『洗濯(前編)』



蒸し暑いハンガーの中で、原はもやもやした気分を抑えきれずにいた。

悪いのは自分だ。今まで自分が彼女にしていた仕打ちを露呈され、そ のしっぺ返しが来ただけだ。当たり前の事である。
だが、頭では判っていても、内面にくすぶった感情は簡単に押し込め られるものではない。
整備主任のデスクに腰掛けたまま、原は眉根を寄せて腕を組んでいた。

「あっちいなあ…こんなクソ暑い中で、仕事なんかやってられっかよぉ」
無造作に伸ばされた髪を掻き毟りながら、1番機整備士の田代が不満の 声を上げた。
「……確かにこれはたまりませんね。こんな時こそ、小隊に福利厚生施 設のひとつでも陳情して頂けると有難いのですが」
こちらは丁寧に長髪を結んだ遠坂が、作業の手を止めて額の汗を拭う。
作業中のハンガー内部は、まるでサウナのように温度が上昇してしまう。
「───無駄口を叩いている暇があったら、仕事をしなさい。19時まで は勤務時間なのよ」
原は顔を上げると、田代と遠坂のふたりに注意した。
それを聞いて、遠坂は素直に作業を再開したが、田代はちらりと原に視線 をやると、何処か嘲るような口調で言い返してきた。

「百翼長殿は羨ましいですね。そうやってオレたちに命令していれば、ど んな事でも従わせられるんですから」
「…どういう意味かしら?」
田代の挑発に、原は眉根を寄せる。
「……別に。深い意味はありません。ただ、いくら人間として最っ低な性 悪女でも、仕事が出来る上司ならば、我々は従わなくてはならないのかと 思っただけであります」
今度は正面を向いて雑言を吐く田代に、原は弾かれたように立ち上がった。
頭の奥が煮えたぎっているのは、ハンガーの熱気のせいだけではない。
「今の発言を撤回しなさい。さもないと……」
「全部事実だろ?あんたが石津にやった事は!」
原の怒りの形相をものともせず、田代は階級も忘れて逆に原に凄んだ。
一触即発、といった矢先。

「──何をしているのですか?あなたたちは」

ハンガーの入り口から、善行が靴音を鳴らしながら現れた。意外な人物の 登場に、思わず全員がその場に凍りつく。
「仕事中に私情を持ち込むのは慎みなさい。いいですね?」
「…はっ」
視線を向けられて、田代は慌てて襟を正すと、善行に敬礼のポーズを取る。
「──原百翼長」
今の自分にとって一番聞きたくない男の声が、原の鼓膜を刺激する。
「あなたのプライベートに、口出しする気はありませんが…仮にも上官なら ば、部下の管理くらいしっかりしていただかないと困りますよ」
「……」
「復唱はどうしました」
「…了解しました」
震える右手をかざしながら、原は喉の奥から搾り出すような声を出した。
善行がハンガーから出て行くまで、原は唇を噛み締め、ずっと下を向い ていた。


先日、原は舞から自分の所業を暴かれて以来、絶えず周囲から非難の的に されていた。
陰口のように囁き合う者もいれば、「ボク、あんなインケン女の下で働き たくない」などと、普段からサボってばかりいる整備士たちに、仕事のボ イコットをされた時もある。
その場は速水たちパイロットや善行によってどうにか事なきを得たが、そ んな状態が2、3日も続いてしまっては、自業自得とはいえ、さすがに心 身ともに疲労困憊してくる。
今の原にとって、暑すぎるハンガーの中は、ある意味拷問部屋のようにも 思えた。

「……先輩」
整備のデスクで書類をまとめていると、森が気まずそうに声を掛けてき た。
「なにかしら?」
「あ、あの…私……」
先日の一件で、彼女も原ほどではないが非難の矛先が向けられていた。
十翼長という階級がなければ、相当な嫌がらせを受けていたかも知れな い。
「──あなた、もう必要以上に私に近寄らない方がいいわよ」
森の言わんとする事を察知した原は、先に話を切り出す。
「え?あの、でも」
「…元々、あなたは私に言われて付き合っていただけなんだから。みん なにもそう言っておきなさい」
「先輩…」
森の視線を避けるように、原はデスクを離れると、ハンガー2階に続く階 段を上った。暑い事には変わりないが、1階よりは風が入るので、多少 は涼しく感じられた。
「……」
乱れた髪を直しながら、原はふぅ、と息を吐いた。

「───やはり、ここは暑いな」

その時。士魂号の影から舞が汗を拭いながら現れた。
まさかまだ人がいるとは思わなかったので、原は僅かに狼狽した。
「…何か用なの?」
「いや。そなたが階段から上がってくるのが見えたので、声を掛けた だけだが」
「そう」
努めて平静に返すと、原は掲示板に視線を走らせた。もっとも読むふり をしているだけなので、頭の中には何も入ってこない。
「………いい気味だと、思ってるんでしょう」
ややあって、原は顔は上げずに口を開いた。舞は、無言で原の方を向く。
「…別に、あなたを恨んでなんかいないから。悪いのは私だって判って いるし。…それに、人の噂もなんとやら、というでしょ?当分の間は罰 だと思って我慢する事に決めたから」
半ば投げやりに、原は開き直るように言った。言いながら、自分の姿が どれだけみっともなくて格好悪いか、嫌になるほど自覚していた。
「…だが、今の状態では、小隊に悪影響が出ている。そなたの我慢だけ で、解決する問題とは思えぬが」
「──あなたにそんな事言われる筋合いないわよ!」
的を突いた舞の返事に、原は感情を揺らめかせた。ハンガーに大声が響 く。
しかし、舞は構わず言葉を続けた。
「本当にしなければならない事が、何であるのか…そなたはすでに知 っている筈だ」
穏やかな舞の声は、それでも鋭い糾弾の色を帯びていた。
原は、何も言えずに俯いた。手すりに手を付いて、今にも崩れてしま いそうな自分の身体を支える。
舞は、そんな原に背を向けると、外に通じる出口へと向かった。

「…そなたは最近、夜空の星を見たことはあるか?」
「…え?」
思いがけない質問に、原は思わず声を出す。
「その内に見せてやろうか。中々綺麗なものだぞ」
無防備に目を丸くさせる原をよそに、舞は口元に笑みを浮かべながら出 ていった。


「聞いて聞いてー!芝村が、シャワールームの陳情したんだってー!」
翌日の昼休み。2組の教室では、相変わらず元気な新井木の大声が轟い ていた。

「マジかよ?これで、サウナ地獄から開放されるな」
「訓練の後にも使えますね」
「ここで汗を流せれば、銭湯に行くお金を浮かす事が……い、いえ、な んでもありません」
2組の生徒たちは、それぞれに集まって昼食の支度を始めていた。
誰にも声を掛けられず、ひとり席に着いていた原は、気づかれないよう に息を吐くと、無言で弁当箱を鞄の中から取り出した。
「そのシャワー室は、いつ完成するんですか?」
「さっき、プレハブに業者の人が来ていたようですから、早ければ明日
にも使えるらしいです」
「…へへ。芝村っていけ好かないヤツだけど、誰かさんみたいに人をい じめるようなインケンな真似をしないってトコだけは、尊敬できるね」

わざと聞こえるように、新井木はひとり言を言った。
場の雰囲気を読み取れないのは、彼女の欠点である。たちまち教室に暗 雲がたちこめた。
「お前だって、普段さんざんっぱら、他人の悪い噂流しまくってるじ ゃねーかよ。人の事いえんのか?」
低次元な新井木の行動に、茜が横槍を入れる。だが、新井木はお構いな しに続けた。
「いーんだよ。向こうだって、ボクの陰口言ってんだから。お互い様 ってヤツ?」
「…ちょっと新井木さん、言いすぎですよ!」
「何よ、えらそーに!もりりんだってあの人の片棒担いでたクセに、調 子よく善人ぶらないでよねー!ムカツク!」

原は、辛うじて平静を保っていた。今回の出来事は、確かに自分の愚行 が原因で起こったものである。
だが、ここまで一方的な誹謗中傷を受けるいわれはない。
耐え切れなくなった原は、机の端をギュッと掴むと、立ち上がろうと腰 を浮かせかけた。
だがその時、

「──原、ちょっといいか?」

凛とした声が周囲を取り巻いた。見ると、書類を手にした舞が原の所 へ歩み寄ってきた。その颯爽とした足取りに、思わず誰もが目を奪わ れる。
「…なにかしら?」
舞の姿に、どうにか気を落ち着けた原は、彼女に問いかけた。
「裏庭の廃材を借用したいのだ。善行に尋ねたら、そういう事はそな たの許可が必要だと聞いたのでな」
そう言って、舞は書類を原の前に差し出す。
「オイルの空きドラム缶に、ブロック数個に板切れ数十枚……?みん なガラクタばかりじゃない。こんなものを使って、何をするつもりな の?」
「詳しくは言えぬが、悪用はせぬ。使用後は責任を持って解体、処分 をする。許可してもらえぬか?」
「別に構わないけど……」
ためらいがちに頷くと、原は筆記用具を取り出し、書類にサインをす る。
その姿を見下ろしながら、舞は原の耳元で小さく囁いた。

『話がある。今夜、仕事が終わったら屋上に来てくれ』
「──え?」

自分に向けられた舞の提案に、原は目を瞬かせる。
「では、確かに受け取った。感謝する」
舞は書類をひらひらさせながら、入ってきた時と同じ足取りで去って いった。



>>BACK    >>後編へ続く