不思議の森のアリス   友達に会いたいけど
ひとつ嘘をつくまで   あの街には帰れない
「不思議の森のアリス」(高岡早紀)より
    

『不思議の森のアリス 〜魔王陥落〜』



鈍い音と共に、巨体が地に沈んだ。
それを冷たい視線で見下ろしながら、少年はゆっくりと言葉を紡いだ。

「…言っておくけど、僕がやめたのは人殺しだけだよ。見てくれだけで判断す ると、どんな目に遭うか良く判っただろう」

その美貌とは裏腹に、少年の言葉にはひとかけらの慈悲もなかった。
手に付着した血を無感動に一瞥すると、未だ苦悶に呻く巨体の腹を蹴りつける。
蹴りつけられた方は、げっ、と低く唸るとそのまま動かなくなった。
「まったく…加減すんのって、難しいよね。これなら、殺しちゃった方が ずっと楽なのになあ」
飄々と物騒な言葉を口にした少年は、自分の鞄と脱ぎ捨てられた制服の上着 を拾い上げると、失神した巨漢に目もくれず、そのまま横断歩道を渡って、 目的地である高校の校舎へと歩いていった。

戦車兵を養成する学校の一つである、熊本尚敬女学院の一角に間借りしている、 オンボロのプレハブ校舎。

ここが、今日から少年が学兵として所属する事になった5121独立駆逐戦車小隊 であり、また少年が新たな生活を始める為の大切な隠れ蓑でもあった。


第6世代が死よりも怖れる次世代人類研究所…通称「ラボ」で、ある実験体が 逃亡するという事件が起こったのは、ひと月ほど前の事であった。
ラボ内における出来事は公然の秘密になっているので、詳細は不明だが、逃亡 した実験体はブルー・ヘクサの少年で(少女ではないかという説もある)、 類稀な美貌と能力を誇る人物との事である。
追跡しようにも、関係者は全員殺害されているし、その実験体が、己の身分や 姿を偽っている可能性もあるので、調査は未だ暗礁に乗り上げたままであった。


女子校に到着した少年は、スロープを渡ると、プレハブ校舎を目指して足を 動かしていた。
扉を潜り抜けたところで、穏やかな雰囲気と香りが、少年の鼻孔を擽った。
顔を上げると、暖色系の花の群生が少年の視界いっぱいに広がった。

「わあ……」

少年は思わず声を上げると、花壇へと歩み寄る。小さな花壇ではあったが、 チューリップやパンジーなど、季節の花々が美しく咲き誇っていた。
「綺麗だな……」
素直にそんな感想を漏らしながら、少年は腰を屈めると、色とりどりの花を うっとりと見つめていた。
このような最前線の街の片隅でも咲く花々に、少年は、暫し時間を忘れて魅 入ってしまう。

「…!」

その時、少年の背後で土をいじる音がした。
弾かれたように振り返ると、そこには麦藁帽子を目深に被った人物が、少年と 背中合わせになるように、片膝をついて花壇に生えた雑草を取り除いていた。
少年は警戒を解くと、その人物を観察する。
Tシャツにトレーニングウエアのズボンという出で立ちの、体型からしてど うやら女性のようであった。
慣れた手つきで土いじりをしている所、おそらくこの学校の用務員か何か であろうと少年は思った。

「貴女が、この花壇の世話を?」

少年は、出来るだけ穏やかな声で女性に話し掛けた。
女性は手を止めると、少年を見上げた。帽子の陰に隠れて顔は判らないが、 生命力に満ちたヘイゼルの瞳が覗いていた。
「正確には違う。私がこの花壇に足を踏み入れたのは、今日がはじめてだ」
女性の、それも少女にしては、妙に凛々しい声が返ってくる。
「この花壇を作った者は、女子校の戦車兵だったようなのだが…先日の戦闘で 死んだらしい」
「……そう」
他愛のない会話だったが、それでも戦争の重みは、少年と少女の言葉に綴 られていた。
「だが彼女のいない今でも、この花たちは美しく咲いている。きっと彼女は、 一生懸命にこの花壇の世話をしていたのであろう。このような戦争のさなか でも、力強く育つように。そして、そんな彼女の想いに、この花たちは応えよ うと思ったのであろうな…」
「想い、か…」
少年は、ぽつりと少女の口にした「想い」という単語を呟く。
少女は土に汚れた軍手を外すと、ポケットからハンカチを取り出して、少年 に手渡した。

「…何?」
「拳に血が付いているぞ」

言われて、少年は己の右手を見た。先程の喧嘩で、相手を殴り倒した時に付い たものであった。
「…ありがとう」
自分の血ではないので痛みはないのだが、本当の事を言っても怪しまれる だけなので、少年は素直に少女の好意に甘えることにした。礼を言って ハンカチを受け取ると、自分の拳に巻き付ける。
「そなたは、プレハブ校舎の生徒だな?」
「あ…うん、そう。何で判ったの?」
このコ、さっきから随分堅苦しい言葉遣いするなあ、と内心思いながらも、 少年は少女の質問に答える。
「ここは女子校だぞ。そこに学兵らしき男子がいるなど、他に理由がないで あろう?」
少女に言われて、少年は「あ、そうか」と返した。少女の笑声につられて 少年も小さく笑みを零す。
「僕は速水。速水……厚志っていうんだ」
少年速水厚志は、胸に手を当てると自分の名前を少女に告げた。
「そうか。私は…」
速水の自己紹介を聞いて、少女も口を開きかけたが、その時辺り一帯に予鈴が 鳴り響いた。
「───いかん、つい長居をしてしまった」
何処か慌てたように呟くと、少女は勢い良く立ち上がる。
「そなたもそろそろ行くがいい。初日から遅刻というのは、あまり名誉な事 ではあるまい?」
「そうだね。じゃあ、僕行くよ」
「ああ。ではな、速水」
言うが早いが、少女は速水の目の前から音も立てずに姿を消してしまった。
「──テレポート?あのコ、相当な同調か情報能力持ってるんだ…」
速水は暫し感心していたが、やがて踵を返すと、プレハブ校舎の階段を駆け上がった。
一気に二階まで到着すると、ふと思い出したように足を止める。

「……待てよ」
速水は、腕を組みながら首を傾げる。
「彼女…何で、今日がこの小隊の初日だって知ってたんだろう?」


少年速水厚志のそんな疑問は、あっという間に解けた。
花壇で出会った少女こそ、自分と共に士魂号3番機に搭乗するパイロットであり、 芝村一族の末姫と呼ばれる、舞その人であったのだ。
この小隊に芝村の姫君が入隊するのは事前に調査済みだったが、速水としては、 もっとスマートに彼女に近づく予定であった。
ところが、先程速水が教室の机に坐った途端、後から声を掛けられ、「あ、この 声はさっきの女の子だな」と思って、正面から彼女の姿を確認するや否や、速水 は度肝を抜かれてしまったのである。

『…芝村のお姫様が花壇で土いじりだなんて、誰も考える人いないよ』

内心ぶすくれながら、速水は昼食を口に運ぶ。クラスメイトの滝川陽平に誘わ れて、彼は学校の近くの食堂「味のれん」に来ていた。
滝川と一緒に教室を出て行く時、舞は、自分の後ろの席に腰掛けた体格の良い 男と話をしていた。
戦車随伴歩兵(スカウト)で、確か名前を来須銀河と言っていた。寡黙 な男という印象が強かったが、何故だか彼女の前では、普通に喋っているよ うに見えた。
『お姫様のボディガードってトコか。情報によると、二組の小杉ヨーコもその ような立場のはず……』
滝川と適当に会話をしながら、速水は頭の中で思考をめぐらせる。
『…まあ、同じ部署なんだからいくらでもお姫様には接近できる訳なんだし、この 僕にかかれば、たかだか女の子ひとり陥落させる位、雑作もない事さ』
速水は、滝川に気付かれないように冷ややかな笑みを漏らした。
『───でも、』
ふと速水は、舞の姿を脳裏に浮かべた。力強いヘイゼルの眼差しに、身に纏う 風格は、まるで王者のそれを思わせた。
器量も、確かに美しい部類には入っているのだが、それ以上に男の目から見ても、 「凛々しい」という単語が似合いすぎていたのである。
『彼女…何だかお姫様なんていうガラじゃないような気がしたな。正直あんな コだったなんて、思ってもみなかったし……』
「どうしたんだよ?」
隣の席でコロッケを食べていた滝川が、速水の横顔を覗き込んできた。
速水は慌てて思考を止めると、「なんでもないよ」と人当たりの良い笑顔を 滝川に向ける。
『…まずは、地盤固めからかな?小隊の連中に変に睨まれでもしたら、 やりにくくなるだろうし』
人畜無害そうな滝川の顔を見つめながら、速水は今後の計画の進め方を、頭の 中で整理していた。


小隊発足後、初めての日曜日。
「遅い!もう少し調整の仕方を考えろ!」
「さっきからやってるっつーの!」

士魂号の眠るハンガーの2階では、滝川の怒声と舞の叱責が轟いていた。
滝川に戦車技能を獲得させるよう、司令の善行に頼まれた舞は、マンツーマン で滝川の指導に当たっていた。
だが、一向に好転しない訓練の結果に、元々沸点の低い滝川はいい加減キレ かかっていた。

「だーっ、もう、やってられっかよお!」

シミュレータのヘッドセットを叩きつけると、方々に撥ねた自分の頭を掻き毟る。
「何をしている、それくらいで弱音を吐くな!」
「できねーもんはできねーんだから、しょーがねぇだろ?俺は、あんたみたい な天才なんかじゃねーんだよ!」
手を腰に当てて、舞は寝転がってしまった滝川をたしなめた。だが、朝一番で訓 練を始めて、もう昼下がりになろうかというのに、何度やっても上手くいかない 己の不甲斐なさに加えて、疲労もピークに達していた滝川は、すっかりいじけ てしまっている。
「そなた、パイロットになりたいのではなかったのか?そなたなら大丈夫だ。 さあ、もう一度だ!」
床に転がったヘッドセットを拾い上げると、舞は滝川の前に差し出した。
「何であんたに、そんな事判るんだよ?」
「そなたは、自分でパイロットになりたいと言っているではないか。…その気持 ちを失わない限り、そなたは必ず出来る」
「………」
舞はそう言うと、もう一度ヘッドセットを滝川の前に出す。
半ば八つ当たりもあった滝川は、舞の言葉に気まずそうに起き上がると、黙って それを受け取った。

「…滝川。そなたはどうしてパイロットになりたいと思ったのだ?」
「───な、何だよいきなり…」
「教えてくれ」

突然の質問に、滝川は何の冗談かと思った。だが、舞の顔は真剣だった。
力強い彼女のヘイゼルの瞳につられるように、滝川は口を開く。
「…俺、パイロットになって、正義のヒーローになりたいって、ずっと昔から 思ってたんだ。ガキっぽいかも知れないけどよ……」
幼少の体験が元で閉所恐怖症になってしまった滝川は、狭いコクピッドに入る パイロットは自分に不向きである事は、嫌というほど判っていた。
それでも、幼い頃からの夢はそう簡単に諦められなかった。慣れない勉強を して、どうにか戦車学校に合格する事が出来た。
だが、戦車小隊に入隊したものの、今の自分は単なる小隊のお荷物である。
手に職を付けられず、また、自分の弱さを克服する事も出来ずに。
ひとりよがりの憧れを、滝川は笑い飛ばされると思ったが、舞は笑わなかっ た。シミュレータのスイッチを入れながら、滝川にもう一度尋ねてくる。
「…ならば、その正義のヒーローになる為に、必要なものは何だと思うか?」
「───え?」
「難しく考えなくとも良い。そなたの思うままに答えてみよ」
舞の言葉に、滝川は自分の中にある理想のヒーローを思い浮かべてみた。
「えっと…どんな強敵にも怯まない度胸、かな……?」
「───そうだな。他には何か思い付かないか?」
「…他に?」
シミュレータのヘッドセットに、模擬の映像が映し出されていたが、滝川は、 舞の言葉だけに反応していた。狭い空間も暗闇も何も気にすることなく、 穏やかな彼女の声に意識のすべてを集中させる。
「確かに度胸も大切だが、それだけでは、そなたの言う正義のヒーローには 不十分だと思うぞ」
「…う〜ん…あとは…どんな境遇に立たされても、素早くそれに対処できる 事……かなあ?」
「───それを、専門用語で言うとどうなる?」
「…反…応…そう、反応速度だよ!どんな強敵にもびびらない度胸と、敵の行 動や戦況を直ちに読み取れる反応速度だ!」

そう、元気良く滝川が答えた瞬間。

シミュレータが、ポンと快活な音を上げた。
続いて、滝川の装着したヘッドセットのバイザーに、「YOUR ACTION IS GOOD!」 という文字が表示される。
「…あ……」
「───成功だな」
腕を組みながら、舞は小さく笑った。
滝川は、暫くの間呆然とバイザーの文字を見ていたが、やがてヘッドセットを 外すと、
「…ぃやったあああっ!」
ようやく手に入れた成功に、全身で喜びを表した。思わず舞に抱き着くと、両手 でブンブンと握手をする。
「あ、ありがとな!それと…さっきは…ゴメン」
「私は何もしておらぬ。そなたの努力で勝ち取ったものだ」
掴まれた手をゆっくりと解くと、舞は自分より少しだけ背の高い滝川の顔を見た。
「ただ…ひとつだけ言っておく。良いパイロットの第一条件は、生き残る事だ。 これから先、たとえ負けるような戦いがあったとしても、生きていればどうにか なる。死んでしまっては何もならん。いいな……死ぬなよ」
舞のヘイゼルの瞳が、僅かに曇った。皮肉でも挑発でもない真剣な少女の眼差し が、滝川の瞳と、その裏の心を捉えた。
「な…何だよ。ンなマジになんなくても大丈夫だって。俺だって、死ぬのは イヤだしな」
仄かに染まった自分の頬を見られないように、滝川は舞から顔を背けた。
そんな滝川の行動に首をかしげながら、舞は「そうか」と小さく頷く。

「───やったね、滝川。念願のパイロットへの夢が叶ったじゃない」

その時。ハンガーの階段を上りながら、速水がふたりに声を掛けてきた。
「速水」
「芝村との特訓の成果があった…ってトコだね。本当におめでとう」
ニッコリと笑うと、速水は滝川の手を軽く握る。握られた滝川は、照れながら も素直に速水に礼を言った。
「せっかくだから、委員長に報告しておいでよ。善行司令なら、未だ小隊長室 にいたよ」
「おっ、そうか!じゃあ俺、ひとっ走り行ってくるぜ!ふたりとも、又後でな!」
「うん」
「慌てて転ぶなよ」
足取りも軽やかに、滝川は速水と入れ替わるようにハンガーの階段を下りて
いった。


残された速水と舞のふたりは、暫し無言で滝川の出て行った方を見つめる。
やがて、舞は速水から背を向けると、シミュレータの器材の片付けを始めた。
「……見させてもらったよ。お見事だったね」
速水は背中越しに舞に声を掛けた。
「何がだ」
舞は振り向かずに返事をした。
「閉所恐怖症の滝川を、あんな簡単に克服させるなんて、流石は芝村の実力
ってヤツかな?」
「それは違う。滝川の可能性と努力が、成功を導いたのだ。私は、単にその手助 けをしたにすぎぬ」
無感動に答えると、舞は器材のすべてを箱の中に仕舞った。倉庫へ戻しに行こ うと持ち上げかけたが、背後の奇妙な雰囲気に気付き、手を止める。
「……速水?」
「舞……」
何処か艶を帯びた声で、速水は背後から舞に近づいた。訝しそうに振り向こう とした彼女の肩を掴むと、そのまま自分の身体を摺り寄せる。
「僕…君の事がもっと知りたいな」
囁きながら、速水は絶好のチャンスに内心胸を躍らせていた。今まで幾度と なく女を落としてきた手段である。
いくら芝村一族の人間とはいっても、所詮は14歳の少女である。
このような甘いシチュエーションに平気でいられる筈がない。
「…私の、何だと……?」
「何もかもだよ、舞……」
舞の質問を無視すると、速水はうっとりと呟きながら舞の耳元に唇を寄せる。
あと少しでこの姫君を自分のものに出来るかと思うと、速水は背筋がゾクゾ クしてきた。

だが。

「うわあっ!?」

この「姫君」の反応は、彼の予想をものの見事に覆してくれた。
今まさに速水の唇が舞の耳たぶに触れようとした瞬間、舞は速水の手を取ると、 その身体を投げ飛ばしたのである。
思いもよらぬ舞の行動に、速水は受け身も取れずに宙に一回転したが、寸前に 腕を引かれた為に、どうにか地面への激突は免れた。
「───私の事が知りたいのなら」
だらしなく尻餅をついた速水に、舞はいつもと寸分違わぬ声で告げる。
「小隊長室に行けば、全員のプロフィールの書かれたファイルがあるはずだ。 善行に頼んで見せてもらうがいい。…それと、」
「?」
「迂闊に私の背後に立つな。ついクセで、技を出してしまう事がある」
冷たい視線で自分を見下ろす舞に、速水は何も言えなかった。そのまま何事も なかったかのように器材を運んでハンガーの階段を下りていく舞を、呆然と
見送る事しかできなかった。

「そんな馬鹿な…この僕の技が通用しないなんて……」

舞がいなくなったハンガーに残された速水は、自分の手管に落ちなかった 相手がいたという事実に、立ち上がる事も忘れたまま坐り込む。


芝村の姫君をたらし込んで、自由と権力をモノにしようという彼の計画は、 どうやら初っ端から難色を示しているようであった。



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