微かに聞こえる水音に、速水は意識を取り戻した。

「…くっ」
突然襲ってきた激しい頭痛に、速水は苦悶の声を上げる。手を動かそう としたが、適わなかった。速水の身体は椅子に拘束され、ご丁寧に手錠 まで掛けられていたのである。

あの時。一瞬の隙を突かれた速水は、男からの一撃を受けて昏倒した。
そして気を失っている間に、何処か別の場所へ運び込まれたようである。

『僕は…丸一日気絶していたみたいだな』
多目的結晶からの情報で、速水は現在の日付を確認する。そして、顔を上げ ると周囲を見渡した。
薄暗いだけの空間から、徐々に目が慣れていく。埃にまみれているが、 どうやら何かの施設のようである。
「……?」
部屋の様子を確認していく度に、速水の顔が青ざめていった。
備え付けの洗面台に、部屋の中央に置かれた医療用のパイプベッド。
リノリウムの床に、べっとりとこびりついた鈍色の塊が、数ヶ所に散らばっ ている。
その塊の正体を、速水は嫌というほど知っていた。
何故なら、かつて彼が自らその鈍色をこの床にぶちまけたからである。

「そんな…ここは……!」
「───お目覚めか?」

ドアの開く音と共に、細身の男が、顔に薄笑いを張り付かせながら、速水に 近付いてきた。
「ここが何処だか、憶えているようだな。そうだ、ここは元々お前の為の 部屋だった所だよ」
「…悪趣味だな」
抑えきれない悪寒に、速水は表情を硬くする。
「フン、お前に言われたくはないぞ。……善人ぶったその成りで、俺たちを ひとり残らず殺して回ったのは、何処の誰だ?」
「……」
「そして、お前はここを出ていく時に、研究所のメインシステムまでをも破 壊していった。おかげで、この施設は使い物にならなくなったがな…研究の すべては、俺たちもろとも闇に葬り去られようとしていた…だが、」
乱杭歯を覗かせながら、男は自分の青白い顔を奇妙に歪ませた。
「俺は死ななかった。…いや、お前に対する憎悪の念が、俺を地獄から呼び 寄せたんだ。俺はお前の行方を追い求め、そして遂に探り当てた。…5121小 隊とは、考えたじゃないか」
息だけで笑うと、男は速水の顎に手を掛ける。
「あそこには、芝村一族の姫君がいるという話だな。お前の手管に、喜んで 腰でも振ってきたか?」
「───彼女を侮辱するな」
下品な揶揄に、速水は思わず鋭い声で反論した。
「……意外だな。お前が、他人に対してそのような物言いをするとは」
速水の反応が予想外だったのか、男は素直に驚愕の声を上げる。
「──まあ、いい。どうせお前は、何処にも戻る場所などないのだからな。 あの小隊には、俺が偽造した書類を提出しておいた。連中は、今頃お前が 『故郷の岡山』に帰ったと思っているだろうよ」
「……!」
速水は、入隊時にもっともらしい経歴をでっち上げて、軍に潜り込んでいた。
それが、思わぬ所で裏目に出たようである。
「せいぜい、これまで自分のしでかした事を後悔するのだな。…なに、時間は あるぞ。たっぷりとな」
速水の顔から手を離すと、男はせせら笑いながら部屋を後にする。
身体の自由を奪われた速水は、その背中を睨み付ける事しか出来なかった。


「───この小隊が発足する、ひと月ほど前の事です」
声のトーンを落としながら、善行は口を開いた。
「とある研究所が、突然閉鎖しました。表向きの原因は、システムの故障に よる研究所内全員の集団感染、死亡という事でしたが、真実は違いました」
「……いいのか?そんな事俺たちに話して」
瀬戸口が、善行の言葉を切った。研究所…「ラボ」に関する事柄は、ある意味 軍機にも触れる。
内容次第では、粛清されてもおかしくないからだ。
「いいですよ、別に。あなたたちが秘密を漏らすようには見えませんし。 それに…万が一の時には、全員で仲良く銃殺されればすむ事です」
口調はおどけていたが、善行の顔は真剣だった。瀬戸口はごくりと喉を鳴 らすと、覚悟を決めたかのように、善行に続きを促した。
「私の知っている情報によると、その研究所……いや、もうラボでいいです ね……ある実験体が逃亡をしたのが本当の原因だそうです。その際、ラボ の関係者を全員殺害し、メインシステムを破壊していった、と………」
「──それが、速水だと?」
「断定は出来ませんが、その可能性は高いと思います」
来須の質問に答えると、善行は自分の眼鏡を片手で押さえ直した。
「じゃあ、あのオトコが速水サンの叔父サンというのも、ウソくさい デース」
「…つまりぼうやは、あの野郎に誘拐されたか、一緒に行かざるを得 ない状況に陥った…ってトコだな」
小杉と瀬戸口の会話を耳にしながら、舞はひとり考え事をしていた。
親指と人差し指で顎と頬を挟みながら、視線を床に落としている。

「まいちゃん」

そんな舞を見て、ののみが声を掛けてきた。
「あっちゃんは?あっちゃんはどうなるの?」
「ののみ…」
「あっちゃん、こんどのお休みにののみにお菓子を作ってくれるってやく そくしたのよ。あっちゃんは、ほんとーにけんきゅーじょにいっちゃ ったの?」
幼い眉根を寄せながら、ののみは不安そうに舞を見上げてくる。
「──ののみ」
「なあに?」
「速水は好きか?」
ののみの視線に合わせるように、舞は腰を屈めて彼女に問う。
「…うん!ののみは、あっちゃんがだいすきなのよ」
小さな口をいっぱいに広げて、ののみは元気良く答えた。
「それでは、あの叔父さんはどうだ?」
二度目の舞の質問を聞いて、ののみは今度は露骨に顔を顰める。
「キライなのよ。あの人ホントは、あっちゃんのおじさんなんかじゃ ないもん。それに、あの人からはけんきゅーじょのにおいがしたの」
ののみの言葉に、舞は大きく頷いた。そして立ち上がると、善行たち に向き直る。
その力強いヘイゼルの眼差しに、善行たちは一斉に舞を見る。
「決めた」
「芝村さん?」
「これから速水を迎えにいく」
力強い舞の声が、部屋中に響いた。


速水は、果てる事のない暗闇の中を必死に逃げていた。
懸命に駆けているのだが、何故だか足が思うように進まない。そうして いる内に、白衣に包まれた人間の手が、彼を捕えようとあちこちから 伸びてきた。
「くっ!」
くすねてきた医療用のメスで、速水は研究者たちを切り刻む。ためらいは なかった。こうしなければ、やがて殺されるのは自分の方なのだ。
ぶしゅ、と肉を突き刺す音がして、またひとり白衣の人間の身体が地に 倒れる。
はあはあ、と荒い呼吸を繰り返す速水の耳に、信じられない声が聞こえた。

「…なんでだよ。俺たち親友じゃなかったのかよぉ……」
「───!?」

弾かれたように振り返ると、そこには血にまみれた滝川が、速水に絶望と 悲哀の眼差しを向けていた。
「た……滝川!?なんで……!」
「はやみ…」
「速水…くん……」
続いて、速水の目の前に信じられない光景が広がった。
自分が殺した研究者たちが、クラスメイトの姿で所狭しと横たわっていたの である。

「ぼうや…いくら何でも、あんまりじゃねぇの……?」
「痛ぁい…あっ…ちゃ…ん…痛いよぉ……」
「…呪…う…わ……」
「あんた…人殺しや……」

クラスメイトたちから呪詛の言葉が飛んでくる。速水は顔を引きつらせ ながら、激しく首を横に振った。
「───違う、違うよ!僕は、みんなの事を殺そうとなんか思ってない!」
後退しようとして、速水は足を滑らせた。そのまま、血の池と化した床に 尻餅をつく。
すると、背後から聞き覚えのある少女の声がした。
「速水」
「……舞?」
顔を向けると、腕を組んだままの姿勢で、舞が速水を見下ろしていた。
「なるほど。それが、貴様の正体か」
「ま、舞。違うんだ、これは……」
「気安く私の名を呼ぶな。この人殺しが」
弁解の隙も与えず、舞はまるで汚らわしいものでも見るように、速水に冷たい 視線を送る。
「…一時とはいえ、こんな腹黒い男が私の相棒だったとはな。まあ良い。 どうせそなたとはこれっきりだ。私には、新しいパートナーもいる事だしな」
舞はそう言って、自分の傍らに立つ背の高い見知らぬ男に微笑みかけた。
男が差し出してきた腕に、自分の腕を当然のように絡ませる。
「舞……」
「私はこの男に、身も心も何もかも捧げた。……判るであろう?」
目の前の舞が、今まで見せた事のない妖艶な笑みを浮かべた。抱き寄せて きた男と唇を重ねると、曰く有りげな視線を向けてくる。
「そなたなど、もう用済みだ」
「ま……!」
速水から背を向けると、舞は男と共に去っていく。速水は慌てて起き上がると、 舞の後を追いかけようとしたが、血溜りに足を取られて転倒した。
速水の制服と顔が鈍色に染まる。

「舞、待って!お願い…行かないで!」

無数の屍が横たわる血の海で、速水は絶望の叫び声を上げた。


「正気ですか?ラボに潜入するなど、無謀にも程があります」
そう語る善行の声色には、いつもより若干の感情が込められていた。
「今は閉鎖されているのであろう?フル稼働している訳でもないし、忘れ 去られているにも等しい場所だ。…それに、」
ノートパソコンを片付けながら、舞はふと視線を宙に泳がせる。
「あいつは…速水は、私の相棒だ。やつの口から直接、別れの言葉を聞かぬ 限り、私は何があってもやつを連れ戻す」
舞はそう言うと、今度はロッカーから折り畳み式の2本の小太刀を取り出した。
スカウトが白兵で用いる時のカトラスと同じ材質で作られたこの小太刀は、 彼女が自分専用にと芝村から特別に取り寄せた武器である。
柄に巻かれた組紐と、その先端に取り付けられた金銀2つの鈴が、小さく 音を立てた。

「俺もやるぜ、芝村。坊やを助けるんだ」
「ワタシも手伝うデス」
「…俺も行こう」

舞から少し遅れて、瀬戸口たちも続いた。小隊長室のドアを開けると外に 躍り出る。
「芝村さん」
善行は振り返ると、舞の背中に呼びかける。
「止めてくれるな、善行。例えしくじったとしても、そなたには類が 及ばぬよう証言する。そなたたちを守れるというのなら、この生命など惜し くはない。笑って処刑台に登ってやる」
口元に笑みを浮かべる舞に、善行は思わず目を見張った。迷いの欠片も ないその表情は、紛れもなく彼女が『あの男』の娘である事を証明して いたからである。
善行は片手で眼鏡を押さえると、小さく息を吐いた。そして、再び顔を上 げると口を開く。

「……これは、わたしの独り言なんですけどね」
「───ダンナ?」
「多目的結晶は、使わないでおきなさい。閉鎖されている施設ですが、未だ 何かしらのコンピューターが稼動している可能性もある」
「…エ?」
「それから、教室の私の机の中にバインダーがあります。アバウトですが、 確かあそこの地図もあるはずです。…迷子防止くらいにはなると思います よ」
「善行……」
「……何ですか?私は今、『独り言』を言っただけですが」

善行は呟くと、僅かに表情を揺らめかせた舞から顔を背ける。
「───感謝する」
ひと言短く謝辞を述べると、舞たちは小隊長室を後にした。
「……いいですね。必ず帰ってくるんですよ」
彼らを見送りながら、善行はほんの僅かだが口元を綻ばせた。



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