カラン、と天井の通気孔のフタが、音を立てながら床に落下したと同時に、3つの影 が舞い降りてきた。
その動きに男が目を奪われている隙を突いて、3人は、速水を庇うように立ちはだかる。
「…身動きの出来ぬ者を、このような方法でいたぶるのは、お世辞にも趣味が良い とは言えぬな」
「坊や、平気か!?」
「……」
軽く服の埃を払いながら、口を開いた影の正体に、速水は驚愕と感動に目を丸くさせた。
「速水。大丈夫か…その頭……?」
「ぁ…!」
振り返った舞のヘイゼルの瞳が、速水の染料の落ちた青い髪を見つめてくる。
彼女の声と視線に、速水は唇を戦慄かせながら顔を背けた。
椅子に縛られたまま、無意識に震え始めた速水の姿を見て、舞は、懐から 小太刀を1本取り出すと、彼を拘束していた手錠と縄を切る。
自由になった手で、尚も必死に己の髪を隠そうとする速水の仕草を見て、舞は来須に視線をやった。
主(あるじ)の意図に気づいた来須は、小さく頷きながら帽子を取ると、速水の頭に被せてやる。

「何だ、貴様ら……」
予期せぬ展開に、男は瞳をギロつかせながら、学兵とおぼしき闖入者たちを見回した。
己の悦楽に水を差された憤りを、その濁った視線を彷徨わせるうちに、長く髪を下ろした 少女の姿が目に飛び込む。
「ん?お前は…確か今朝の……学兵の小娘が、こんな所に何の用だ?」
「……それだけか?そなたの上の立場にいた人間は、ロクに私の事を話さなか ったのか?」
だらしなく開いた口から紡ぎ出された科白を聞いて、舞は揶揄するように返す。
それを聞いて、男はもう一度改めて、目の前のふてぶてしいまでに堂々とした少女の姿を 凝視した。
すべてを見透かすようなヘイゼルの視線に気づいた男は、漸く記憶の片隅にあった『あの 一族』についての、重要機密に思い当たる。
「貴様は…芝村の……!」
「やっと気づいたようだな」
来須から渡された帽子を被った速水を一瞥しながら、舞は腕を組み直した。
あくまでも口調は穏やかだったが、その瞳には静かに怒りの炎が揺らめいているようだった。

「そうか…お前が、『芝村の変異体(イレギュラー)』か。実験動物の成れの果てが、 何をえらそうに……」
「黙れ。私が『変異体』ならば、そなたなどただの『変態』であろう」
巧みな舞の切り返しに周囲は絶句した。男は唇を醜く歪め、瀬戸口は、非常事態にも拘らず、 思わず横を向いて吹き出してしまう。
「とにかく。こやつは返して貰うぞ。これ以上、そなたの変態な戯れにつき合う義務 などない」
顔の汚れをハンカチで拭ってやりながら、舞は速水の手を取った。
歩けるか、との問いに小さく肯定の返事をした速水を確認すると、ゆっくりと立ち上がら せる。
「…そなたの咎については、私は追求せぬ。その代わり、彼や私たちにこれ以上関わるのは、 やめにして貰おうか」
もう興味はない、とばかりに背を向けると、舞はこの部屋本来の出入り口であるドア へと向かった。
「さあ、帰るぞ。皆、そなたの事を心配している。早く安心させてやるが良い」
「ぅ…うん……」
脇からさり気なく弱った身体を支えながら、舞は、速水に微笑みかけた。
何処までも優しい笑顔に、速水はつい己の状況も忘れて頬を赤くさせる。
しかし、


突然、背後から飛んできた酒の空瓶を、舞たちは体勢を低くしてかわした。
振り返った視線の先に、赤鬼の如く全身を怒りに染めた、男の禍々しいそれにぶつかる。
「ふざけるな……俺の咎、だと……?ならば、そこのガキの咎はなんだというんだ!?」
口から異常なまでの泡を飛ばしながら、男は節くれた指を、速水に突きつけてきた。
「そもそも、俺がこんな風になったのも、元をただせばそこのガキの所為だ!貴様は、 そいつが『ココ』で、何をやってきたか知らんのか!?」
感情の赴くままにがなり立てる男を、舞は無言で見つめ返した。
「───知っている。大体の事は、な」
無感動に答えた舞の横顔を、速水は、何処か怯えた様な目つきで窺う。
「…だが、彼が過去に『ココ』で何をしようが、私には興味もなければ、関係もない。 私には、今の速水が必要なだけだ。…大切な相棒だからな」
「舞…」
「何ィ…?」
「だから、仮に私がこれから先、彼に寝首をかかれようが、それでも良いと思っている。 その時は、私の骸を踏みつけて笑い飛ばすがいい」
まるで、何かに縋り付くように、速水が舞の制服の袖を掴んできた。
不安に震える青い瞳に、舞は数回瞬きをすると、僅かに微笑みながら首を振る。
「…芥(あくた)のガキが、賊の傘の下で好き放題しやがって……」
もはや理性の欠片もない口調で、男は腕を振り上げると、舞たちの前方のドアに向か って、何か液体のようなものを投げつけた。
すると信じられない事に、床や扉に飛び散った液体から、見覚えのある異形の物の怪 たちが、ムクムクとその姿を現し始めた。
「こいつら…さっきの!」
吐き捨てるように呻きながら、瀬戸口は、無意識に構えの態勢を取る。
「やれ!ガキどもを血祭りに上げろ!」
狂気を帯びた男の声に続いて、物の怪たちは、一斉に舞に向かってきた。
舞は、来須に速水を託すと、腰から小太刀を抜いた。
まるで男の悪意が、そのまま具現化したかのような魍魎どもの猛攻を交わすと、舞は 利き手から突きを繰り出し、その身体を貫く。
しゅうしゅう、と煙のように消え失せていく異形の化け物を尻目に、愛用の武器を構え た舞は、彼女のフォローに入ろうとした瀬戸口や来須を、逆手で制した。

「──手を出すな」
「しかし…!」
「そなたたちが、手を下すまでもない。……化け物の相手は、化け物の方が相応しい」

口元を僅かに歪めながらの舞の言葉に、瀬戸口は、瞬時身体を硬直させる。
来須は、主(あるじ)の背中を苦々しく見つめていたが、己の腕に力なく身体を預け ている存在に気づくと、彼の頭に載せた自分の帽子を、更に深く押し込んだ。
「…な、なに?」
訝しげな声が上がったが、来須はそれを敢えて無視する。
極力、速水の視界を遮るようにして、来須は彼らとは少し離れた場所へと移動した。
だが、
「…っ」
舞の事が心配な速水は、来須の隙をついて、必要以上に深く被せられた帽子を動かした。
微かにこぼれてきた視界から、瀬戸口の背中と、しきりに何かを喚き続けている男の姿 を確認する。
そして。
左手に小太刀を握る舞の横顔を見つけた瞬間、彼の全身に戦慄が走った。
『舞……?』
男の操る魍魎どもと相対する彼女の姿は、今まで速水が見た事のないものだったからだ。
「芝村一族の姫君」でもなければ、自分のよく知る「電脳の騎士」でもない。
すべてのものを凍てつかせるような、冷酷なまでに研ぎ澄まされた彼女の瞳と太刀 さばきに、速水は心の底から恐怖した。


『僕は、こんな凄い人を、自分のものにしようなどと考えていたのか』


こみ上げてきそうな感情を必死に抑えながら、それでも速水は、舞から視線を離せずに いた。


断末魔にも似た耳障りな音を残して、最後の魍魎が、舞の小太刀に一閃された。
現世への未練の声を上げながら、霧散していく様を見下ろすと、舞は、自分たちと は反対の壁際で、激情に身を震わせている男に近づく。
「化け物が……」
「───その通りだ。自分でも、よく判っている」
男の呟きに、わざとらしく肩を竦めると、舞は、己のヘイゼルの瞳を僅かに和らげる。
「悪い事は言わぬ。このまま黙って退くが良い。そなた如きの浅知恵で私をどうこう するなど、20世紀早い」
太刀を収めながら、近づいてくる「芝村の変異体」を、男は怒りと、それ以上の恐怖に 支配された瞳で見返す。
「く…」
「……私は、この事を誰にも口外するつもりはない。勿論、『連中』にも。私の望み は、速水を…私の相棒を返して欲しいだけだ」
皮肉でも揶揄でもなく、真剣な表情で、舞は男に提案を持ちかける。
「過去における、そなたの言い分もあるやも知れぬが、もうこの辺で、速水を解放 してはくれまいか?そうでなければ…私は、そなたを斬らねばならぬ」


「──ふ、」
刹那。

柳眉を顰めながらの、少女の姿をした化け物の言葉を、黙って聞いていた男の表情 が、奇妙な形に歪んだ。
「ふふふ……クックック……」
「何がおかしい?」
思いがけない男のリアクションに、舞は舌を止めると不審な視線を送る。
「これが、笑わずにいられるか。芝村のイレギュラーよ……貴様の言う『相棒』と は、一体誰の事だ?」
「聞かれるまでも無い。速水に決まっておろう」
「…速水?…そんな筈は無いだろう。『速水 厚志』が、お前の相棒の訳がない」
「……どういう意味だ?」
「やはり、お前は何も知らぬのだな。お目出度いヤツよ」
身をくねらせながら嘲笑する男の濁った瞳が、来須に支えられたままの速水に注 がれた。
どす汚れた視線を浴びた瞬間、男の意図に気づいたのか、速水の顔がこれ以上な いほど強張る。

「いい事を教えてやろうか、お姫様……」
「──やめて!」
心の底から楽しそうに口元を動かす男に向かって、速水は必死の形相で叫んだ。
来須の腕を強引に振り払うと、力の入らない脚で床に下り立つ。
「何でも言うとおりにするから……お願いだから、舞にそれだけは言わないで!」
「速水…?」
「どうしたんだよ、坊や?」
震える瞳で哀願する少年に、男は益々残忍な笑みを貼り付かせると、

「いいじゃないか。お前の正体を知った小娘が、お前に対する考えを改めるかも 知れんぞ」

男は、怯えきった少年と、僅かに戸惑いの表情を浮かべた少女を見比べると、喉の 底から嗄れ切ってはいたが、高らかな笑い声を上げた。




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