『これもまた、ひとつの未来』




「舞?舞じゃない!」
司令部の回廊を歩いていると、聞き覚えのある女性の声が舞を呼 び止めた。
振り返ると、何処となく面影のある眼鏡の美女が、悠然とこちら に向かってきた。
舞は、近付いてくる美女を見つめると、やがて懐かしそうに声を上 げる。
「…原?」
「──あら、かつての戦友の顔を忘れたの?失礼しちゃうわね」
口ではそう言うものの、原は舞の目の前で歩みを止めると、嬉しそ うに微笑む。
あの頃の少女のような風貌とまではいかないが、年齢を経た特有の 美しさが、彼女の笑顔に刻まれていた。


原は戦後大学の研究室に入り、そのまま軍の開発部へ配属した。
その類稀なる才能と技術は開花し、今やあの『茜=フランソワーズの 再来』とまで呼ばれ、軍にとってなくてはならない存在となってい る。


「あなた、戻ってきたのね。一体どうしたのよ?あの後何も言わず に、突然行方を眩ませたと思ったら……」
「戻ってきたと言うよりは、呼び出しが掛かったから仕方なくや ってきた、と言う方が正しいわ」
原の言葉に、舞は小さく苦笑する。
「───変わったわね…あなた」
「そうかしら?」
「ええ。少なくとも昔は、もっと尊大で偉そうな態度で話をして いたわ」
わざとらしく眼鏡をずらすと、原はくすくすと忍び笑いを漏らす。
「そうね。あの頃は、ただの世間知らずのお嬢さんだったから」
「自分で言うの?そんな事」
ふたりは顔を見合わせると、女学生のように笑い声を上げた。


「知ってる?戦後再開された高校総体で、熊本のバスケチームが
優勝したんだけど、何とそこの監督があの狩谷くんだったの!」
「瀬戸口は、幼稚園の先生をしていると聞いたけど…壬生屋がいた ら、ただでは済まないでしょうね」
「あら、彼の勤める幼稚園には、時々壬生屋さんも剣道の先生とし て通っているのよ」
「……情景が目に浮かぶようだわ」
地階に位置するラウンジに腰掛けると、舞と原は思い出話に花を咲 かせていた。
ひとしきり話し終えると、舞は原に改めて尋ねる。
「開発の部署は、違う敷地にあると聞いたけれど…ここ(司令部)へ は何をしに?」
「今日は、新しい設計図を見せに来たのよ。詳しくは話せないんだ けど」
カップに注がれた紅茶を飲みながら、原は舞の質問に答えた。
「…でも、本当に元気そうで良かったわ。私は、アイツからそれと なく話を聞いていたから、うすうす事情は知ってたけど……みん な、あなたの事を心配しているのよ」
気遣うような原の声に、舞はそっと視線を外す。

舞は芝村の戸籍を抜けた後、ずっと別の名前で生活をしていたの である。
彼女が姓を変えた事やその後の連絡先などは、ごく僅かな人間にし か知らせていなかったので、かつての仲間たちの中には、舞が死ん でしまったのでは、と早とちりする者も少なくなかったのだ。

「…善行は元気?」
原の口から『アイツ』という単語を聞いた舞は、話題を反らそうと 再び質問を投げかける。
「……どうかしらね。一応、暑中見舞いと年賀状のやり取りだけは しているけど」
「この御時世に葉書のやり取りね……」
「──何よそれ」
嘯く舞に、原は僅かに狼狽する。
「…あ〜あ。アイツに出会った所為で、私の人生設計メチャクチ ャよぉ。そうじゃなかったら、今頃は普通に学校出て何年かお勤め した後、平凡な主婦として生きてる筈だったのに」
「───その割には、随分と良い顔をしていると思うけど?」
「あらそう?あなたも眼鏡作った方がいいわよ」
原はそう言うと、再びカップに口を付ける。舞は薄く微笑みなが ら、その様子を眺めた。
その時、

「こちらでしたか、原博士」

管理職らしい中堅士官が、ふたりのテーブルの前まで歩いてきた。
舞の姿に気付くと、僅かに緊張した面持ちに変わりながらも、敬 礼の仕草をする。
「研究所の方から連絡が入っております。恐れ入りますが、至急お 戻り下さい」
「後でじゃダメ?折角久しぶりに、旧友と再会を楽しんでいる所な んだけど」
「気にしないで。私も、そろそろ行かないと」
不満そうに士官に答える原を制すと、舞は席を立った。
「仕方ないわね。じゃ、又今度一緒に食事でもしましょう」
「……原。あなたは、今幸せなの?」
立ち上がる原の横顔に、舞は尋ねてみる。
「───幸せよ、とっても。婚期は逃しちゃったけどね」
原は視線を動かしながら、快活な声で返事をする。
「それに…私が幸せでいる事は、アイツへの何よりの復讐なの」
悪戯っぽく笑いながら、原は先程ずらせた眼鏡を元に戻すと、士官 と共にラウンジを出て行く。
その姿を見送りながら、舞は先程の原の表情と仕草に、彼女の言葉 が偽りでない事を確信していた。


関東某所。
「……面白い名前が出てきましたね」
軍の司令部にある将官用の執務室で、善行忠孝は、ずれた眼鏡を直 しながら、熊本地方の任官リストに目を走らせていた。
『フフフ。今頃何を思っての登場でしょうねぇ』
「……まったく、何処の回線を使って現れたんですか。一応もうあ なたは、民間に籍を置く人間の筈でしょう?」
彼専用のプライベートの回線に突如入ってきた通信と、嫌になる程 聞き覚えのある声に、善行は渋面を作った。
『はい。しかしそれ以前に、あの一族に籍を置く者でもありますか ら。…彼女のように、自分の意思で断ち切れるほど強くはないで すし』
「──それは、お互い様ですよ」
自嘲気味に口元を綻ばせると、善行はリストに掲載された舞の写真 と名前を確認する。
「彼女がこの名を選んだのは…やはり『あの男』への挑戦でしょう か」
独り言のように呟くと、善行は既に冷めかかっていたコーヒーに口 を付ける。
『彼女らしい選択といえば選択ですね。…近頃の彼女を見ている と、まるで「彼」そのもののように思う時もあります』
「───彼女が聞いたら怒るでしょうがね」
岩田の言葉に善行は苦笑すると、読み残していたリストの最後の ページに目を通した。
「…これは……」
『どうしました?』
珍しく感情のこもった声に、岩田は善行に問い掛ける。
「いえ…彼女の他にも、珍しい名前を見つけたものですから」
岩田の質問に答えながら、善行は眼鏡を掛け直すと、リストの最後 に記載された男性士官の名前と写真を凝視した。



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