『お箸の国の人だもの』



板張りの床を雑巾で拭き終えると、舞はふう、と腰を上げた。
「よし。これで綺麗になったな」
満足そうに頷きながら、周囲を見回す。築60年という年季の良さを裏 切らない、見事な旧さを誇る空間に、舞は心の底から満足していた。

それまで芝村の実家で暮らしていた舞は、3月からの戦車小隊への 入隊を前に、引越しをする事になった。
世界屈指の一族の姫君にあてがわれた新居とは、何と築60年という 古ぼけたアパートであった。
あまりの落差に、一体どのような不平が彼女の口から漏れるかと思 いきや、

「──素晴らしすぎる」

ヘイゼルの瞳を輝かせながら、舞は地震が来たら一発で倒壊するん じゃなかろうか、という建物をうっとりと見上げていた。
それからというもの、本格的な転居を前に、舞は掃除用具一式を持 参しては、日がな一日新居の手入れに明け暮れているのだ。
「…このような、第2次世界大戦前の旧きよき家屋に独り暮らしが が出来るなど、まるで夢のようだ」
畳のホコリを箒で払いながら、舞は嬉しそうに呟く。
「今回ばかりは、『あの男』に感謝をしなくてはな。少しは自分の作 った道具に愛着を持つのも大切な事だぞ」
そう独り言を言いながら、舞は土間の向こうにあるかまどに近付い た。ガスの通っていないこのかまどには、薪や炭火を用いて料理を する事になるだろう。
「…この日の為に、炭火やかまどでの料理を覚えておいて本当に良 かった」
火をくべる穴を見つめながら、舞はニッコリと微笑んだ。

「──楽しみだなあ♪」
思わず芝村らしからぬ言葉遣いでかまどに触れると、舞はこのアパ ートでの新生活に思いを馳せる。
少なくともこの時だけは、自分に課せられた使命も運命も、聡明な 筈の彼女の頭の中からはすっかり抜け落ちていた。


1999年3月3日。
「他の荷物は、後で搬入させる。今日からここがそなたの…」
言いかけて、勝吏は従妹の姿が自分の目の前から消えた事に気付 いた。
慌てて更紗が周囲を見渡すと、かまどを嬉しそうに撫でている舞 を発見する。
「──何をなさっているのですか?」
「…はっ、」
訝しそうにこちらを見つめてくる視線に、舞は我に返った。
「すまぬ、何でもない。説明を続けてくれ」
表情を引き締めると、舞は至極冷静な口調で、勝吏に話の続きを 促した。
……ただし、彼女の左手はかまどの上に置かれたままであったが。
「…ここでの生活は、芝村の屋敷とは違う。それだけは肝に銘じ ておけ」
従妹の奇行に僅かに渋面を作りながら、勝吏は板張りの廊下を進 む。
その背中には、『とっとと用事をすませて帰りたい』という本音 が、ありありと映し出されていた。

「一応、このアパートにも電気と水道は通っている。ガスは通っ ておらぬが、別段不自由はないであろう」
天井から申し訳程度に吊るされた旧式の電灯を触りながら、勝吏 は舞に説明する。
「無論だ。何も問題無い」
舞は、ここに来る前にコンピュータや情報誌などで、アパート周 辺の地理をリサーチしていた。
ガスがなくとも、かまどで料理は充分楽しめるし、風呂は近所の 銭湯か、小隊に入ったら福利厚生施設でも陳情すればすむ事だ。
鷹揚に頷く舞をよそに、勝吏は一番肝心な事項を従妹に伝える 為に、床の間まで移動すると、一本の太い柱に触れた。
「……ここにお前の多目的結晶を繋いでみろ」
「…?」
素晴らしいまでの年季を誇るその柱と、多目的結晶というあま りにもミスマッチな取り合わせに、舞は訝しそうな顔をする。
「何故、そのような事を?」
「いいから、言われた通りにしろ」
重ねて言われた舞は、首を捻りながらも自分の多目的結晶を柱 のくぼみに近づける。
するとキン、と音を立てて周囲の空間が揺れたかと思うと、舞 の身体は見知らぬ部屋へと運ばれた。

「──!?」
一瞬にして変貌した風景に、舞はヘイゼルの瞳を驚愕に見開いた。
今にも朽ち果てんばかりの旧さに満ち満ちていた和室の床の間が、 TVドラマのセットのようなシステムキッチンの 一角に様変わりしていたのだ。
「これは……」
「驚いたか?」
呆気に取られる舞の背後から、勝吏と更紗が姿を現した。
「ここが、お前の真の住居だ。先程のアパートから多目的結晶 を用いて特殊なアクセスをすると、この部屋に辿り着く事が出来る」
悠然と腕を組みながら、勝吏は説明する。
「この部屋は、小隊の他の連中も居住する宿舎の最上階に位 置する。もっとも外からの侵入は不可能だがな」
「…は?」
「──お前、まさか本気であのボロアパートに住む気でいたのか? 仮にも芝村一族の姫君を、あのような場所に単独で住まわせる筈 がなかろうが」
追い討ちともいえる勝吏の言葉に、舞の新しい生活のビジョンは、 ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「…だったら……」
「──何?」
そのまま暫く俯いていた舞は、やがて顔を上げると正面から従兄 の顔を睨みつける。
見慣れているとはいえ、剛毅な視線を放つヘイゼルの瞳に、勝吏 は内心で僅かにたじろぐ。

「だったら、最初っから人に無駄な期待を持たせんなよーっ! 旧き良き戦前の日本家屋で、憧れの独り暮らし満喫するっつー、 人の純情何だと思ってやがる、この妖怪ーっ!」

舞の怒号が、新居の壁にビリビリと反響した。
そのあまりの迫力に、勝吏だけでなくふたりの様子を遠巻 きに見ていた更紗までも、気付かれない程度に瞳孔を開いている。
「芝村ともあろう者が、純情などと陳腐な言葉遣いはやめよ」
「黙れ!このぬらりひょん!」
「貴様…言うに事欠いて今の比喩は何だ!誰がぬらりひょんだ誰が!」
「そなた以外の誰がいる!少しは自覚しろたわけ!」
「ふざけるな、このじゃじゃ馬が!」
憤慨する舞につられて、勝吏までもが、市井の人間の言葉遣いを用いて 彼女に対抗する。
芝村一族の男と女の低レベル極まりない争いは、業を煮やした更紗が空砲 を鳴らすまで続いていた。

「あれの様子はどうだ」
多目的結晶のアクセスを通じて、再び築60年のボロアパートに 戻ってきた勝吏は、背を向けたまま更紗に問い掛ける。
「……未だ、かまどの前でベソをかいておられます」
厨房のある土間から聴こえてくる啜り泣きを耳にしながら、更 紗が僅かに感情を含んだ声で返事をした。
「連れてこい。そろそろあいつの入隊激励会の用意の時間だ」
「ですが……」
「───いいから連れてこい」
「かしこまりました。では……」
そう言うと、更紗は足音も立てずに土間に移動すると、かまどを 撫ぜながら泣きべそをかいている芝村の姫君の背後に移動する と、腰に携帯した黒い拳銃を取り出す。
そして、
がつんっ!

「はうあっ!」


「お連れ致しました」
拳銃の柄で舞の後頭部を殴りつけた更紗は、そのまま気絶してい る舞の襟首を引き摺りながら、勝吏の前まで戻ってくる。
「…君も何気に容赦ないね……」
副官の隠れた性格を覗いたような気がした勝吏は、あくまで冷静 な彼女と、従妹の頭に出来たでっかいタンコブを見比べながら、 しみじみと呟いた。


「…という訳で、私が住んでいる宿舎では炭火が使えぬのだ。あ のような『しすてむきっちん』など、私の性には合わぬ」
七輪の前に中腰になった舞は、ため息を吐きながらうちわで火加 減を調節する。
昼休みの校庭前で、舞は制服の上にエプロンをしめると、料理の 支度を始めた。意外ともいえる手際のよさに、周囲から好奇と感 心の視線が集まる。

……ただし、彼女の身に付けたエプロンに筆で殴り書きされた 『久遠 戦車兵型』という文字が、妙に気になったが。

「そうだな。俺も、炭火で作るメシは最高だと思うぜ。…そろそろ いいかな」
舞に火加減を任せていた瀬戸口は、七輪の網の上で炙っていた初 鰹の身を下ろした。
「よし。瀬戸口、これを調理場で食べやすい大きさに切り揃えて くれ」
「了解。初鰹はクセがないからいいよなぁ。そう、まるで汚れを 知らぬ生娘のような食感が……」
「──とっとと行ってこい」
「焼きおにぎり、出来たわよー」
もう一つ用意した七輪で焼きおにぎりを作っていた原が、舞に声 を掛けてくる。
「普通のおにぎりも準備完了デース!」
調理場のガス台にいた小杉も、戸口から身を乗り出してくる。
「お味噌汁もできましたよ」
続いて、割烹着姿の壬生屋からも声がかかった。

…以上の5人は、実は密かに結成された『和の食文化愛好会』のメ ンバーなのである。
会長を務める舞をはじめ、各会員たちは「純粋に和食を心から楽しもう」 という名の下、今日も今日とて昼休みを中心に活動をしているのだ。
しかし。

「あ〜っ!いいないいな、自分たちばっかりー!」
「春に初鰹とはイキじゃねーか!ビール飲みてぇなあ…」
「美味しそうですね。このおかずと交換してくれませんか?」
「ののみも食べたぁーい!」
育ち盛り(一部を除く)が集まる小隊の中で、しみじみ味わえる 筈もなく、結局は隊員総出の賑やかな昼食会となるのが常であ った。
「も〜っ。材料費だってバカにならないのよ。あななたち、図々 しすぎ!」
「かてー事はいいっこなし!食事は大勢で囲む方が美味いっつーじ ゃんか」
「そうですね。では、今度から食べたい人にも手伝って頂きま しょうか、ねえ?」
「良いかも知れぬな」
壬生屋の言葉を聞いて、舞は目を細めて答える。
「それにしても…芝村さん」
焼きおにぎりを食べながら、善行が尋ねてくる。
「あなた、まだ根に持っていたのですか…聞きましたよ。先日あな たが例のボロアパートのかまどで火を熾そうとしたら、警報装置 が働いたそうですね」
知ったような口ぶりに、舞は僅かに眉を顰めると、苦々しく答える。
「…まったく、詐欺としか言いようがなかった。確かに『しすてむき っちん』は便利だが、それだけでは和食の良さを語る事が出来ぬ」
「はぁ……まあ、あなたの料理の腕前は中々ですからね。近い将 来、あなたの手料理を食べる男性は、きっと幸せだと思いますよ」
「男性?私のか?」

善行と舞の会話に、何処からか数種類の空気がぴくん、と張り詰め る。
「それはないだろう。きっと将来は、嫁かず後家となった私が独り 寂しく料理をしているのが関の山だ…ああ、そうだ。善行、その時 には是非食べに来てくれぬか?」
「……そうですねぇ」
笑って会話をする舞とは対照的に、善行は、突如背後に感じた片手 では足りないほどの殺気を感じながら、言葉を濁した。


澄み渡った晴天の下。

「いつか僕(俺・私)が、舞の手料理をゲットしてみせる」

賑やかに食卓を囲む中、水面下では男たちの熱き戦いが、舞の知 らない所で静かに始まろうとしていた。


小石川の芝村さんは、学兵用宿舎の最上階に住んでおります。
はじめは実家から色々世話人が面倒を見ていたのですが、後に彼女はそいつら全員を 「不要だ」と追い返して、以来完璧な独り暮らしを満喫しています。
芝村さんは、炊事・洗濯何でもこなすので、更紗さんもあまり彼女の所には訪れ ません。
…ひょっとして「お笑い部門」でも、あのふたりはくっつくのか?
───何だか物凄く怖い気がするのですが(汗)



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