1999年3月3日。

世間では桃の節句で賑わう夜に、幻獣の襲撃が、熊本の街を震撼させた。
幸い、事態に備えていた自衛軍の兵士や、地元の高校から学兵が直ちに出動し、 大した被害はなかったものの、幻獣の本土上陸を目の当たりにした人々の心は、 不安に苛まれていた。


来須銀河は、明日に控えた戦車小隊への配属を前に、熊本の市街をひとり歩 いていた。
住居としてあてがわれた学兵用宿舎では、義姉の小杉ヨーコが生活環境を整え ている。
「掃除の邪魔だから、何処かに行ってて下サイ」と言われて、来須ははじめて の街を、当て所なくさまよっていた。
そんな彼が幻獣の襲撃に遭遇したのは、市街地から少し離れた公園広場の一角 にいる時であった。得体の知れない感覚と、異様に暗くなった空。
紛れもなくそれは、人類の敵───幻獣の現れる前兆であった。

「民間人は、直ちに付近の避難所に急行せよ!」

ウォードレスに身を包んだ学兵が、銃器を手に懸命に住民への避難を促して いた。
来須は、自分以外の人間が避難していくのを確認すると、その学兵の隙をつ いて、避難所とは反対側の道を駆け出した。
足を動かせば動かすほど近くなる、尋常ならざる気配。
「…近いな」
低く呟くと、来須はビルの影から空を見上げた。


1945年。第二次世界大戦は、突如出現した黒い月と、そこから襲来する幻獣 により終結した。否、せざるを得なかった。
人類の天敵である幻獣と戦う為に、それまで互いを殺し合っていた人間たち は、不本意ながらも一致団結をしたのである。
だが、幻獣の圧倒的な力の前に人類は敗走を続け、やがてユーラシア大陸か ら撤退するまでに至った。

1998年の記録的な惨敗を期に、国の首脳部はふたつの法案を可決した。
ひとつは、幻獣の本州上陸を阻止する為の拠点である熊本要塞の戦力増強。
そしてもうひとつは、14歳から17歳までの少年兵の強制召集である。
もっともこれは表向きの話で、要は戦力回復までの時間稼ぎであり、学兵と 呼ばれる少年たちは、その捨て駒に過ぎなかった。
来須もまた、そんな召集されて熊本に来た学兵のひとりであった。
───勿論、「表向き」の話だが。

「…!」
爆音と共に、来須の足元に何かが転がり落ちてきた。
たんぱく質の焦げたような匂いのするそれは、幻獣の攻撃で吹き飛ばされた 学兵の右腕であった。トリガーに指を掛けられたままのアサルトライフルが、 持ち主の身体を離れてくっついてきている。
来須は、その腕から注意深くアサルトライフルを外すと、肩に担いで敵のい る地帯に向かって、再び足を進めた。
明日から入隊する戦車小隊では、戦車随伴歩兵(スカウト)として働く自分 にとって、丁度良い実戦経験になる。そういう気持ちもあった。
だが、何より彼は戦士であった。自分の中の何かが「戦え」と語っていたの である。


フリークライミングの要領で、ビルの壁を伝って屋上に立つと、来須は眼下 に広がる戦場と、そこを闊歩する幻獣を帽子の影から見つめた。
両手に持つ戦斧を操って人間を攻撃する幻獣と、それらよりも少しだけ小さ な幻獣が視界に入る。

「ゴブリンとゴブリンリーダーか……」

見覚えのある幻獣の名前を小さく呟くと、来須は片膝を立てて、アサルトラ イフルを構えた。射程内にゴブリンが入るのを確認すると、何の迷いもなく トリガーを引く。
弾丸は、照準を狂う事なくゴブリンの身体に突き刺さった。予期せぬ人間の 攻撃に、ゴブリンは苦痛にのた打ち回る。
すかさず、来須は二発目を連射した。今度も命中。耐久力を絶たれたゴブリ ンは、そのまま地に倒れ伏した。
「……っ!」
いくら、遺伝子操作をされた第6世代とはいえ、ウォードレスを着用していな い状態での狙撃は、来須の身体に多少の負担を与えていた。痺れ出した右腕 に顔を顰めると、アサルトライフルを下ろし、腕を軽く擦る。
「……」
痺れを抑えながら、来須は己に与えられた任務を思い出していた。

『お前の配属する小隊に、我が一族の末姫が入る。お前はヨーコと共に、来る べき時までその姫を守護せよ』

「──『存在』へのスケープゴートにでもするつもりなのか…一体、何を考え ている?」
唇から漏れ出たその声は、苦痛に満ちているようだった。
だが、来須のそんな思惑も長くは続かなかった。仲間を殺した人間の存在に 気付いたゴブリンリーダーが、奇声を上げて来須に武器を投げ付けてきたの である。
勢い良く飛んできた戦斧をかわすと、来須はアサルトライフルを構え直した。
もう、腕の痺れは殆ど治まっている。屋上の縁に足を掛けて照準を合わせると、 確実に敵の急所を捉えようと狙いを定めた。
一発目。弾丸は、ゴブリンリーダーの片腕を千切り落とした。
二発目。今度は腹部に直撃する。聞くに堪えない幻獣の悲鳴が、来須の鼓膜を 刺激した。
「……」
借り物のアサルトライフルには、五発しか弾丸が装備されていなかった。
残るはあと一発。首筋を伝う汗を拭おうともせず、来須は射撃の姿勢を取った。
一方のゴブリンリーダーは、もはや虫の息にも拘らず、それでも攻撃の手を休 めようとはしなかった。
残された腕から新たな戦斧を出現させると、来須に向かって投射した。

…勝負は、来須に軍配が上がった。来須の放った最後の弾丸は、ゴブリンリ ーダーの頭部を貫通、完全に破壊した。
だが、絶命する寸前に投げられたゴブリンリーダーの戦斧が、来須の足を襲 った。
咄嗟に反応して直撃は防いだものの、敵の捨身の一撃を受けた来須は、大きく 体勢を崩した。体重を支えきれなかった足が屋上の縁を滑り、そのまま落下し てしまう。

『──しまった!』
ウォードレスなしでの高所からの落下は、もはや骨折は免れない。
せめて被害を最小限に食い止めようと、来須は身体を硬くさせた。


その時。
ひらり、と赤い影が目の前を掠めた。訝しる間もなく、それは来須の身体を 抱き留めると着地する。
否や、ボキッと鈍い音がした。
来須は反射的に身構えたが、何処の骨も折れた気配はなかった。代わりに、頭 上から人間の声が降ってくる。

「…まったく。『はいひーる』などと、無駄に踵の高い靴など履くものでは ないな」

そうぼやいた声の持ち主は、男にしては高すぎる、紛れもなく女の…それも 少女のものであった。
戦場にはまるで似合わない真紅のドレスに身を包み、光沢の帯びた黒髪を、背 中まで下ろしていた。
「大丈夫であったか?」
「……」
そう声を掛けられて帽子を渡された来須は、己の置かれている状況にはた、 と気が付いた。
事もあろうに自分は今、少女の腕に抱き上げられているのである。
どちらかというと小柄な部類に入るこの少女が、190センチ近い自分の身体を 易々と支えているなど、来須にとっては初めての経験であった。

「……下ろせ」

礼を言うよりも、気恥ずかしさの方が来須の頭を支配していた。些か慌てた ように少女の腕から下りると、数歩の距離を置く。
だが、途端に幻獣に負わされた傷が痛み出し、来須は小さく呻いた。
「出血している。無理はするな」
少女は、折れかかったパンプスの踵を投げ捨てると、両手にはめていたドレ スと同じ色の手袋を外して、来須の足を見た。
「おそらくかすり傷であろう。大した事はないと思うが、一応手当てをして おくか。…それにしても、そなたも無茶をする。ウォードレスなしで幻獣と 戦うなど、自殺行為に等しいぞ」
口ではそう言うものの、少女の瞳は好意的な色をしていた。凛とした声に相 応しく、その顔立ちも美人というよりは、「凛々しい・格好良い」という 形容詞の方が似合っていた。
「ここで待っているが良い」
すぐに戻ると付け加えると、少女は、幻獣が撤退して静けさを取り戻した公 園広場を駆けていった。
程なくして、水を染み込ませたハンカチを手に、再び来須の元へとやって来 た。瓦礫を椅子代わりに腰掛ける来須の前に屈んだ少女は、ハンカチで丹念 に足の傷口を拭う。
「動かすな」
足の周りの血をすべて拭き取ると、少女は新しいハンカチで傷口を塞ぎ、来 須にそこを押さえておくように指示した。
そして自分は立ち上がると、両手でドレスの裾を鷲掴みにする。
来須が声を掛ける間もなく、少女は、自分の一張羅を何のためらいもなく引 き裂いた。

「おい…!」
「──構わん。どうせ今日限り、二度と袖を通すことのない服だ」

引き裂いた裾を、少女は更に破り続ける。やがて、一定の太さへと変化した 赤い布を携えると、来須の足に包帯のように巻き付けた。
「これで良いだろう。家に帰ったら、念の為に傷口を消毒するが良い」
「…恩に着る」
少女の気遣いに、来須は素直に頭を下げた。
少女は「気にするな」と小さく笑ったが、不意に何かに気付いたように立 ち上がった。
路地の奥から微かに聞こえてきた複数の声に、少女は柳眉を顰める。
「……頼みがある。そなた、私に会った事は他言無用にしてくれぬか?」
唐突な少女の申し出に、来須は目を瞬かせた。
「今から私は逃げる。その内に、私を探している者たちが、ここにやって くる筈だ。良いな、そなたは誰とも会わなかった。…そういう事にしてく れ」
言葉の意味は良く判らなかったが、半ば少女の気迫に押された来須は、小さ く頷いた。少女もまた満足そうに頷くと、くるりと背を向ける。
「そなたは学兵のようだな。実は、私も明日からある小隊に入るのだ。いず れ何処かの戦場で会えるやも知れん。…それまでに、怪我は治しておくが良 いぞ」
「……ああ」
背中越しに声を掛けられて、来須は肯定の返事をする。
少女は、顔だけこちらに向けて小さく手を振ると、音も立てずに身を翻し、 街灯のない暗闇の中に姿を消した。
来須も立ち上がると、すっかり遠くなってしまった宿舎への道を歩き始める。
すると、先程少女が見つめていた路地から、数人の黒服の男たちが、慌しく 駆けつけてきた。

「──おい、そこのお前!この辺りで赤いドレスを着た女の子を見なかった か?」

来須の姿を見つけた黒服のひとりが、荒々しい声で詰問してくる。
男の言葉に、来須はさり気なく手当てを受けた足を隠すと、少女が出て行 った方向とはまるで異なる路地を指差した。
「…あっちだぞ!」
「早く探すんだ!」
「まったく…自分が主賓のパーティを抜け出すなど、姫様は何を考えておら れるのか」
『姫様…?あいつは何処かの令嬢なのか?だが、上流階級の子女が、このよう な最前線の街にいるなど……』
黒服たちの会話を耳にした来須は、青い瞳を怪訝に曇らせた。

戦時下においても、いわゆる旧家やその他上流階級の出身者は、本人が望ま ない限り(あるいは望んだとしても)、士官学校や後方支援の軍属になるの が殆どであった。
その人間はともかく、その家の資産は、軍にとっては重要なバックボーンと なるからでる。
だが、来須は己の考えを改めた。明日から自分が守護する芝村の末姫も、形 式上では上流階級…それも一流の令嬢である。
──もっとも、あの一族にとってはどうでも良い姫君ではあるのだが。
走り去っていく男たちを尻目に、来須はふとこんな事を考えていた。

──俺たちの守護する「お姫様」とやらは、一体どのような人物なのかと。


ふと、見上げた空には、星が燦然と輝いていた。

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