸めて本に集中している。そんなだから猫背にはなるし、大して勉強もできないのに、がり勉の代名詞ともいえる分厚いレンズのめがねをかけるはめになるのだ。

 その左からその本を覗き込むようにしているのが、古賀弘(男子十一番)。特に前原尚継とは仲がよいとはいえないが、その雑誌を見るために今は一緒にいるのであろう。尚継より読むペースが早いのか、今か今かと次のページがめくられるのを待っている。そうしているうちに弘の顔が少々歪んできた。そのうち尚継から本を奪い取るかもしれない。

 そのようなことを観察しつつ、宮崎欣治(男子十八番)は先ほどから四時間目のチャイムはもうとっくに鳴っているのに、先生がまだ来ていないのを疑問に思っていた。まあ大学っていうところでは、教師がすぐには来ないというのはよく聞く話だが、ここの高校では教師が生徒にいつも、五分前行動を心がけるように言っているくらいだから、その本人が遅れてくるということはほとんどなかったといってもよかった。時計に目をやるともうすでに八分近く過ぎていたし、何かおかしいとは思いながらも、そんなに深くは考えないことにした。みんな少しはおかしく思わないのだろうか? 早いときはチャイムが鳴る十分前にでも来て今か今かと授業が始まるのを待っているようなあの国語担任の篠原幸男先生がこんなに遅刻しているというのに。

教室内の校庭の窓側には、いつも何やらテレビ番組の話題でもちきりの(休み時間になると常にそういった話をしているので、毎日七時間以上はテレビを見ているに違いない。典型的なテレビっ子だ)このクラスのお喋り代表ともいえる田中直美(女子一〇番)を筆頭として、それを取り囲む女子たちがいた。伊那泉(女子一番)に田中静江(女子九番)、本田雪子(女子 十八番)それに村山茜(女子二十番)だ。言わば、このクラスの中心的女子グループだ。

その中には、このクラスの平均(いや、そもそもこのクラスには学校の美人が揃っているから学校の平均と言った方がいいかもしれない)よりかなり上、まさにトップクラスをいくと言ってもいい平田亜由美(女子十五番)の笑顔が見えた。欣治は彼女の笑顔を見ることで思い出したことがあった。

それは去年のまだ自分が二年の時のことだ。彼女とはクラスも違い、まだ余りその存在も知らなかったとき、欣治は、ある用事で少し、寄り道をして帰っていた。その途中で見たのだ、彼女が友達と思われる女の子(制服からすると別の学校の生徒らしい)とカラオケ店から出てくるのを。もちろん彼女のことを余り知らなかったので、ただ、あ、あの子かわいいな、と思っただけなのだが。しかしその後その店に入っていこうとした若い男三人が、まあ、二十歳前後といったところだろうが、彼女たちに気づき何やら話しかけた。おそらくナンパというやつだったのだと思う。初めのうちは、彼女たちもなにやら楽しそうだったのだけれど、その後にそれは起こったのだ。突然彼女の友達のほうが、亜由美に耳打ちしたと思うと、その男の一人が怪訝な顔して近づこうとした。その瞬間、その男の体が大きく後ろに背面とびをやるように飛んだ、何が起こったのか分からない状態で、そのほかの男二人はただその男を目で追っていた。そこに残っていたのは、彼女の振り上げられた足だった。ちょうど、軸脚と九十度になるくらい、きれいに垂直に振り上げられていた――、中段蹴りというやつだ。そして一分と経たないうちに、ほかの二人も同じようにうちのめされていた。欣治はその一部始終を見入るように見つめていたのだが、気づいたのは、亜由美の友達の右手の中に男物の柄の悪い財布が握られていることだった。その後その子はその財布を男たちの倒れている方とは反対にぽいっと投げ捨てた。もちろん中に入っていた札は抜き取ったのだが。そこで欣治は思ったのだ、金を持っていないやつは、興味がないということだったのだと。あのとき耳打ちしていたのは、あいつらがお金を持ってないといっていたのかもしれない。それにしてもいつの間に財布をスっていたのだろうか?
 全然分からなかった。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだ、驚くべきなのは、亜由美の強さである。まさしく人は顔で判断できない、というのをこの目で体験したのだ。

亜由美はあざけ笑うようにその男たちに一瞥し、まさに悪魔のような笑みを浮かべた後、踵をかえすように、反対側を向いた。その目線の先にはちょうど欣治が自転車にまたがって止まっていた。彼女と視線がかち合う前に欣治は視線を外そうとしたのだが、なぜかそうできなかった。それはまさに怖いもの見たさだったのか、それとも彼女の顔をもう一度見たかったのかは自分でも分からなかった。その欣治に気づいた亜由美はまたもや笑顔を浮かべてこちらを見た後、そのまま立ち去っていった。しかしその笑顔はさきほどの悪魔のような笑みではなく、まさに天使の笑みであった。美しかった、一瞬にして欣治の心は亜由美のとりこになっていた。彼女のしたことなどもうどうでもよくなっていたのだ。

まあこういったことがあったのだ、いま彼女が浮かべているのがその二つの笑顔のうち天使の笑みの方だった。

他の連中は彼女の本当の姿を知っているのだろうか、あれはかなり手馴れているようにみえた。考えたくもないが、何度も同じようなことをやっていると思う。しかし不思議なのが、彼女に関してそういった暴力沙汰というのは聞いたことがなかったのだ。

多分ほかの連中は知らないだろう。誰一人として、ただ一人例外(俺のことではなくてだ)を除いて。このクラスには彼女の本当(どっちが本当かなんて分からないのだけど)の姿を知っているやつがもう一人いるのだ。それは誰かというとあのとき彼女と一緒にいて、プロ並みのテクニックでスリをやってのけた彼女の友達である。――えっ、その子は違う学校の生徒じゃなかったって? ああ、言うの忘れてたよ、ごめんごめん。三年になったときのクラス替えのときに引っ越してきたのがその子だったのだ。それは知っていて当然の人物なのである。だからその子を除くと俺だけが亜由美の秘密を知っているということなのだ。

その子の名前は中西恵(女子十四番)である。この学校に転向してきて以来自分が知っている限りでは亜由美と恵が話しているところは見たことがなかった、ただ一度として。基本的に彼女は自分から進んで人に話しかけるようなことはなかったので、一人でいることが多いようだった、というより一人でいることを好んでいるようだった。

一人でいるということで福島妙子(女子十七番)のことが頭に浮かんだ。彼女も独りでいることが多いようだったが、こちらは一人で居ざるをえないからであった。いわば妙子はいじめられっこだったので。このクラスの女子のなかではダントツの身長が高く(見たところ一七八センチくらいはあると思う)太っており、そのわりには何かおどおどしていて、地味で内向的ときている、髪型ときたらぼさぼさで男子の間では鳥の巣というあだ名が飛び交っていた。

欣治は前方に視線を向けた。妙子の席は自分より前にあるため、その背中が見えた。何をやっているのかはその大きな背中が邪魔して見えなかった。




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