サンドバッグを敵に見立てた戦闘訓練を終えた舞は、すっかり日も暮れて 静まり返った周囲を見渡すと、ふう、と無防備な息を吐いた。
簡単なストレッチでクールダウンを済ませ、吹き出した汗をタオルで拭う。
小隊が発足してから今日で3日目。戦況は膠着状態にあるが、いずれ来る べき出撃に向けて、準備をしておかなければならない。
「……さて、行くか」
タオルを首にかけたまま、舞はグラウンドを後にした。


「来須クン」
同僚の若宮と仕事をしていた来須は、義姉であるヨーコの姿を確認すると、 その手を止めて彼女の方を振り返った。
「まだ仕事は終わらないのデスカ?もう夜も遅いデス。一緒に帰りまシ ョウ」
そう言って微笑む表情からは、単に義弟を気遣うだけのものではなかった。
彼という男性に焦がれているひとりの女性としての視線が、来須の青い瞳 を見つめてくる。だが、
「…仕事中だ。先に帰っていてくれ」
今朝、スカウト用の新しいウォードレスが届いたので、その調整を行って いた来須と若宮は、訓練と仕事が長引いてしまっていた。
「俺の事は気にせんでもいいぞ」と半ば冷やかすように言う若宮を無視す ると、来須はヨーコに拒絶の返答をした。
「デモ、仕事のしすぎは身体に毒デス。今日ハこれ位にして、帰りません カ?」
「───断る」
それでもヨーコは提案してきたが、来須は短く答えると、彼女から背を向 ける。
彼がこのような態度を取った時、何を言っても無駄だという事は、ヨーコ 自身よく判っていた。諦めと悲しみの色をその瞳に浮かべながら、ヨーコ はふたりの前から去っていく。
「…言い過ぎではないか?」
来須とヨーコの背中を代わる代わる見ながら、若宮が困惑気味に囁いてく る。
「…仕事を途中で放り出す訳にはいかない」
ぶっきらぼうに返ってきた言葉に、若宮はやれやれ、と肩を竦めた。


来須がすべての作業を終えたのは、深夜もふけた頃であった。
静まり返ったプレハブ校舎から人の気配を感じ取った来須は、ふと好奇心 から気配のする方向へと足を動かした。教師を除いた自分以外にもまだ 学校に残っている人間がいたのか。来須は素直にそんな感想を抱いてい た。
深く帽子を被り直しながら、来須はプレハブの階段を上がると、気配の する1組の教室のドアに手をかける。

「…!」

視界に入ったのは、ほっそりとした少女の半裸姿であった。
成長途上ともいえる胸の膨らみを目の当たりにして、流石の来須も少 々驚いた。
「…ん?何だ、そなたもいたのか」
続いて、すっかり耳に馴染んできた凛々しい少女の声が、来須の思考を 正常に戻した。制服の上着とシャツをすべて取り払った舞が、突然の闖 入者に何の興味も示さず、濡らしたタオルで自分の身体に付いた汗を拭 っている。
「すまぬな。てっきり誰もおらぬと思っていたので、ついはしたない格 好をした。……悪いが、1分だけ後ろを向いてくれぬか?かなり端くれ とはいえ、一応私も生理学上では女性に入るのだからな」
「…!すまん……」
弾かれたように来須は舞から顔を反らせた。律儀な彼の反応に、舞はほ くそ笑む。
「…そなたは、訓練か何かか?熱心な事だ」
着替えに手を伸ばしながら、舞は来須の背中に問いかける。
「…お前はどうなんだ」
気の利いた言葉が思い浮かばず、来須は鸚鵡返しのように舞に問い返し た。
「そうだな…私も似たようなものだ」
もうよいぞ、と声を掛けられて、来須は再び舞の方を向いた。
予備のシャツに着替えた彼女が、いつものようにきちんと背筋を伸ばし た状態で立っていた。
「…やはり、近い内にシャワー室などの施設を陳情した方が良さそう だな。すまなかったな、見たくもない貧相なものを見せてしまって」
「───いや」
「せめて私が、そなたの伴侶くらい豊満な身体であれば、まだ目の保養 になったのかも知れぬのだが」
「?」
続いて舞の口から出た言葉に、来須は怪訝な顔をする。だが、そんな彼 をよそに、舞は汗に汚れた自分の衣服を無造作に鞄に詰め込むと、来須 の横をすり抜ける。
「…それでは、私はこれで失礼する。また明日な…といっても、もう今 日だな」
多目的結晶で時間を確認しながら、舞はふふ、と小さく笑うと、颯爽と した足取りで教室から去っていった。
階段を下りていく舞の足音が完全に消えるまで、来須はその場で半ば呆 然と立ち竦んでいた。


「…だから、なんですって?」
「先程も言ったであろう。清掃用具は何処にあるのだ、と」

翌朝。

整備スタッフの集まる2組の教室では、静かに、だが確実にバイオレンス の嵐が吹き荒れていた。
手を腰に当てて毅然と立つ舞と、その美貌を僅かに歪ませた整備班長の原 が、後輩の森と一緒に睨み合っていた。
「そんなものは、衛生官の担当でしょう。どうして私の所に来るのよ」
「衛生官の石津が、今日は休みだからだ。あのような劣悪な環境では、小 隊にも学校生活にも影響が出る」
抑揚のない舞の声に、原は一瞬だけ視線を横に反らせたが、すぐに元に戻 すと、努めて冷静な声色を作る。
「……他人の部署を気遣う心意気は結構だけど、自分の部署をおろそかに されては困るわよ、パイロットさん」
「その心配は無用だ。自己の仕事場はすべてSランクだ。疑うのなら、後で 私の持ち場を確認するがいい」
整備士の立場で嫌味を言ったのだが、そんな原の皮肉を一笑すると、舞は 胸を張って答えた。
自信に満ち溢れた舞の態度に、原は柳眉を逆立てる。

「…今日ここに来る前に、詰め所の清掃用具を調べたのだが、あのような ボロでは掃除もままならん。早急に、代わりの物を用意する必要がある」
「…それは、新しい用具を頼まなかった石津さんの責任でしょ?」
「ところが事務官の加藤が言うには、石津は小隊発足の日に、すでに申請 を済ませていたそうだ。自分もその場に立ち会っていたから、良く憶えて いるとな」
些か非難めいた口調に、原は顔を強張らせた。
「……だが、その翌朝届いた荷物を加藤が確認したのを最後に、何故か石 津の頼んだ清掃用具だけが消えていた。石津でないとすると、故意に誰か が持ち出した可能性がある」
「だからって、どうして私なのよ!?」

舞の視線に耐えられなくなったのか、原はヒステリックに声を張り上げた。
「そうです!何で原先輩がそんなの知ってるんですか!?」
「…ほぉ。ならば森、そなたが知っているのか?」
「───え?う、ウチが?そ、それは……」
ヘイゼルの視線を向けられて、森は困ったように俯いた。そして、ちらり と横の原に目をやる。
「……そうか、良く判った。知らぬなら構わん。私は私で、勝手に探すだ けだ……ありとあらゆる所をな」
舞は、横目で原と森のふたりを睨むと、踵を返そうと足を動かした。
「……倉庫よ」
教室のドアに手をかけた舞の背中に、押し殺したような原の声が届いた。
「何だと?」
「───倉庫の中にあるって言ってるのよ!」
観念したように下を向くと、原はわなわなと唇を震わせた。
「知っているのならば、さっさと言うがいい。まったく、手間取らせお って……」
舞は鷹揚に返事をすると、もう用はないとばかりに教室のドアを開け放し た。
だが、何かを思いついたように原を振り返ると、どこか悪戯っぽい目つき をする。
「原。そなた、食事はきちんと三食取るがいい。欲求不満によるストレス は、『だいえっと』とやらの大敵だというぞ」
そして、何事もなかったかのように舞が出て行った直後。
2組の教室のドアには、感情を爆発させた原の投げたシャーペンが、鋭い音 を立てて突き刺さった。


倉庫で清掃用具を入手した舞は、詰め所にあったボロの用具と取り替える と、大量の洗濯物を抱えてプレハブの屋上へ向かった。
「…いい日和だ」
シーツを広げながら、空を見上げる。雲ひとつない青空と陽光の眩しさに 目を細めながら、舞は洗濯物の籠に手を伸ばす。
すると反対側から、舞とは違う手が洗濯物を掴んできた。

「手伝うデス」

顔を上げると、背の高い褐色の美女が、舞に微笑みかけてきた。
「…小杉か。すまぬな、助かるぞ」
「困った時ハお互い様デス」
互いに目線を交し合うと、舞とヨーコは晴天の下、洗濯物を干し続けた。
「…さっき、原と森と喧嘩してましタデスね。喧嘩ハ良くないデスよ」
「喧嘩ではない。石津の代わりをしただけだ」
「?」
「──用具の場所は、はじめから判っていた。あのふたりが、石津を困 らせる為にやった事もな」
タオルを物干しに掛けながら、舞は屋上からグラウンドを見下ろす。
「…だが石津は、面と向かって闘う事の出来ない人間だ。おそらく、誰に も何も言えずに自分の中に溜め込んで、ボロの用具で無理に作業を続けて いたのだろう…身体を壊すのも、当然という事だ。それに、原たちに己の 所業を認めさせなければ、きちんとした解決にはならぬ。これで、あいつ らも大人しくなるだろう」
「……優しいデスね」
「私は優しくなどない。いらぬ事で小隊に影響が出ては、たまらんだけだ」
舞はぶっきらぼうに、それでいて何処か照れたような声を上げた。そんな舞 の様子に、ヨーコは小さく笑った。
「…小杉。そなたの笑顔は優しいな」
「ソウデスカ?」
「うむ。温かくて、人の心を和ませてくれる良い笑顔だ。もしも私が男な らば、間違いなくそなたに交際を申し込んでいる所だぞ」
「嬉しいデスネ」
舞の賛辞に、ヨーコは素直に感想を漏らす。
「まったく。来須がそなたに惚れるのも良く判る」
だが、続いて出た舞の言葉に、ヨーコはエボニイ(褐色)の美貌を曇らせた。
「舞サン…」
「───何だ?今更隠す事もなかろう。初めて会った時にも思ったのだが、 傍目に見ていても、そなたたちの姿はとても微笑ましいぞ。いや…そなた の笑顔を独り占めにしている来須は、少々憎らしいかも知れぬな」
「……」

明るく笑う舞とは対照的に、ヨーコはますます表情を硬くさせた。
自分と共にいる義弟は、自分の事を好いてくれている。
だが、それは家族や兄弟に対する愛情であって、決して男と女のものでは ないのだ。
───そして、その愛する義弟が、帽子の影からいつも見つめている人物 とは……

「ゴメンナサイ。ワタシ、用事を思い出しマシタ」
「そうか。ならば、私の事は気にせず早く行くがいい。そなたのお陰で大 分はかどった。礼を言うぞ」
「……イエ」
舞から顔を背けるように、ヨーコはパタパタと屋上の階段を駆け下りた。
一歩足を踏み出す度に、心の奥がずきりと痛む。
「…いっそアナタが男だったら良かったのに。それか、アナタが『イヤな ヤツ』だったら良かったのに……」
自分の叶わぬ想いと、義弟の想い。そして自分たちを気遣ってくれる舞の 想いが、ヨーコの中で渦巻いていた。唇をきゅっと噛み締めると、誰にも 見せたことのない程の悲痛な表情を浮かべる。
「そうしたら、まだアナタの事を憎めタのニ……」
やるせない想いに、ヨーコは寂しそうに呟いた。

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